第50話:海洋民の不信
一、 激突、そして圧倒的な力の差
カァァァァァァァァァァァァッ!!!!
海洋都市アクアリアの沖合、黒い嵐が支配する狂乱の海域。
五十メートルを超える海竜の口腔から放たれた、世界を終わらせるような青白い閃光――【海神の破滅砲】。
それに対し、空中に投げ出された少年料理人アルは、胸の『炉』を限界まで燃やし、純金の極光を放つ『黒鉄の包丁』を真っ向から振り下ろした。
「【真・理・解・体】――――ッ!!」
ズドォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!!!!
少年の包丁の極光と、海竜の破滅のブレスが、空中で真っ向から激突した。
その瞬間、嵐の海域全体の時間が止まったかのような、鼓膜を破壊するほどの凄まじい閃光と爆音が発生した。
「うおおおおおおおおっ!?」
「目があぁぁぁッ!!」
シーホーク号の甲板にいたギルや漁師たちが、あまりの光の奔流に腕で顔を覆う。
アルの【真理解体】は、確かに奇跡を起こした。
通常であれば、人間など一瞬で分子レベルまで消滅させてしまう極大の魔力ブレス。その中心を走る「因果の結び目」をアルの包丁が正確に捉え、ブレスそのものを真っ二つに切り裂いたのだ。
シュバァァァァァァンッ!!
アルの身体を避けるようにして、青白い光線が左右に泣き別れ、海面を抉りながら彼方へと飛んでいく。シーホーク号は、アルの盾によって間一髪で直撃を免れた。
しかし――。
「くっ……あぁぁぁぁぁっ……!!」
アルの小さな両腕が、ミシミシと悲鳴を上げた。
ブレスそのものの解体には成功した。だが、海竜の放った『数万トンという圧倒的な水の物理的質量』が生み出す後を引く爆風と衝撃波までは、完全に切り裂くことはできなかったのだ。
海という大自然の、桁違いの暴力。
ドゴォォォォォォンッ!!
「がはッ……!!」
真っ二つに割れたブレスの合間から押し寄せた強烈な衝撃波が、空中のアルの身体を容赦なく弾き飛ばした。
アルの身体は、まるで弾き飛ばされた小石のように、シーホーク号の甲板へ向かって猛スピードで墜落していく。
「アルゥゥゥゥゥッ!!」
カルムが絶叫し、炎の推進力で甲板を滑るように駆け抜けた。
「【星霜不滅・柔陣】ッ!」
エレナが瞬時に聖剣を振るい、アルの落下地点に青白銀のクッションとなる魔力障壁を展開する。
ドサァァァンッ!
アルの身体が障壁でワンバウンドし、カルムがその小さな身体を両腕でガシッと受け止めた。
「アル! おい、しっかりしろアルッ!」
カルムがアルを抱き起こす。アルは両腕に酷い火傷と打撲を負い、意識を半ば失いかけていたが、黒鉄の包丁だけは決して手放していなかった。
「はぁ……はぁ……ごめ、ん……。結び目まで……届かなかった……っ」
アルが苦しげに咳き込む。
「ギョオォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!」
海竜が、ブレスを破られたことに対する怒りと、教国の魔導鎖から流し込まれる激痛によって、さらに激しく狂乱し、その巨大な尾びれを天高く振り上げた。
ギギギギギギッ! ブチィィィィィンッ!!!!
海竜が首を振った反動で、シーホーク号と海竜を繋いでいた太い鋼鉄のワイヤーが、ついに限界を迎え、千切れて空を舞った。
「船長! これ以上は無理だ! 船の竜骨が折れちまうッ!!」
漁師が血相を変えて叫ぶ。
ギルは、血の滲む唇を強く噛み締めた。
海の男としての意地。だが、船長として、これ以上乗組員と街の恩人たちを死の危険に晒すわけにはいかない。
「……総員、退避ィィィッ!! 帆を反転させろ! 海竜の波を利用して、一気にアクアリアへ撤退するッ!!」
ギルの苦渋の決断。
シーホーク号は、海竜が巻き起こす巨大な引き波に強引に乗り、ボロボロになった船体をきしませながら、這々の体で黒い嵐の海域から逃れ去っていった。
二、 傷だらけの帰還と灰色の空
数時間後。
海洋都市アクアリアの埠頭に、一隻の痛々しい姿の船が接岸した。
メインマストはへし折れ、甲板の各所には大穴が空き、船体の塗装は無残に剥がれ落ちている。誇り高きアクアリア随一の捕鯨船『シーホーク号』の、無残な敗残の姿であった。
「……戻ったか」
空は、厚い灰色の雲に覆われ、冷たい小雨がシトシトと街を濡らしていた。
昨日、アルのブイヤベースで活気を取り戻したばかりの街の空気は、この灰色の空模様と同じように、重く、沈み返っていた。
船のタラップが下ろされ、負傷した漁師たちが肩を貸し合いながら次々と陸へ降りていく。
「アル……痛みますか? ワタクシが、治癒マナを流しますからね……」
オルタが、包帯を巻かれたアルの腕にそっと両手を当て、ルビー色の瞳を潤ませながら治癒の光を注いでいた。
アルは、疲労で青白い顔をしながらも、「ありがとう、オルタ。僕は大丈夫だよ」と無理に笑顔を作っていた。
カルムは、そんなアルの姿を横目で見ながら、無言で背中の荷物を担ぎ、重い足取りで船を下りた。
彼の両拳は、海竜の放つ水弾を相殺し続けたことで酷い火傷を負い、ボロボロになっていた。だが、彼を苦しめているのは肉体の痛みではない。
『アルを守るための一撃』すら、大自然の暴力の前に届かなかったという、己の無力感。
「カルム殿」
エレナが、聖剣を杖代わりにしながら並んで歩き、静かに声をかけた。
「己を責めるな。我々は生きて帰還した。海竜の力は、我々の想定を遥かに超える巨大な『理不尽』だったというだけだ」
「……分かってるよ、騎士様」
カルムは、雨に濡れた赤銅色の前髪を乱暴に掻き上げた。
「だが……俺の炎じゃ、海は焼けねぇ。水たまり一つ蒸発させられねぇんだ。……俺がこんなに弱くちゃ、アルを神座の塔まで連れて行くなんて、口が裂けても言えねぇだろうが……っ」
二人の間に、重い沈黙が落ちる。
埠頭には、シーホーク号の帰還を聞きつけたアクアリアの街の人々が、大勢集まってきていた。
しかし、昨日彼らを見送った時のような、期待と歓声に満ちた熱気は、そこには存在しなかった。
三、 海洋民の不信と浴びせられる言葉
「……嘘だろ。ギルのシーホーク号が、あんなボロボロに……」
「結局、海竜を鎮めることなんてできなかったのかよ……」
集まった漁師や商人たちの間から、ヒソヒソとした囁き声が漏れ聞こえ始めた。
ギルが、最後に船を下り、集まった群衆の前で深く、重く頭を下げた。
「すまねぇ……! 俺の力不足だ。海竜を解放することも、嵐を止めることもできなかった。……怪我人も多数出しちまった」
その言葉に、群衆の間にざわめきが広がった。
「ギル……あんたが悪いんじゃねぇよ。だが……」
一人の年老いた漁師が、前へ進み出て、恨めしそうな視線をアルたちへ向けた。
「やっぱり……陸から来たヨソ者のガキの『料理』なんかで、海の怒りが鎮まるわけがなかったんだ!」
「なっ……!」
カルムが弾かれたように顔を上げた。
「その通りだ!」
別の商人も、同調して叫び始めた。
「昨日、美味いスープを飲ませてくれたことには感謝してる! だが、海は海だ! 陸の魔法使いや料理人が、遊び半分で首を突っ込んでいい領域じゃねぇんだよ!」
「あいつらが、中途半端に海竜に手を出したせいで……ヤツの怒りがさらに増したんじゃねぇのか!? あの黒い嵐、昨日より明らかに大きくなってるぞ!」
恐怖。
それは、大自然の猛威に対する、人間の根源的な感情だ。
昨日、アルのスープによって一時的に「希望」を持ったからこそ。それが打ち砕かれ、さらに絶望的な現実(暴走する海竜と壊れた船)を突きつけられた彼らの心は、防衛本能から「責任の矛先」を外部へ向けようとしていた。
「おい、テメェら……ッ!!」
カルムの堪忍袋の緒が切れ、彼が前に出ようとした。
「アルが……アルがどんな思いであのバケモンの前に飛び込んだと思ってんだッ! テメェらの街を、海を助けるために命を懸けたんだぞ! それを、よくもそんな口が叩けたもんだなッ!!」
カルムの怒号が、雨の埠頭に響く。
彼の両拳から、再び怒りの赤い炎が漏れ出そうになった。
「カルム殿、やめろッ!」
エレナが、カルムの肩を強く掴んで制止する。
「離せ、騎士様! こいつら、アルの頑張りを踏みにじりやがったんだぞ!」
「気持ちは分かる! だが、ここで彼らに怒りをぶつけても、何一つ解決しない! 彼らもまた、海という抗えぬ暴力に怯え、家族を養う術を失って絶望している弱き民なのだ!」
エレナの言葉に、カルムはギリィッと歯を食いしばり、拳を振り下ろした。
だが、群衆の不信と不安の声は、静まるどころか、さらに熱を帯びていく。
「よそ者は出て行け! これ以上、海神様を怒らせないでくれ!」
「お前たちがいると、街に津波が来るぞ!」
心無い言葉の雨が、冷たい現実の雨に混じって、チーム『最高の厨房』の四人に容赦なく浴びせかけられていた。
四、 ぶつけられる怒りとカルムの歯痒さ
「やめろッ!!」
群衆の怒声を切り裂いたのは、船長のギルであった。
彼は、自らの巨体でアルたちを庇うように立ち塞がり、血走った三白眼で街の住人たちを睨みつけた。
「てめぇら、恥を知れッ! 海を知らねぇ陸のガキが、俺たちの街のために海竜の懐まで飛び込んでくれたんだぞ! その度胸の前に、お前らは土下座して感謝するべきだ!」
ギルの怒号に、群衆は一瞬ひるんだが、すぐに反論の声が上がった。
「ギル、あんたは騙されてるんだよ! そのガキの得体の知れない魔法かなんかに!」
「そうだ! 第一、料理人が包丁で海竜を助けるなんて、お伽話にもならねぇ! 余計なことをして、俺たちの海を引っ掻き回しただけだ!」
群衆の冷たい視線。
それは、教国ルミナで「神の教律」に背いた者へ向けられるような、異物に対する強烈な拒絶反応であった。
『――――周囲の人間の精神ステータス、極度の「パニック」および「排他性」を検出。……アルたちへの敵意が、危険レベルに達しています――――』
オルタが、アルを背中に庇うようにして、小さな両手を広げた。
「みんな……やめてくださいっ! アルは、本当に海を助けようとしただけなんですっ!」
オルタの悲痛な叫びも、恐怖に駆られた群衆の耳には届かない。
カルムは、その光景を見ながら、自分の唇から血が出るほど噛み締めていた。
(クソッ……クソッ……!)
自分がもっと強ければ。
あの海竜を、一撃で鎮めるほどの火力があれば。アルにこんな惨めな思いをさせることも、街の連中にこんな薄情な言葉を吐かせることもなかったのだ。
炎は、海には勝てない。
そして、人々の心に巣食う「恐怖の波」も、怒りの炎で焼き尽くすことはできない。
カルムは、己の無力さを呪い、ただ雨に打たれながら立ち尽くすことしかできなかった。
五、 閉ざされた港、それでも消えない火
「……ごめんなさい」
重苦しい空気の中、ふいに、透き通るような少年の声が響いた。
群衆が静まり返る。
アルが、オルタの背中からゆっくりと前に歩み出て、怪我をした両腕をだらんと下げたまま、街の人々へ向かって深く頭を下げたのだ。
「アル! 頭を下げることねぇだろ!」
カルムが叫ぶ。
アルは、顔を上げ、冷たい雨に打たれながらも、その漆黒の瞳に宿る光だけは決して絶やさずに、群衆を真っ直ぐに見つめた。
「僕が……僕の力が足りなくて、海竜の鎖を切れなかった。……だから、みんなの海を怖がらせたままで、本当にごめんなさい」
アルの真っ直ぐすぎる謝罪に、街の人々は気圧されたように言葉を失った。
「でもね」
アルは、胸の『炉』にそっと手を当てた。
「僕は、あの嵐の中で……海竜の声を聞いたんだ。あの子は、街のみんなを傷つけたいなんて、ちっとも思ってない。……教国の冷たい鎖に縛られて、痛くて、苦しくて、泣いてたんだよ」
アルの言葉が、雨の埠頭に静かに響き渡る。
「海は、みんなの命のふるさとでしょ? 美味しいお魚がいっぱいいて、みんなを笑顔にしてくれる、優しい場所のはずだよ。……だから、僕は絶対に諦めない。あの海竜を助けて、みんなが安心して美味しいご飯を食べられる海を……絶対に取り戻してみせるッ!」
アルの宣言は、怒りでもなく、反発でもなかった。
ただ純粋に、世界から苦しみを無くし、温かな食卓を取り戻したいという、料理人としての絶対の誓い。
しかし、恐怖に支配された街の人々には、そのアルの温かな光すらも、今は「危険な火種」にしか見えなかった。
「……もういい。よそ者は、宿に引っ込んでてくれ。……これ以上、俺たちの海に関わらないでくれ」
年老いた漁師が、ポツリとそう言い残し、背を向けて立ち去っていった。
それを合図にするかのように、群衆は次々と蜘蛛の子を散らすように解散し、誰もアルたちに言葉をかけることなく、雨の中へと消えていった。
残されたのは、アルたち四人と、シーホーク号の船長ギルだけだった。
「……すまねぇ、アル。……俺の街の連中が、あんな態度をとっちまって」
ギルが、悔しそうに拳を握り締め、深く頭を下げた。
「ううん。ギルさんが謝ることじゃないよ。……みんな、海が怖くて、家族が心配なだけだから」
アルは、寂しそうに微笑んだ。
「ギル殿」
エレナが静かに口を開く。
「彼らの心が閉ざされてしまった以上、この街で再び船を出す協力を得ることは困難だろう。……だが、我々は教国へ向かうためにも、そしてあの海竜を苦しみから解放するためにも、諦めるわけにはいかない」
「ああ。分かってる」
ギルは、雨空を見上げ、深く息を吐いた。
「俺は、俺の船(シーホーク号)の修理を俺一人ででも続ける。……明日は無理だが、数日あれば何とか船を動かせる状態にしてみせる。……その間、お前たちは宿で身体を休めていてくれ」
「ギルさん……ありがとう」
アルが頷く。
冷たい雨が降り続く海洋都市アクアリア。
昨日、一杯のスープで開きかけたはずの人々の心は、大自然の暴力という現実の前に、再び固く閉ざされてしまった。
そして、相棒カルムの心にも、己の無力さという重い影が落ちている。
だが、アルの胸の『炉』の火は、決して消えてはいなかった。
どんなに冷たい不信の雨が降ろうとも、最高の料理人としての直感と情熱が、次なる「下ごしらえ」の時を静かに、力強く待ち続けていたのである。




