第51話:閉ざされた心
一、 降りしきる冷たい雨と宿屋の静寂
海洋都市アクアリアを濡らす冷たい雨は、夜になっても止む気配を見せなかった。
昼間の凄惨な出航と、シーホーク号の惨敗。そして埠頭でぶつけられた街の人々の拒絶と不信の声。それらの重い記憶をそのまま洗い流すかのように、雨粒が白亜の石造りの街並みを叩き、水路の水位をどんよりと押し上げ続けている。
アルたち四人が身を寄せているのは、市場の裏通りにひっそりと佇む小さな宿屋『潮風の休まり亭』の二階の一室であった。
「……アル、右腕の傷、包帯を巻き直しますね。あまり動かさないでください」
静まり返った室内で、オルタの声だけが優しく響いていた。
オルタは、ベッドの縁に腰掛けたアルの右腕へ向けて、自らの両手から淡い純白の治癒マナを注ぎ込みながら、丁寧に新しい白い包帯を巻いていく。
「ありがとう、オルタ。もう痛みは全然ないよ」
アルは青白い顔に無理に微笑みを浮かべて答えた。
黒鉄の包丁の手さばきで海竜のブレスを解体したものの、その直後に襲いかかった巨大な衝撃波。その打撃による擦り傷と筋肉の損傷は、オルタの治癒マナがあってもすぐには完治しないほどに重いものであった。
部屋の窓際。
冷たい雨粒が打ちつけるガラス窓に背を預け、腕を組んだまま黙り込んでいる男がいた。
カルムだ。
彼の両拳もまた、オルタの処置によって痛みが引いているはずだった。だが、彼の両手はきつく固く握り締められ、爪が掌に食い込んで血が滲みそうなほどであった。
「……カルム殿」
部屋の隅で聖剣のお手入れをしていたエレナが、静かにカルムへ視線を向けた。
「自分を責めるのはやめよ。あの現場において、君の炎は船を、そして我らの命を繋ぎ止めるための最大の盾となっていた。……誇るべき戦いだった」
「誇るべき、だぁ……?」
カルムの口から、掠れた不機嫌な声が漏れ出た。
彼が振り返る。その赤銅色の前髪の隙間から覗く目は、血走り、酷く荒んでいた。
「どこが誇れるってんだよ、騎士様……。俺の炎は、あのバケモンの水一滴すら蒸発させられなかった。アルが命懸けで飛んでんのに、俺は下で指咥えて見てることしかできねぇで……挙句の果てに、アルにこんな大怪我させちまったんだぞッ!」
カルムの怒号。
それは、他の誰でもない、己の「無力さ」に対する激しい憎悪と情けなさの破裂であった。
「カルム……カルムのせいじゃないよ」
アルがベッドから立ち上がろうとする。
「来るなッ!!」
カルムの叫び。アルの足が止まる。
「すまねぇ……アル。ちょっと、冷やしてくる」
カルムはそれ以上アルの顔を見ることができず、乱暴に部屋のドアを押し開けると、冷たい雨が降りしきる夜の街へと逃げ出すように飛び出していってしまった。
「カルム……っ!」
「アル殿、追わなくていい」
エレナが静かにアルの肩に手を置いた。
「男には、己の弱さと一人で向き合わねばならぬ時がある。……彼はいま、彼自身の魂と戦っているのだ。今は、そっとしておいてやろう」
二、 拒絶の街と閉ざされた扉
夜の冷たい雨が打ちつける海洋都市アクアリアの大通り。
カルムは、フードも被らず、全身を雨水でびしょ濡れにしながら、重い足取りで徘徊していた。
赤銅色の髪から滴り落ちる雨粒が、彼の頬を冷たく伝っていく。だが、胸の奥底で渦巻く「悔しさ」と「焦燥」という酷い熱のせいで、身体の冷たさなど微塵も感じなかった。
(俺は……『最高の火力』じゃなかったのかよ……)
アガルタの地下都市で、アビスの魔物どもを焼き尽くし、アルの道を切り開いていた時の誇り。
あの時、俺はアルの相棒として、最高の盾であり炎だと胸を張っていた。
だが、海という桁違いの質量と大自然を前にして、自分の炎はあまりにも小さく、あまりにも無力だった。
アルを守ることも、街の連中の不信を跳ね返すこともできず、ただ見ていることしかできなかったのだ。
「チクショウ……ッ! クソがぁッ!!」
カルムが、人通りの途絶えた水路沿いの白亜の壁に向かって、思い切り右拳を叩きつけた!
ドガァァンッ!!
壁の表面に小さな亀裂が入る。だが、拳に走る鈍い痛みが、彼の虚しさをさらに際立たせるだけであった。
その時。
「誰だッ!? こんな夜中に騒ぎ立てて……」
水路の向こう側の民家の扉が開き、松明を持った初老の住人が顔を出した。
その住人は、雨の中で佇むカルムの顔――昼間、埠頭で怒鳴り散らしていた「赤い髪のよそ者」だと気づいた瞬間、露骨に嫌悪と恐怖を露わにした。
「ひ……っ! あんたらかッ! まだこの街に居座っていたのか!」
「……あぁん?」
カルムが不機嫌そうに睨み返す。
「出て行ってくれッ! お前たちが海竜様を怒らせたせいで、今夜も潮位が上がって家の中に水が入ってきているんだ! お前たちは悪魔かッ!」
パカーンッ!!
住人は、叫ぶなり激しく扉を閉ざし、内側から重々しい鍵をかける音を響かせた。
閉ざされた扉。
拒絶の音。
「ハッ……悪魔、か」
カルムは、力なく自嘲の笑みを漏らした。
昼間、アルはあの連中に頭を下げて、彼らの笑顔を取り戻そうとしていた。
だが、恐怖に支配された人間の心は、一度閉ざされてしまえば、どれだけ正論を叩きつけようと、どれだけ命を懸けようと、決して開くことはないのだ。
(力でもダメ……言葉でもダメ……。俺たちは、この街で何をやろうとしてんだ……?)
濡れた石畳の上に、カルムの影がぽつんと虚しく落ちていた。
三、 ギルの造船所と男たちの重圧
カルムが暗い雨の街を歩き続け、たどり着いたのは、港の最も外れにある古びたドック――【シーホーク号の修繕造船所】であった。
波の音がダイレクトに響くそのドックでは、夜だというのに、カン! カン! という固いハンマーの音が一定のリズムで響いていた。
カルムが影から覗き込むと、そこには一人、松明の明かりの下で裸電球のように汗と雨を散らしながら、シーホーク号の壊れた龍骨に分厚い鉄板を打ち付け続けている男の姿があった。
船長、ギルであった。
「……ハぁ……ハぁ……っ! クソッ……角度が合わねぇ……っ!」
ギルの全身は傷と泥にまみれ、彼の自慢である群青色の髪は雨でべっとりと額に張り付いていた。
昼間の海竜との戦闘で、彼自身も肋骨の数本を痛めているはずだった。息をするたびに苦しげな顔をし、血の混じった唾を吐き捨てながらも、彼は休むことなく巨大なハンマーを振り下ろし続けていた。
「おい、ジジイ」
カルムが、影から静かに姿を現した。
「……カルムか」
ギルはハンマーの手を止めず、背を向けたまま答えた。
「こんな雨の夜に何しに来た。怪我人は宿でおとなしく寝てな」
「……お前こそ、体ボロボロじゃねぇか。一人でこんなデカい船、直せるわけねぇだろ」
「直すんだよ」
ギルが、ハンマーをドスンと足元に置き、ゆっくりと振り返った。
その三白眼は、激しい疲労で赤く血走っていたが、奥底にある「海の男の矜持」だけは決して衰えていなかった。
「この船は、俺の親父の代から続くシーホーク号だ。……この街の連中が俺たちを拒絶しようが、海竜がどれだけ荒れ狂おうが関係ねぇ。俺がこの船を直して出航させなきゃ、何も始まらねぇんだよ」
ギルは、カルムの火傷まみれの拳を見つめた。
「お前も……悔しいんだろ、赤毛の」
「……っ」
「俺も同じだ。俺の自慢の銛も、俺の操舵術も、あの海竜の前には何の役にも立たなかった。街の連中からは『余計なことをした』となじられ、仲間には大怪我を負わせた。……逃げ出したいのは俺の方だ」
ギルは、自分の胸を強く叩いた。
「だがな、カルム。俺たちは、あのアビスから這い上がってきた少年料理人の『覚悟』を見ちまったんだ。あいつは、腕を壊しながらも、あの海竜を『助ける』と言って包丁を振り下ろした。……あいつの火を絶やさないために、俺はこの船を直す。それが、俺の戦いだ」
ギルの言葉。
それは、カルムの胸の奥底にある「挫けかけた炎」を、容赦なく抉り出すような熱さを持っていた。
四、 アルとオルタの対話、残された温もり
一方、宿屋の静かな一室。
カルムが去った後、部屋の中には雨音だけが虚しく響いていた。
「……アル。カルムのこと、心配ですか?」
オルタが、包帯を巻き終えたアルの手にそっと寄り添いながら問いかけた。
「うん……」
アルは、膝の上で自分の包帯が巻かれた右手を見つめた。
「カルム……すごく悔しかったんだと思う。カルムはいつも、自分の身体のことより僕のことばっかり考えてくれてるから。自分が助けられなかったって、すごく傷ついてるんだ」
アルの漆黒の瞳に、寂しげな陰が差す。
「スラム街にいた頃もそうだった。スラムの人たちはみんな、お腹が空いてて、寒くて、心がキュッと小さくなってた。だから、新しく入ってきた僕たちのことを『余計なメシ喰いが増えた』って、意悪く追い払おうとしたんだ」
「パニックと……自己防衛本能の排他性、ですね」
オルタが、データベースの言葉を重ねる。
「うん。でもね、オルタ」
アルは顔を上げ、オルタのルビー色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「スラムの人たちも、アクアリアの街の人たちも、根っからの悪い人じゃないんだよ。……ただ、心が寒くて、寒くて、どうしたらいいか分からなくなってるだけなんだ」
アルは、自分の胸の奥底――トクトクと脈打つ『炉』に、そっと手を当てた。
「お腹が空いて、心まで冷え切っちゃうとね、人は他の人に優しくできなくなっちゃうんだ。……だからこそ、僕たち料理人がいるんじゃないかな」
アルの言葉に、オルタのルビー色の瞳が、驚きと感動で大きく見開かれた。
「アル……」
「どんなに街の人たちが扉を閉ざしても……どんなにカルムの心が冷え切っちゃいそうになっても。僕は、諦めないよ」
アルは、ベッドからゆっくりと立ち上がった。
その立ち姿には、身体の傷など微塵も感じさせない、圧倒的な「料理人としての気高き覚悟」が宿っていた。
「僕の包丁はね、お肉を切るためだけにあるんじゃない。……冷たく閉ざされちゃったみんなの心を解きほぐして、もう一度『温かい笑顔』を取り戻すためにあるんだからッ!」
五、 雨の向こうの光
アルは、部屋のテーブルの上に置かれていた、自分の黒鉄の包丁と、小さな調理器具を見つめた。
「オルタ。明日……もう一度、仕込みをしよう」
「仕込み……ですか?」
「うん。街の人たちが、カルムが、そしてあの海竜が……もう一度『温かい体温』を取り戻せるような、世界で一番温かい下ごしらえを、僕たちの手で準備するんだ!」
アルの漆黒の瞳に、太陽のごとき【真理の目】の黄金の輝きが、静かに、そして力強く宿った。
「アル……ッ! はい! ワタクシも、全力でお手伝いしますっ!」
オルタの顔に、いつもの最高の笑顔が咲き誇った。
窓の外では、依然として冷たい雨がアクアリアの街を濡らし続けていた。
海竜の狂乱は治まらず、カルムの心には重い影が落ち、海洋民たちの心は固く閉ざされたまま。
しかし――少年料理人アルの胸の中に燃える『炉』の火は、どれほど酷い雨が降ろうとも、決して消えることはなかった。
むしろ、絶望が深まれば深まるほど、その火はより強く、より熱く輝きを増していく。
明日、彼は試みる。
一振りの包丁と、一杯の料理の熱によって、大自然の暴力と人々の不信という「二つの閉ざされた扉」を、根底から開くための、究極の『下ごしらえ』を。
雨の向こう側に、小さな、しかし決して消えない不滅の光が、静かに灯り始めていた。




