第60話:海の結び目を見極めろ
一、 決戦の海、再びの深海潜行
ザァァァァァァァァァァァッ!!!!
漆黒の夜の海。雨と暴風が荒れ狂う忘却の海を、捕鯨船シーホーク号は凄まじい速度で突き進んでいた。
残り時間、十時間五〇分。
海洋都市アクアリアを沈没の危機から救うため、そして教国ルミナの【概念吸魔陣】に囚われ、自我を破壊された暴虐の黒海竜を解放するため。
チーム『最高の厨房』と船長ギルは、全乗組員の命を懸けた二度目の深海アタックへと挑んでいた。
「ギルさんッ! 前方に【潮の渦】が見えてきましたッ!」
甲板の先端で、アルが荒れ狂う波間に巨大な暗黒の口を開けた海流の竜巻を指差す。
「おうッ! エレナの嬢ちゃん、結界の準備はいいかッ!」
操舵輪を握るギルが、豪快に叫ぶ。
「任せろ。アル殿の『決戦の命のスープ』のおかげで、私のマナ回路はかつてないほどに活性化している。……一度目の潜行の倍の強度で、船を護り抜いてみせよう!」
エレナが、甲板の中央に『星霜の聖剣』を深々と突き立てた。
「【星霜不滅・絶対極光球】・全周展開ッ!!」
カァァァァァァァァッ!!
青白銀の分厚い光のドームがシーホーク号を完全に包み込み、巨大な潮の渦へと真っ逆さまに突入していく。
ザパァァァァァァァァァンッ!!!!
船は再び、光の届かない深海の暗黒へと没した。
周囲を通過していくエメラルドグリーンから群青、そして漆黒へのグラデーション。深海の恐るべき水圧がエレナの結界をミシミシと軋ませるが、彼女の顔に苦悶の表情はなく、聖剣を支える腕は力強く安定していた。
「アル」
カルムが、アルの隣へ歩み寄った。
彼の火傷まみれの両拳は、ギルが巻いてくれた新しいバンテージでしっかりと固定されている。
「……おう。絶対に失敗しねぇからな。お前をあの核まで届ける火道、俺の拳で見せつけてやる」
カルムの声は、昨日までの焦りや荒々しさが完全に消え、どこまでも静かで、深い熱を帯びていた。
「うん! 信じてるよ、カルム!」
アルが、カルムの大きな拳に、自分の小さな拳をコツンと合わせた。
『――――深度二五〇〇メートル。……吸魔陣の真上へ到達します!――――』
オルタが、ルビー色の瞳をサーチライトのように光らせて警告を発した。
「野郎どもッ! 衝撃に備えろッ!」
ドスゥゥゥゥゥンッ……!
シーホーク号が、忘却海溝の最深部――砂泥の海底へと再び着底を果たした。
二、 暴虐の黒海竜との再戦
結界の向こう側に広がるのは、昨日と変わらぬおぞましい光景。
海底を埋め尽くす超巨大な【概念吸魔陣】が、不気味な赤い明滅を繰り返し、海のマナを強引に吸い上げ続けている。
そして――。
「ガァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!」
シーホーク号の着底の振動を感知し、深海の暗闇から、巨大な悪夢が猛スピードで襲いかかってきた。
【暴虐の黒海竜】。
教国のマナによって心を完全に破壊され、殺戮兵器と化した五十メートルを超える漆黒の巨体。背中に無数の棘を生やしたその姿は、一度目の潜行時よりもさらに禍々しく、全身からドス黒い殺意のオーラを放っていた。
「来たぞッ! 最初からクライマックスだッ!!」
ギルが、修復された『白銀の銛』を構え、甲板の最前列へ飛び出した。
黒海竜は、巨大な尾びれを振り上げ、深海の水圧を乗せた絶死の一撃をエレナの結界へ向かって振り下ろしてきた!
「【星霜無窮・反射の陣】ッ!!」
エレナは、単に防御するだけでなく、聖剣の角度を調整して結界の表面に傾斜を作った。
ドゴォォォォォォンッ!!
尾びれの直撃を斜めに受け流し、衝撃の七割を周囲の海中へと分散させる。
「くっ……! 耐えたぞッ! だが、ヤツの連続攻撃が来る!」
「させねぇよッ!!」
カルムが、結界の内側から前へ躍り出た。
彼の両腕の毛術回路から、赤蓮の炎が静かに、だが尋常ではない密度で圧縮されながら吹き上がり始める。
「ガァァァァァァァァァッ!!」
黒海竜が、その巨大な顎を開き、周囲の海水を吸い込み始めた。
前回の潜行でシーホーク号を窮地に陥れた、絶望の【深海破滅砲】のチャージ。
「カルム! ブレスが来ますッ!」オルタが叫ぶ。
「……見えてるさ」
カルムは、深く息を吸い込んだ。
彼の脳裏に、ギルの言葉がよぎる。
『海を殺すべき敵として睨みつけ、力任せにブッ壊そうとしている限り……お前の炎は絶対に届かない』
カルムは、己の炎を「破壊」から「防衛」へ、そして「調和」へと意識を切り替えた。
海を敵として蒸発させようとするのではない。圧倒的な海の質量を受け入れ、その上で、アルたちを護るための熱を『波の隙間』へと滑り込ませるのだ。
「俺の火は……俺たちを活かすための熱だッ!!」
【我流神殺・熱波の盾】ッ!!!!
カルムの両拳から放たれたのは、破壊的な火柱ではない。
極限まで熱量を圧縮し、目に見えない【超高熱の水蒸気の層】を、結界の外側の海中に展開させたのだ!
ズドォォォォォォォォォォンッ!!!!
黒海竜から放たれた深海破滅砲が、結界の正面へ向かって放たれる。
しかし!
破滅の光線がカルムの展開した『超高熱の水蒸気層』に触れた瞬間、急激な温度差と気泡のクッションによって光線の密度が乱され、威力が半減したのだ!
「なっ……! ブレスの威力が落ちたぞッ!」
ギルが驚愕に目を見張る。
「エレナさんッ! そのまま受け止めろッ!」
カルムが叫ぶ。
「承知ッ!!」
威力の落ちたブレスを、エレナの絶対防壁が完璧に受け止め、弾き返す。
ガガガガガガッ!
激しい衝撃は走るが、結界に亀裂一つ入ることはなかった。
「見たか海ッ! これが俺の『護るための炎』だッ!!」
カルムが、火傷の両拳を突き上げて咆哮した。
己の弱さを認め、力任せの破壊を捨てたカルム。
彼の炎は、ついに深海の絶対的な水圧と冷気の前でも、完全に「届く」ようになったのである!
三、 真理の目と、海の結び目
「おっしゃぁぁッ! カルムの炎が道を作ったぞッ!」
ギルが、白銀の銛をギリィッと限界まで引き絞った。
「アル! 今回はヤツの額じゃねぇ! 一気にあの吸魔陣の【ド真ん中のコア】へ向かってぶち込むぞッ!」
「はいっ!」
アルの漆黒の瞳に、太陽のごとき【真理の目】の黄金の光が、極限まで燃え上がった。
アルは、結界の内側から、海底に鎮座する超巨大な吸魔陣の全体像を俯瞰した。
都市一つ分もある巨大な施設。黒海竜の肉体に突き刺さっている無数の魔導触手。そして、海のマナを強引に吸い上げている中央の漆黒のコア。
力任せにコアを破壊しても、パイプラインが暴走し、海のマナが逆流してアクアリアの街が吹き飛ぶ危険性がある。
(あの吸魔陣の機能そのものを……安全に停止(解体)させるための、一番大事な『因果の結び目』を見極めるんだ……!)
アルの視界が、クリアな現実から、モノクロームとマナの奔流で描かれた「真理の世界」へと切り替わる。
黒海竜を苦しめる触手のライン。
海底の地脈からマナを吸い上げるパイプのライン。
それら数万本もの複雑に絡み合ったマナの糸が、すべて【一点】に収束している場所があった。
「見えたッ……!!」
アルが、黒鉄の包丁を構え、その「一点」を指差した。
「ギルさんッ! あの漆黒のコアの、右斜め下の台座の付け根! あそこに、陣全体の魔力制御の『結び目』があるッ!」
「分かったぜコック長ッ!! 最高の的に向けて、極上の銛を突き立ててやる!!」
ギルが、全身の筋肉を弾けさせんばかりにして、白銀の銛を大きく振りかぶった。
四、 連携の極致・道を切り開け
「【海王絶技・天貫く銀鯨牙・究極】ッ!!!!」
ギルが放った白銀の銛が、エレナの結界を透過し、深海三千メートルの水圧を切り裂いて、雷光のごとき速度で真っ直ぐに飛翔した!
「ガァァァァァッ!?」
黒海竜が、吸魔陣を護るために、巨大な尾びれで銛を弾き落とそうとする。
「させねぇよッ!!」
カルムが、即座に両拳を突き出し、海竜の尾びれの軌道上へ向けて、爆発的な【炎の推進力】を撃ち込んだ。
ドガァァァァァンッ!!
海中での局地的な水蒸気爆発。その衝撃波が、海竜の尾びれの軌道をわずかにズラし、銛の飛翔ルートを完璧にクリアにした。
ドスゥゥゥゥゥゥゥゥゥンッ!!!!
ギルの白銀の銛が、アルが指示した【吸魔陣のコアの右斜め下・台座の付け根】へ向けて、寸分の狂いもなく深々と突き刺さった!!
ピィィィィンッ!!
銛に繋がれた鋼鉄のワイヤーが、シーホーク号と吸魔陣とを結び、ピンと張り詰める。
「道は……できたぞッ!! 行けェェェェ、アルゥゥゥッ!!」
ギルが、血を吐くような咆哮を上げる。
「アルッ! 結界の正面に、あなただけを通す『穴』を開けます! 今ですッ!!」
オルタが、エレナの結界の制御を同期し、正面にアルの身体一つ分だけの通過口を開いた。
「みんな……ッ!! 行ってくるッ!!」
アルが、黒鉄の包丁を口に咥え、鋼鉄のワイヤーへ向かって、爆発的な跳躍を見せた!
ガシッ!!
アルの小さな手が、ワイヤーを掴む。
そして、そのまま結界の外――絶対の暗黒と、人を一瞬で押し潰す【深海三千メートルの水圧空間】へと、文字通り身を投げ出したのだ!
「アルッ!!」
結界の外に出た瞬間。
アルの小さな身体を、想像を絶する冷たさと、四方八方からの見えない巨大なプレス機のような水圧が容赦なく襲った。
「がぁぁっ……!」
アルの口から、苦悶の泡が漏れる。骨が軋み、肺が押し潰されそうになる。
だが。
カァァァァァァァァァァッ……!!
アルの胸の奥底で、命の火『炉』が、これまでにないほど爆発的な熱量を放って燃え上がった!
(負けない……! カルムの炎も、エレナさんの盾も、ギルさんの意地も……全部、全部一緒にここにあるんだッ!!)
アルの『炉』の熱が、彼の全身を黄金の光の膜となって包み込み、深海の水圧と冷たさを完全に相殺(中和)した。
少年料理人は、圧倒的な大自然の暴力のド真ん中で、まるで陽光の差す草原を駆けるように、軽やかに、そして力強く、ワイヤーを伝って吸魔陣のコアへと迫っていく!
五、 最終下ごしらえの包丁
「ガァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!」
黒海竜が、吸魔陣に迫るアルを排除するため、無数の漆黒の魔導触手を鞭のように振るって襲いかかってきた。
『――――アル! 右から三本、左から二本! 上空から一本! 全弾、致死の軌道ですッ!――――』
オルタの声が、同期した通信回線を通じてアルの脳内に響く。
「……見えるよ、オルタ」
アルは、ワイヤーから片手を離し、右手に『黒鉄の包丁』を固く握り締めた。
彼の【真理の目】は、迫り来る何十本もの触手の動きを、すべて「スローモーション」のように捉えていた。
ただ切り払うのではない。
アルは、触手の軌道の隙間(結び目)を、蝶のように舞いながら潜り抜けていく。
シュッ! ザシュッ!
包丁の刃先が、アルの身体を掠めようとする触手の【先端の毒素】だけを、ミリ単位の精度で切り離していく。
切り離された触手は、毒を抜かれて力なく海底へと崩れ落ちていく。
「アル殿の手さばき……! まるで、海の中で舞を踊っているようだ……!」
結界の中から見守るエレナが、驚嘆の声を上げる。
アルは、すべての触手を切り抜け、ついにギルの銛が突き刺さる【吸魔陣のコアの台座】へと到達した。
目の前には、不気味に赤く脈打ち、海のマナを飲み込み続ける巨大な漆黒のコア。
アルは、深海の底で、両足を踏み締め、黒鉄の包丁を上段へと振りかぶった。
包丁の刀身から、太陽のごとき【金銀の極光】が、深海の暗黒を完全に塗り潰すほどの圧倒的な輝きを放って吹き上がる。
「教国の悪いおまじない(アク)……! 僕の包丁で、きれいに切り離してあげるッ!!」
アルの漆黒の瞳と【真理の目】が、コアの最深部にある『一番太い因果の結び目』を完全にロックオンした。
「【真・理・解・体――――海・神・の・大・下・ご・し・ら・え】―――――――――ッ!!!!!!!!!!!」
アルが、全身のバネを使い、金銀の極光を纏った黒鉄の包丁を、吸魔陣の結び目へ向かって、己の全魂を込めて振り下ろした。
シュッ――――――――――――――――――――――――。
深海三千メートルの海底で、世界で一番美しく、澄み切った「下ごしらえ」の音が響き渡った。
少年料理人の包丁が、神の絶対的な計算式を、ついに完全解体する瞬間の到来であった。




