第59話:焦りと悔しさ
一、 刻まれる十二時間と雨の静寂
ゴゴゴゴゴゴ……と、不気味に低く響く地鳴り。
海洋都市アクアリアの足元を支える巨大なサンゴ礁が、深海の【概念吸魔陣】によって生命マナを強引に吸い上げられ、ミシミシと音を立てて悲鳴を上げていた。
沖合の天を衝く黒いマナの柱。
オルタが提示した最悪の現実――【残り時間:十二時間】。
十二時間以内に深海三千メートルの海底にある吸魔陣を解体しなければ、この海のマナは完全に死滅し、アクアリアの街は十五万人の住人ごと、忘却の底へと沈没する。
「はぁ……はぁ……っ」
雨の降りしきる宿屋の屋根の上。
カルムは、泥と血にまみれた両膝を突き、打ちひしがれていた。
目の前で包帯の巻かれた腕を擦り、悲しそうな目を向けるアル。
自分を心配して追ってきてくれた相棒の手を、拒絶のあまり弾き飛ばし、再び血を流させてしまったという事実。
(俺は……何やってんだ……ッ!)
激しい焦燥。
そして、自分に対する底知れない「悔しさ」。
カルムは、雨で塗れた自分の両拳を、爪が掌に刺さるほど強く握り締めた。
「カルム……」
アルが、冷たい雨の中で静かに歩み寄ってきた。
弾き飛ばされた左手の傷を気にする風もなく、アルはカルムの目線に合わせて、その濡れた屋根の上に膝をついた。
「行こう、カルム。濡れちゃったから、お部屋に入ろう……」
「……触るなと言っただろ」
カルムの声は、枯れ果てた樹木のように掠れていた。
彼は顔を上げず、赤銅色の髪から滴る雨水を見つめたまま、絞り出すように呟いた。
「俺は……俺は役に立たねぇんだよ、アル。深海じゃ炎は点かねぇ。お前の手を庇うこともできねぇ。……それどころか、焦って暴れて、お前を傷つけた……」
「カルム!」
アルの声が、雨音を切り裂いて強く響いた。
アルは、包帯で覆われたその両手で、カルムの冷え切った、血まみれの大きな右手を、ぎゅっと力いっぱいに包み込んだ。
「そんなこと、言わないでよ……ッ!」
「アル……っ!?」
カルムがハッとして顔を上げた。
アルの漆黒の瞳からは、大粒の涙が溢れ出していた。だが、その瞳に宿る『炉』の輝きは、微塵も陰っていなかった。
「僕がスラム街で死にそうだった時……カルムが僕を助けてくれた! カルムが『俺が味方になってやる』って言ってくれたから、僕は包丁を振るえたんだよ!」
アルは、涙で濡れた顔で、力強くカルムを見つめた。
「カルムの炎が、深海で消えちゃったのは……カルムが弱いからじゃない! カルムが、僕やみんなを護ろうとして、必死だったからだよ!……だから、自分のことを役立たずなんて言わないでよッ!!」
二、 ギルの造船所での叫び
「おーい! ここにいたか、お前たちッ!!」
雨の屋根の下から、ドカドカと激しい足音が響き、船長のギルが姿を現した。
ギルの全身もまた、シーホーク号の緊急補修で傷と油にまみれていた。その手に握られた『白銀の銛』が、街を揺らす地鳴りに反応して低く共鳴している。
「街の地鳴りを感じたろ! オルタの嬢ちゃんから聞いたぞ! 残り十二時間だってなッ!」
ギルは、屋根の上に駆け上がると、血まみれで座り込むカルムと、彼の手を抱きしめるアルの姿を見て、三白眼を厳しく細めた。
「……何しけたツラしてやがる、赤毛の」
「……ギル……」
「俺の船の補強は終わった。深海の水圧に耐えられるよう、二重の装甲板を溶接し直した。……だがな、肝心の『火力』がねぇ。お前がそんな腰抜けみたいな面して、雨の中でウジウジ泣いてやがったら、俺たちはどうやって深海のバケモンを打ち破りゃいいんだッ!」
ギルの喝。
それは、同じ「一度折れかけた男」だからこそ解る、愛のある怒号であった。
カルムは、屋根の上の濡れた木材に、ドガッ! と拳を叩きつけた。
「分かってんだよ……っ! 分かってんだよ、ジジイッ!!」
カルムが立ち上がり、雨空に向かって咆哮した。
「俺が一番焦ってんだよッ! 俺が一番悔しいんだよッ! アルが包丁一本で海竜の鎖を切ったのに……俺の炎は、深海の水圧一粒すら押し返せなかった! 相棒だって胸張ってきたのに……俺はただの足手まといだったんだよッ!!」
胸の中に溜め込んでいた、ドス黒い焦燥と情けなさが、すべて言葉となって爆発する。
「俺はスラムのゴミ溜めで生まれて、相手をブッ殺すための火しか知らねぇ! 破壊することしか知らねぇ俺の炎じゃ……海に届くわけねぇだろッ! 俺にどうしろってんだよぁぁぁぁぁっ!!」
カルムの慟哭。
雨が、彼の赤銅色の髪と、血と涙の混ざり合った顔を冷たく洗っていく。
ギルは、そんなカルムの言葉を、全開で受け止めた。
逃げもせず、反論もせず、海の男としてのドッシリとした佇まいで、カルムの咆哮をすべて聴き届けた。
そして、ギルは、カルムの胸元を、大きな手でガシッと強く掴み寄せた。
三、 海の男の背中と、熱の「向き」
「バカ野郎」
ギルは、静かに、だが腹の底から響く声で言った。
「破壊することしか知らねぇだと? ……笑わせんじゃねぇぞ」
「なに……?」
「お前が昨日、市場でブイヤベースを作るアルのために、火を熾したのを見たぞ。お前の炎は、あの時、魚の生臭さを消し、スープを煮立て、絶望してたこの街の連中の胃袋と心を……あたたかく温めてただろうがッ!」
ギルの言葉が、カルムの胸を強く突いた。
「深海で炎が消えたのは、お前が弱いからじゃねぇ。お前が海を『殺すべき敵』として睨みつけ、力任せにブッ壊そうとしたからだ!」
ギルは、己の背中にある白銀の銛をバシッと叩いた。
「海ってのはな、力でねじ伏せようとすりゃあ、何万倍もの質量で押し潰してくる無慈悲な存在だ。だがな、海を愛し、海を理解し、命の循環のために銛を打てば……海は味方になってくれる」
ギルは、カルムの血まみれの右拳を、自分のゴツゴツとした手で強く握り締めた。
「お前の炎も同じだ、カルム。お前の中に燃えてる火は、誰かを殺すための火じゃねぇ。アルの『炉』と同じ……『生きるための熱』なんだよ」
「俺の火が……『生きるための熱』……?」
「そうだ。火力を上げようとするな。海を破壊しようとするな。……ただ、アルを護りたいという『熱』を、あの深海の冷たさに負けねぇくらい、真っ直ぐに燃やせ!……それが、男の『火力』だッ!!」
ギルの言葉が、カルムの魂の奥底、スラム街のゴミ捨て場で凍え死にそうになっていたあの日に灯った【火種】に、ダイレクトに薪をくべた。
(海を壊すんじゃない……。アルを護るために……燃やすんだ……)
カルムの中で、これまで「敵を倒すための武器」でしかなかった炎の定義が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
焦りと悔しさの暗闇の向こう側に、一筋の、小さくても決して消えない【真なる炎の形】が、うっすらと見え始めていた。
四、 四人の誓いと決戦前夜の仕込み
宿屋の部屋に戻った四人。
傷つきながらも、オルタの治癒マナによって意識を取り戻したエレナが、聖剣を抱えながらベッドの上で静かに座っていた。
「カルム殿……。焦る気持ちは分かる。だが、私は君の炎を一度たりとも疑ったことはない」
エレナの青い瞳が、雨に濡れて入ってきたカルムを優しく見つめる。
「君の炎がなければ、私たちはアガルタの地下を突破することも、このアクアリアに辿り着くこともできなかった。……君は、私たちの誇り高き『最高の火力』だ」
「エレナ……」
「カルム」
オルタが、自身の小さな身体をカルムの腰にぎゅっと抱き寄せた。
白磁の肌に走るノイズを押し殺し、オルタはルビー色の瞳を輝かせて言った。
「ワタクシの電子頭脳は……カルムの炎が、深海を突破する確率を、まだゼロだとは弾き出していません。……カルムの心の波形が変化した時、奇跡は必ず起きますっ!」
カルムは、ボロボロの己の両拳を見つめた。
もう、迷いはなかった。
焦りも、悔しさも、すべてを己の体内の『炉』の薪として燃やし尽くす覚悟が決まっていた。
「……アル」
カルムは、アルの前へ歩み寄り、深々と頭を下げた。
「さっきは……手を弾いて、悪かった。すまねぇ」
「カルム……ううん! 全然平気だよ!」
アルが最高に温かな笑顔で首を振る。
「俺に……もう一度、チャンスをくれ」
カルムは、パッと顔を上げ、かつての荒々しい喧嘩屋の顔ではなく、仲間を護る絶対の覚悟を宿した『最高の相棒』の目で、アルを見つめた。
「十二時間後……あの街が沈む前に、深海の吸魔陣をぶっ壊す。……俺の炎で、絶対に、お前をあの核まで送り届けてやるッ!」
「うんッ!! よろしくね、カルムッ!!」
二人の拳が、固く、固く打ち合わされた。
「よしッ! 決まりだな!」
ギルが、ドスンと足音を立てて前に出た。
「出航は、今から一時間後! 雨が止むのを待ってる余裕はねぇ! シーホーク号は……死の深海へ向かって、二度目の出航を果たすぞッ!!」
「おーっ!!」
四人と一人の叫びが、夜の宿屋に力強く響き渡った。
アルは、手製の大きな木桶を取り出し、残されたすべての食材――トエルの岩塩、天竜山脈のハーブ、そしてアクアリアの海の幸を、最後の下ごしらえのためにまな板の上に並べた。
「みんな! 出航の前に……僕特製の【真理解体・決戦の命のスープ】を飲んでいこう!」
アルの漆黒の瞳に、太陽のごとき【真理の目】の黄金の光が宿る。
「深海の冷たさなんかに、僕たちの『体温』は絶対に負けない! 世界で一番温かいご飯を食べて、あの海を救いに行こうッ!」
五、 絶望の海へ、奇跡の二度目の出航
一時間後。
海洋都市アクアリアの埠頭。
激しい雨と地鳴りが続く中、修復を終えた捕鯨船シーホーク号が、黒い海原へ向かってその船首を向けていた。
埠頭には、街の住人たちが大勢集まっていた。
もう、誰もアルたちを拒絶するような言葉は吐かなかった。
「行ってきてくれ……ッ!」
「街を……海を助けてくれぇぇぇッ!」
住人たちの祈りと叫びが、雨の夜空へと吸い込まれていく。
「野郎どもッ!! 錨を上げろッ!! 忘却海溝へ向かって、全速前進だァァァァッ!!」
ギルの怒号とともに、シーホーク号が白波を蹴立てて出航した。
ボーーーーーーーーッ!!
祝福の汽笛が響き渡る。
甲板の上に並び立つ、チーム『最高の厨房』の四人。
アルの腰には、燦然たる輝きを秘めた『黒鉄の包丁』。
カルムの両手には、焦燥と悔しさを乗り越え、真なる覚悟の熱を宿し始めた両拳。
エレナの手には、仲間の命を繋ぐ『星霜の聖剣』。
そしてオルタの瞳には、未来を指し示すナビゲーションの光。
残り時間、十一時間。
絶望の深海三千メートル。
暴虐の黒海竜と、教国の巨大吸魔陣が待ち受ける死の暗黒へ向かって。
チーム『最高の厨房』と海の男ギルの、命と誇りと「体温」を懸けた、最後の奇跡の航海が、いま、静かに、そして激しく始まりを告げたのであった!




