第52話:包丁と一本の銛
一、 雨の夜を歩く小さな足音
海洋都市アクアリアの夜は、依然として冷たい雨に包まれていた。
暗雲が街の灯りを遮り、水路の波音だけが不安げにチャプチャプと響いている。住人たちは海竜の再来を恐れて家々の扉を固く閉ざし、街はまるで死んだように静まり返っていた。
そんな誰もいない大通りを、一つの小さな傘が歩みを進めていた。
「アル、足元が滑りやすくなっています。気をつけてくださいね」
オルタが、アルの頭上に大きな雨傘を差し掛けながら、ルビー色の瞳で周囲の水たまりを的確にスキャンし、ナビゲートしている。
アルの右手はまだ包帯で固定されていたが、その左手には、布で何重にも包んで保温された手製の『木桶』が、大切に抱えられていた。
「ありがとう、オルタ。でも、僕よりオルタの方が濡れちゃうよ。傘、もっとそっちに入れて」
アルが傘の柄を押し返すと、オルタはふるふると首を横に振った。
「ワタクシの表面装甲は防水加工が施されています。それに、アルが一生懸命作った『仕込み』が冷めてしまったら、大変ですから」
アルの抱える木桶からは、微かにだが、雨の匂いを上書きするような香ばしく温かな湯気が漏れ出していた。
「……カルム、どこに行っちゃったのかな」
アルが、暗い水路の向こうを見つめて呟く。
「カルムのことだから、きっとギルさんのところにいると思うんだ。ギルさんも、あんなにボロボロだったのに船を直すって言ってたから……。二人に、どうしてもこれを食べてほしくて」
「はい。ワタクシの生体探知ソナーも、港の最外縁部にあるドックから、二人のマナの波形を捉えています。……微弱で、とても疲弊していますが、間違いありません」
「そっか。よかった……急ごう、オルタ!」
二人は、水はねを気にすることもなく、雨の降りしきる石畳を足早に駆け抜けていった。
冷え切ってしまった仲間たちの心を、少しでも早く温めるために。
二、 叩きつけられる現実と折れた銛
アクアリアの最外縁部に位置する【シーホーク号の修繕造船所】。
トタン屋根を雨が激しく叩くその薄暗い空間で、カルムはただ黙って、ギルがハンマーを振るう姿を見つめていた。
カンッ! カンッ……!!
ギルは上半身裸のまま、雨漏りする屋根の下でシーホーク号の竜骨に分厚い補強鉄板を打ち付け続けていた。彼の息は完全に上がり、筋肉は悲鳴を上げている。肋骨の痛みで顔をしかめながらも、その手は決して止まらなかった。
「……おい、ジジイ。もうやめとけって」
見かねたカルムが、口を開いた。
「いくらお前が意地張って船を直したところでよ……あの海竜には勝てねぇ。今日だって、結局何もできずに逃げ帰ってきただけじゃねぇか」
カルムの言葉は、ギルを非難しているようで、実は自分自身に向けられた呪詛であった。
ギルはハンマーをドンッと床に置き、荒い息を吐きながらカルムを振り返った。
そして、彼はドックの隅に立てかけられていた、自分の武器――【白銀の銛】を掴み取った。
「……これを見ろ、カルム」
ギルが松明の明かりの下に突き出したその銛は、悲惨な状態だった。
海竜の額に突き刺したあの凄まじい一撃。その反動と、ワイヤーが引きちぎられるほどの張力に耐えきれず、自慢の白銀の刀身は中ほどから無惨に『くの字』に折れ曲がってしまっていたのだ。刃こぼれも酷く、もはや武器としての体をなしていない。
「俺の銛も、こんなザマだ。お前の炎が効かなかったのと同じようにな。……海ってのは、俺たちのちっぽけな力を簡単にへし折っちまう」
ギルは、折れ曲がった銛の刃先を、悔しそうに撫でた。
「あの海竜には、俺の銛でも、お前の炎でも勝てねぇ。それは事実だ」
「……だったら、なんで船を直すんだよ。勝てねぇ戦いに行くのは、ただの自殺だろッ!」
カルムがギリィッと歯を食いしばる。
「勝てねぇからって、海を……街を放っておけるかよッ!!」
ギルの怒号が、雨音を切り裂いた。
「俺たちは海の男だ! 海が荒れてりゃ、船を出して立ち向かうのが宿命なんだよ! あの少年……アルが命懸けで海竜を助けようとしたのに、大の大人が『勝てないから』って尻尾巻いて逃げ出して、何が船長だッ!」
ギルの目には、血走った執念の炎が燃えていた。
「銛が折れてようが、船がボロボロだろうが……俺は絶対に明日出航する。アルをもう一度、あの海竜の額に届けるためになッ!」
その圧倒的な海の男の矜持の前に、カルムは言葉を失った。
言い返せない自分が情けなくて、悔しくて、カルムは下唇を噛み切るほど強く噛み締めた。
「お二人とも……そこまでです」
ふいに、ドックの入り口から、透き通るような声が響いた。
三、 届けられた夜食と不器用な優しさ
「アル! オルタ!」
カルムが弾かれたように振り返る。
ドックの入り口に立っていたのは、雨に濡れた傘を閉じるオルタと、木桶を抱えたアルの姿であった。
背後には、いつの間にか二人の護衛として付き添っていたエレナの姿もあった。
「……コック長。こんな夜更けに、何しに来た」
ギルが、息を整えながら問いかける。
「二人とも、すごくお腹が空いてる音がしたからね」
アルは、少し顔色が悪いながらも、最高の笑顔を浮かべてドックの中へ歩み入った。
彼は、持ってきた木桶の蓋をゆっくりと開けた。
フワァァァァァァァッ……。
その瞬間、冷え切ったドックの空気を一変させる、圧倒的に芳醇で、心安らぐ温かな香りが広がった。
「これは……」
エレナが目を細める。
木桶の中には、大きなおにぎりのようなものがいくつも並び、その上から黄金色に輝く琥珀色の『出汁』がたっぷりと注がれていた。
「【真理解体・海と山の恵みの焼き結び茶漬け】だよ!」
アルは、木のお椀にそれを取り分け、カルムとギルへ手渡した。
「さっき市場の瓦礫の中から見つけたお米と、天竜山脈で採れたキノコ、それにギルさんが用意してくれた太陽トマトを少しだけ使ったんだ。お米の表面は、カルムが昼間に熾してくれた余熱でカリッと焼いてあるから、香ばしいよ」
「アル……お前、腕が痛ぇのに、わざわざこんなもんを……」
カルムが、お椀を持つ手を震わせる。
「いいから、熱いうちに食べて。冷えた身体じゃ、いい考えも浮かばないよ」
ギルは、黙ってお椀を受け取り、お匙で焼き結びを崩しながら、黄金色の出汁と一緒に口へと運んだ。
ズズッ。
「……ッ」
ギルの三白眼が、驚きに見開かれた。
焼き結びの香ばしさと、キノコの山の旨味が、魚介の出汁と完璧に融合し、胃の腑へストンと落ちていく。太陽トマトの微かな酸味が、疲労しきった筋肉と神経を優しく解きほぐしてくれる。
美味い。いや、美味いという次元ではない。
心が、魂が、根本から温め直されていくような感覚だった。
「美味ぇ……」
ギルの目から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ、出汁の中に落ちた。
「なんだよ、これ……。クソッ、美味すぎて……涙が止まんねぇじゃねぇか……」
カルムも、無言で出汁を啜り、焼き結びを噛み締めていた。
彼のお椀にも、いくつもの涙の雫が落ちていた。
「アル。……ごめんな」
カルムが、絞り出すような声で言った。
「俺……お前のこと守るって言ったのに。俺の炎、海じゃ全然役に立たなくて……っ。お前が海に落ちていく時、何もできなくて……っ」
「カルム」
アルは、カルムの横に座り、火傷だらけの彼の大きな右手に、自分の包帯だらけの左手をそっと重ねた。
「カルムの炎は、役に立たないなんてことないよ」
「……え?」
「あの時、カルムが下から炎で『上昇気流』を作ってくれなかったら、僕は海竜のところまで届かなかった。カルムの炎が、僕を上に押し上げてくれたんだよ。……カルムの炎は、海を蒸発させるためじゃなくて、僕を護るためにあるんだから」
アルの真っ直ぐな言葉に、カルムは目を丸くし、やがて子供のように声を上げて泣き始めた。
己の不甲斐なさに対する悔し泣きではない。アルの底知れぬ優しさと信頼に対する、救済の涙であった。
四、 包丁と一本の銛
「ふぅ……すっかり、ごちそうになっちまったな」
食後。
ギルは、空になったお椀を置き、スッキリとした顔で立ち上がった。
「アル。お前の料理は本当に魔法だな。……折れかけてた心が、完璧に治っちまったよ」
「ふふ、よかった!」
アルも嬉しそうに笑う。
「だが……」
ギルは、ドックの隅に置かれた、へし折れた『白銀の銛』へ視線を向けた。
「心は治っても、武器がこれじゃあな。この銛は、硬すぎてこの街の鍛冶屋じゃ直せねぇ。……明日の出航までに、なんとか代わりの武器を探さねぇと」
その言葉を聞いたアルは、すっと立ち上がり、ギルの銛の前へ歩み寄った。
「……ギルさん。この銛、ギルさんにとって大切なものなんだね」
「ああ。親父の代から受け継いできた、シーホーク号の船長の証だ。こいつ一本で、俺はアクアリアの海を切り開いてきたんだからな」
アルは、腰から『黒鉄の包丁』を滑らかに抜き放った。
そして、その黒い刀身を、折れ曲がった白銀の銛の刃先へそっと当てた。
「な、おいアル!? 何する気だ!」
ギルが驚いて止める。
「大丈夫だよ、ギルさん」
アルの漆黒の瞳に、太陽のごとき【真理の目】の黄金の輝きが宿る。
(見える……。海竜に弾かれた時の衝撃で、銛の金属の『因果の筋』が、不自然に絡まっちゃってるんだ)
アルは、静かに息を吐き、黒鉄の包丁を構えた。
「料理人はね……食材だけじゃなくて、大切な『道具』もきちんとお手入れ(下ごしらえ)できなきゃいけないんだよ」
シュッ――――。
アルは、折れ曲がった銛の金属部分の歪み――「衝撃の結び目」へ向けて、包丁の刃先を滑らかに滑り込ませた。
サクッ……。
「なっ……!?」
ギルとカルムが、同時に目を疑った。
アルの包丁が銛の金属の歪みに触れた瞬間、金属を曲げていた「物理的な負荷の蓄積」が、まるで不要な筋を切り離されたかのように、黄金の光の粒子となってフワリと空へ昇華していったのだ。
キィィィィン……ッ!
澄み切った音と共に、極限まで曲がっていた白銀の銛が、まるで自らの意志で姿勢を正すかのように、元の真っ直ぐで美しい姿へと「自己修復」を果たしたのである!
「うおぉぉぉぉぉぉぉっ!? 直りやがったァァァッ!?」
カルムが叫ぶ。
「馬鹿な……っ。神聖金属に近い硬度の銛だぞ!? それを、包丁で撫でただけで……!」
エレナも驚愕に目を見張る。
「【真理解体】。……命あるものも、道具も同じだよ。絡まった筋を綺麗に解きほぐしてあげれば、また最高の働きをしてくれるんだ」
アルは、包丁を鞘に納め、真っ直ぐに直った白銀の銛を両手で持ち上げ、ギルへ手渡した。
「はい、ギルさん! これで明日も、海竜の懐まで届く道が作れるね!」
ギルは、震える手で自らの相棒たる銛を受け取った。
刃こぼれ一つない、完璧に修復された白銀の銛。それどころか、アルの包丁の熱が伝わり、以前よりもさらに強靭なマナを宿しているのが肌で感じられた。
「アル……お前ってやつは、本当に……!」
ギルは、感極まってアルを抱きしめようとしたが、その前にカルムが間に割って入り、ギルの背中をバンッ! と力強く叩いた。
「ギャハハハ! 見たかジジイ! これが俺たちの最高のコック長だぜ!」
カルムの顔には、もう迷いや無力感の陰りは一切なかった。
「アルがここまでやってくれたんだ。……俺も、ウジウジしてる暇はねぇ。炎が波に消されるなら……消される前に、海ごと蒸発させるくれぇの火力を出してやるよ!」
カルムの両拳から、再び闘志に満ちた赤蓮の炎が吹き上がる。
「うむ。私も、明日は絶対にアル殿を海竜の額へ届けてみせよう。我らの絆の盾は、二度は破られん!」
エレナも聖剣を構え、力強く頷いた。
「ワタクシの解析機能も、教国のトラップを完全に学習しました! 明日は、一〇〇パーセントの確率でアルを勝利へ導きます!」
オルタも、胸を張って宣言する。
五、 明日の海へ
雨のドックに、熱い漢たちと仲間たちの笑い声が響き渡った。
アルの一杯の夜食と、一振りの包丁。
それが、大自然の暴力の前に折れかけていたギルの心と、カルムの自信を、見事に真っ直ぐに「解きほぐし」てみせたのだ。
「よしッ! 野郎ども、気合が入ったな!」
ギルが、修復された白銀の銛を天高く突き上げた。
「夜明けまでに、シーホーク号の修理を完璧に終わらせる! 明日は、このアクアリアの意地と、最高の料理人の魂を乗せて、あの海竜を絶対に救い出してやるぞッ!」
「「「「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!!」」」」
ドックに響く、希望に満ちた雄叫び。
外の雨は、いつの間にか上がり始めていた。
雲の隙間から、銀色の星明かりが、シーホーク号の甲板と、五人の顔を優しく照らし出している。
明日こそ、真の決着の時。
教国の冷酷な鎖を解き放ち、暴走する海竜を救済するため。
チーム『最高の厨房』と、海の男ギルの、魂を懸けたリベンジの航海が、夜明けと共に始まろうとしていた。




