第49話:荒れる波涛
一、 鋼鉄の糸と暴風雨
ザァァァァァァァァァァァァッ!!!!
横殴りの暴雨が、刃のようにアルの全身に打ちつけていた。
海洋都市アクアリアの沖合、黒い嵐が支配する狂乱の海域。五十メートルを超える海竜の額に打ち込まれた巨大な白銀の銛と、捕鯨船シーホーク号とを繋ぐ、一本の極太の鋼鉄ワイヤー。
アルは、黒鉄の包丁を口に咥えたまま、そのワイヤーに必死にしがみついていた。
「ギョオォォォォォォォォォォォォッ!!」
海竜が苦痛に狂い、巨大な頭部を振り乱すたびに、張り詰めたワイヤーは恐ろしい音を立てて上下左右に激しくバウンドする。
アルの小さな身体は、まるで台風の中に放り出された木の葉のように宙を舞い、何度もワイヤーから弾き飛ばされそうになった。
「う、うぅぅぅっ……!!」
アルは、両腕の筋肉が千切れそうになるのを必死に堪え、ワイヤーに擦れて手のひらから血を滲ませながらも、一歩、また一歩と前へ(上へ)向かって這い進んでいった。
眼下では、黒く口を開けた海面が、アルを飲み込もうと渦を巻いている。
落ちれば、確実に助からない。大自然の圧倒的な暴威が支配するこの海域で、人間の少年一人が落ちれば、一瞬にして波の底へと引きずり込まれ、水圧に押し潰されるだけだ。
(怖い……。落ちたら、死んじゃう……)
アルの心の中に、本能的な恐怖がよぎる。
スラムで死にかけていた時と同じ、圧倒的な「死」の気配。
しかし、アルの漆黒の瞳に宿る【真理の目】は、嵐の暗闇の中でも、海竜の額に深く突き刺さっているドス黒い【漆黒の魔導鎖(結び目)】を、はっきりと捉え続けていた。
(でも……あの海竜は、もっと痛くて、怖い思いをしてるんだ……!)
海竜の全身を縛り上げる、教国ルミナの強制制御プログラム。
本来であれば自由に海を泳ぎ、大自然の調和を司るべき誇り高き水竜が、冷たい計算式によって心を書き換えられ、自分の意志とは無関係に街を破壊させられようとしている。
(そんなの、絶対に間違ってる……ッ! 僕は、料理人だ! 食材の痛みを、命の苦しみを解きほぐすのが……僕の仕事なんだからッ!!)
アルは、濡れた前髪を振り払い、胸の『炉』をさらに熱く燃え上がらせた。
口に咥えた『黒鉄の包丁』から、黄金の光の粒子が溢れ出し、アルの身体を包み込んで雨の冷たさから彼を護る。
「待っててね……! 今、僕が……その鎖を切ってあげるからッ!!」
アルは、血の滲む両手でワイヤーを力強く掴み直し、海竜の額へ向かって、決死の綱渡りを再開した。
二、 船上の死闘・不屈の炎と盾
一方、アルの命綱である鋼鉄のワイヤーを支えるシーホーク号の甲板でも、絶望的な死闘が繰り広げられていた。
「引けェェェェッ! ウィンチが巻き戻されるぞッ! 絶対に緩めるなァァァァッ!!」
船長のギルが、十数人の漁師たちと共に、ギリギリと悲鳴を上げるウィンチの歯車に太い鉄の棒を差し込み、全身の筋肉を弾けさせんばかりにして、海竜の引きずり込む力に耐えていた。
「クソッ……! 船が半分以上持ち上がってやがる! このままじゃ、海竜に船ごと空へ引きずり上げられちまうぞッ!」
漁師の一人が、恐怖に顔を引き攣らせて絶叫する。
海竜が頭を上げるたびに、シーホーク号の舳先が海面から浮き上がり、甲板の角度が垂直近くにまで傾くのだ。
「諦めるなッ! 俺たちの命綱は、あのワイヤーの先にいる小さなコック長に託されてるんだ! 俺たちが手を離せば、あいつは真っ逆さまに海の底だぞッ!!」
ギルの怒号に、漁師たちが血を吐くような気合でウィンチを押さえ込む。
しかし、試練はそれだけではなかった。
海竜の周囲に渦巻く分厚い「水の壁」が、意思を持っているかのように巨大な水弾となり、雨霰のごとくシーホーク号の甲板へと降り注いできたのだ。
「波が来るぞォォォッ!!」
「やらせるかよォォォォォォォォォッ!!!!」
その水弾の雨の前に、赤蓮の炎を全身から吹き上がらせたカルムが立ちはだかった!
カルムは、甲板の床に深々と両足を突き立て、燃え盛る両拳を天空へ向けて乱れ打つ!
「【我流神殺・太陽紅蓮乱舞】ッ!!!!」
ドガガガガガガガガガガガッ!!!!
カルムの放った無数の炎の拳弾が、降り注ぐ巨大な水弾と空中で激突し、凄まじい水蒸気爆発を連続で引き起こす!
「ハァ……ハァ……ハァ……ッ!」
カルムの口から、血の混じった荒い息が漏れる。
彼の炎は、海竜が巻き起こす「海そのもの」の質量を蒸発させることはできない。先ほどの津波に対する無力感は、今も彼の心に深く刻み込まれている。
だが、飛来する「水弾」程度であれば、全魔力を注ぎ込んだ炎の爆発力によって、空中で弾き飛ばし、相殺することは可能だった。
「俺は……俺の炎は、海に勝てねぇかもしれねぇ……っ」
カルムは、焼け焦げて皮膚が剥がれ落ちた両拳を、ギリィッと強く握り締めた。
「だがな……! アルを守ることだけは……俺の炎にしかできねぇ仕事なんだよッ!!」
カルムの怒号とともに、彼の炎がさらに限界を超えて赤熱する!
飛んでくる水弾を一つ残らず叩き割り、アルの背中に迫る水しぶきを炎の熱風で吹き飛ばす。それは、海の質量に抗うための攻撃ではなく、仲間を護るための純粋な「防衛の炎」への昇華であった。
そして、カルムの後方では、エレナが聖剣を甲板に突き立てていた。
「カルム殿の炎が撃ち漏らした水滴一つ……私とて、この船には通さんッ!」
【星霜不滅・絶対極光陣】ッ!!
エレナの展開した青白銀の幾何学魔法陣が、カルムの炎の防衛網を補うように、シーホーク号全体と、ウィンチを支える漁師たちを完璧に包み込む。
「ぐっ……ぬぅぅぅぅぅっ……!」
エレナの白磁の甲冑がミシミシと悲鳴を上げ、膝が割れそうになる。
魔法陣の表面に水弾が激突するたびに、彼女の体内を巡るマナ回路が過剰な負荷で焼き切れそうになる。
「エレナさんッ! カルムッ! マナの出力低下を確認! ……ワタクシの余剰マナを、バイパスして供給しますッ!!」
オルタが、両手を二人へ向けてかざし、自身のメインコアから純白のマナを二人の体内へと直接流し込んだ。
『――――ワタクシのナビゲーションで、水弾の飛来予測ポイントをコンマ二秒前に共有します! 無駄なマナの消費を抑え、防衛の効率を最大化してくださいッ!――――』
オルタのルビー色の瞳が、戦場全体の情報を完璧に統括する。
彼女の正確な予測データが、カルムの炎の軌道を最適化し、エレナの障壁の厚みを必要な箇所だけピンポイントで強化させる。
「へっ……助かるぜ、おチビちゃん!」
「感謝する、オルタ! 君の目がなければ、とうに船は沈んでいた!」
陸の魔法使い。教国の騎士。アガルタの機械人形。そして、海の男たち。
絶対に交わるはずのなかった彼らが今、猛り狂う大海原の上で、たった一人の少年料理人を海竜の元へ届けるためだけに、己の全存在を賭けて一つの「不滅の盾」を形成していた。
三、 海竜の苦痛と教国の防衛プログラム
「みんな……ッ! ありがとう……ッ!!」
アルは、ワイヤーの上から仲間たちの奮闘を垣間見、胸の奥底で熱い涙を流した。
みんなが、自分のために限界を超えて戦ってくれている。
自分がやらなきゃ、誰がやるんだ。
アルは、海竜の巨大な顔の目前、あと十メートルという距離まで迫っていた。
ギルの放った白銀の銛は、海竜の眉間のすぐ下、分厚い青い鱗の隙間に深々と突き刺さっている。
そして、そのすぐ上部――海竜の額の最も硬い鱗(逆鱗)の奥深くから、禍々しい漆黒の魔力ラインが幾筋も伸びており、それが海竜の全身を縛り上げる【漆黒の魔導鎖】のマスター・ノード(結び目)であった。
(あそこだ……! あの黒い結び目を切れば、海竜は正気を取り戻すッ!)
アルが、最後の力を振り絞ってワイヤーを登り切ろうとした、その時であった。
『――――警告。特異点の接近を検知。……防衛プロトコル・強制起動――――』
海竜の額に埋め込まれた漆黒のマスター・ノードが、不気味な赤い光を明滅させた。
それは、海竜自身の意思ではない。教国ルミナの神託機関が、この強制制御プログラムを破壊されないように仕組んでいた【自動防衛機構】であった。
ブワァァァァァァァッ!!
海竜の額から、海水が意志を持ったように空中に浮き上がり、数十本の鋭利な「水の槍」へと姿を変えた。
それが、ワイヤーにしがみつくアルへ向かって、全方位から一斉に襲いかかってきたのだ!
「なっ……!?」
ワイヤーの上では、避ける場所などない。
アルが片手を離して包丁を振るえば、バランスを崩して海へ真っ逆さまに落ちてしまう。
(ダメだ……躱せないッ!)
アルが、死の恐怖に瞳を収縮させた瞬間。
『――――アルッ!! ワイヤーを蹴って、右へ一・五メートル跳躍してくださいッ!!――――』
オルタの凛とした声が、アルの脳内に直接響き渡った。
彼女がアルの『真理の目』とリンクさせていた同期の通信回線だ。
「えっ……でも、ワイヤーから手を離したら……!」
『――――信じてくださいッ!! ワタクシと……カルムをッ!!――――』
オルタの叫びに、アルは一瞬の迷いも捨てた。
仲間を信じる。それが、チーム『最高の厨房』の絶対の掟だ。
「わぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
アルは、迫り来る水の槍の雨を前にして、命綱である鋼鉄のワイヤーを蹴り放ち、何もない右側の虚空へ向かって、思い切り身を投げ出したのだ!
ズバババババババババッ!!!!
アルが先ほどまでいたワイヤーの空間を、数十本の水の槍が凄まじい速度で突き抜けていく。
間一髪の回避。
しかし、ワイヤーから手を離したアルの身体は、重力に従って、口を開ける暗黒の海面へ向かって真っ逆さまに落下し始めた。
「アルゥゥゥゥゥッ!!」
甲板のエレナが絶叫する。
だが、アルの身体が海面へ激突する直前。
「落ちてたまるかよォォォォォォォォォォッ!!!!」
カルムの咆哮が、嵐の海に轟いた。
四、 オルタの導きと少年の覚悟
カルムは、甲板の上から、アルが落下していく軌道――オルタが事前に予測し、指定した空間の「一点」へ向けて、両腕の全魔力回路を焼き切らんばかりにして、最大の炎の塊を撃ち放ったのだ!
「【我流神殺・上昇気流】ッ!!!!」
ドガァァァァァァァァァァンッ!!!!
カルムの放った炎の塊が、アルの落下地点の真下の海面で大爆発を起こした!
炎と海水が激突し、凄まじい水蒸気爆発が発生。
その爆発によって生じた、局地的な『超高熱の上昇気流』が、落下してくるアルの小さな身体を、下から優しく、しかし圧倒的な力でフワリと包み込んだのだ!
「うわぁっ!?」
アルの身体が、上昇気流に乗って、まるでトランポリンで跳ね上げられたかのように、再び空高く舞い上がる。
「カルム……! オルタ……ッ!!」
アルは、空中で身体を反転させながら、甲板にいる仲間たちへ向けて涙の混じった感謝の声を上げた。
オルタが、教国のトラップを予測してアルを右へ跳ばせ。
カルムが、落下するアルを炎の気流で下から掬い上げる。
完璧な、そして命懸けの連携が、空中にいるアルの軌道を、見事、海竜の額の真正面へと送り届けたのだ!
「今です、アルッ!! 結び目へ……包丁をッ!!」
オルタが叫ぶ。
アルは、上昇気流の頂点――海竜の額の真正面で、口に咥えていた『黒鉄の包丁』を、右手でしっかりと握り直した。
アルの瞳に、太陽のような【真理の目】が、かつてない密度で極限まで燃え上がる。
視界に映るのは、海竜の眉間の奥底で赤黒く脈打つ、教国ルミナの【漆黒の魔導鎖のマスター・ノード】。
(見えた……! あの冷たい結び目を……僕の包丁で、絶対に切るッ!!)
アルは、空中で身体を弓のようにしならせ、黒鉄の包丁を上段へと振りかぶった。
五、 額の逆鱗へ・迫る破滅の激流
しかし。
教国の残した悪意のシステムは、アルの解体をただ指をくわえて待っているほど甘くはなかった。
『――――特異点の接近を最終危険度と認定。……マスター・ノードの自衛機能、限界突破――――』
ピィィィィィィィィィィンッ!!!!
海竜の額のマスター・ノードが、どす黒い光を爆発的に放ち、海竜の脳髄へ向けて、致死量を超える激痛の電流を直接流し込んだのだ!
「ギョオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!!!」
海竜が、これまでにないほど狂乱し、天を仰いで絶叫した。
その巨大な顎が大きく開かれ、周囲の海水を竜巻のように口内へと吸い込み始める。
「なっ……! まさか……ッ!」
ギルが、操舵輪から手を離し、顔面を蒼白にさせた。
海竜の口腔内で、青白い莫大なマナが、太陽のような輝きを持って圧縮されていく。
それは、海竜自身が持つ最強の破壊ブレス――【海神の破滅砲】の臨界チャージ。
教国のシステムは、アルを確実に排除するため、海竜の命を削ってでも、至近距離からこの超絶破壊光線を放とうとしているのだ。
『――――アルッ!! 退避してください! あの至近距離でブレスの直撃を受ければ、アルの身体は分子レベルで消滅しますッ!――――』
オルタが、泣き叫ぶような悲鳴を上げた。
「……逃げないよ」
アルの声は、嵐の中でも、驚くほど澄み切っていた。
アルの身体は、上昇気流の勢いを失い、重力に従って海竜の額へ向かって落ちていく。
その目の前では、海竜の口の中で、彼を消し去るための破滅の光が、今まさに放たれようとしていた。
(この子が、僕を殺そうとしてるんじゃない。……この子は、泣いてるんだ)
アルの【真理の目】には、海竜の赤く血走った瞳の奥底に、無理やり力を引き出され、自らの意思を奪われていることに対する「底知れぬ悲しみと涙」が、痛いほどはっきりと見えていた。
「大丈夫だよ」
アルは、空中で、黒鉄の包丁を両手で固く握り締めた。
彼の体内にある命の火『炉』が、太陽の臨界点のごとく爆発的に燃え上がり、黒鉄の包丁から【純金の極光】が燦然と吹き上がる。
「みんなの分まで……僕が、全部下ごしらえしてあげるからッ!!」
アルが、自らの命を賭して、海竜の額の結び目へ向かって包丁を振り下ろそうとした瞬間。
海竜の口から、世界を終わらせるような【海神の破滅砲】の青白い閃光が、アルを飲み込まんと撃ち放たれた!
少年の包丁の極光と、海竜の破滅のブレス。
荒れ狂う波涛の真ん中で、究極の二つの光が、いま、正面から激突しようとしていた。




