第48話:暴走する海竜
一、 黒き嵐の中心へ
ザッッパァァァァァァァァァァンッ!!!!
捕鯨船シーホーク号の舳先が、家屋ほどもある巨大な三角波を正面から叩き割り、大量の白い飛沫を空高く打ち上げた。
海洋都市アクアリアから外洋へと出航し、数十分。
アルたちチーム『最高の厨房』を乗せた船は、ついに狂乱の海域――分厚い暗雲がとぐろを巻く【黒き嵐の中心】へと突入していた。
「左舷、波が来るぞッ! 面舵いっぱぁぁぁぁいッ!」
「帆を絞れッ! 風に持っていかれるなッ!」
荒くれ者の漁師たちが、甲板の上で必死にロープを引き絞り、絶叫を交わしながら巨大な船体を制御している。
空は真昼だというのに夜のように暗く、頭上では紫色の雷光が幾筋も走り、鼓膜を裂くような雷鳴が絶え間なく轟いていた。
降り注ぐ雨はまるで石の礫のように痛く、横殴りの暴風が甲板の上のすべてを海へ引きずり込もうと吹き荒れている。
「くそっ……! まともに立ってるのもやっとだぜッ!」
カルムが、マストの太い柱にしがみつきながら、顔に当たる雨水を乱暴に拭い去った。
「カルム殿、油断するな! この波の揺れ……尋常ではないぞ!」
エレナも、甲冑の重みで重心を低く保ちながら、聖剣の柄を固く握り締めている。
自然の猛威。
大地に足をつけて戦う陸の魔獣討伐とは次元が違う。船という不安定な足場の上で、周囲三六〇度、そして足元の深淵から迫り来る圧倒的な「海の暴力」に耐えなければならないのだ。
「ギルさん! このままじゃ船が……っ!」
アルが、波の衝撃で転がりそうになりながら、船尾の操舵輪を握る船長ギルへと叫んだ。
「心配すんな、坊主ッ!」
ギルは、荒れ狂う波濤の中で、まるで楽しむかのように不敵な笑みを浮かべていた。彼の浅黒い肌には雨水が弾け、鍛え上げられた腕の筋肉が、巨大な舵輪をミリ単位でねじ伏せている。
「シーホーク号は、俺たち海の男の魂だ! この程度の嵐で沈むようなヤワな造りはしてねぇよ! ……それより、お前らはお前らの仕事(料理)に集中しなッ! いつでもヤツの喉元に飛び込めるようにな!」
その時だった。
『――――警告ッ! 警告ッ!!――――』
甲板の中央で、両手を合わせて解析を続けていたオルタが、ルビー色の瞳を激しく明滅させて悲痛な声を上げた。
『――――直下の海底、深度一〇〇メートルから……規格外の超巨大マナ反応が急速浮上中!……来ますッ!!――――』
「野郎どもッ! 衝撃に備えろォォォォォォッ!!」
ギルの怒号が甲板に響き渡った。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…………ッ!!!!
シーホーク号の周囲数十メートルの海面が、まるで海底火山が爆発したかのように、真っ白に泡立ち、不気味に盛り上がり始めた。
そして、海が「割れた」。
二、 海の覇者・リヴァイアサンの顕現
ズバァァァァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!!!!!
船の真横の海面を突き破り、深淵の底から「それ」が姿を現した。
「な……ッ!?」
アルの瞳が、恐怖と驚愕で限界まで見開かれた。
天を衝くほどの巨大な水柱とともに浮上したのは、全長五十メートルを優に超える、圧倒的な威容を誇る超巨大な水竜。
海の生態系の頂点に君臨する大自然の化身――【伝説の海竜】であった。
海色の美しいはずの鱗は、今やドス黒い教国の「抑圧マナ」によって汚染され、痛々しく変色している。流線型のしなやかな巨躯には、幾千もの鋭いヒレが逆立ち、その目は狂乱と激痛によって血走った真紅に染まっていた。
「ギョオォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!!!」
海竜が、天に向かって凄まじい咆哮を放った。
ただ鳴き声を上げただけではない。その咆哮が放つ圧倒的な音波とマナの振動によって、周囲の海面がすり鉢状に吹き飛び、大気がビリビリとひび割れるような衝撃波となってシーホーク号を襲った。
「ぐわぁぁぁっ……!」
「耳が……ッ! 鼓膜が破れるぞッ!」
甲板の漁師たちが次々と膝をつき、耳を塞いで苦悶の声を上げる。
アルも、あまりの衝撃に吹き飛ばされそうになり、オルタが必死にアルの腕を掴んで引き留めた。
「これが……海竜……! アガルタの防衛核より……デカい……!」
カルムが、マストにしがみついたまま、信じられないものを見るように見上げた。
機械の城砦であったアガルタの中枢兵器とは違う。
海竜は、生きた肉体と、果てしない海の大自然の力を直接行使してくる「本物の化け物」であった。
『――――対象の戦闘力をスキャン……。解析不能……!――――』
オルタが、震える声で報告する。
『――――海竜の周囲にある海水すべてが、ヤツの「武器」としてマナリンクしています! 莫大な水の質量が、そのまま破壊力として放たれますッ――――』
ザパァァァァァンッ!!
海竜が、その巨大な尾びれを海面に叩きつけた。
ただそれだけで、高さ二十メートルを超える凶悪な三角波が発生し、シーホーク号へ向かって横腹から襲いかかってきた。
「波が来るぞッ! 面舵、限界まで切れェェェェッ!」
ギルが舵輪を回し、船体を波に対して垂直に向けようとするが、波の速度が速すぎる。
「このままじゃ、船がひっくり返るッ!」
「俺に任せろォォォォォッ!!」
カルムが、マストから飛び出し、迫り来る巨大な波の壁の正面へと躍り出た!
三、 届かない炎、深まる無力感
「陸の魔法使いのガキが! 何をする気だッ!」
漁師の一人が叫ぶ。
カルムは、両足を甲板に深く沈め込み、己の全身の毛術回路を全開にして、太陽のごとき【赤蓮の極光炎】を爆発的に燃え上がらせた。
「どんなデカい波だろうが……俺の最高火力で、一滴残らず蒸発させてやるッ!!」
カルムの瞳に、喧嘩屋としての絶対の自信と意地が宿る。
彼は、己の命の火のすべてを右拳に集中させ、迫り来る二十メートルの水の壁へ向かって、真っ向から拳を突き出した!
「【我流神殺・太陽紅蓮大瀑布】ッ!!!!」
ゴォォォォォォォォォォォォォッ!!!!
カルムの拳から放たれた、巨大な火炎の竜巻。それは、アガルタの分厚い装甲をも溶かした、彼が放てる最大の絶技であった。
炎の竜巻が、圧倒的な熱量を持って、水の壁へと激突する。
ドガァァァァァァァァァァンッ!!
炎と水が衝突し、凄まじい水蒸気が発生した。
「いけぇぇぇぇッ!! 全部焼き尽くせッ!!」
カルムが、血管を浮き上がらせて咆哮する。
しかし――。
「……なっ!?」
カルムの顔が、驚愕と絶望に歪んだ。
ジュワァァァァァァァァッ……。
カルムの放った最強の炎が。
海竜の操る、数万トンという圧倒的な「水の質量」と、海という大自然の深い「属性」の前に……たったの数秒で、情けない音を立ててかき消されてしまったのだ。
「嘘……だろ……。俺の炎が……俺のすべてが……効かねぇ……!?」
炎を失い、完全に無防備になったカルムの頭上へ、勢いをわずかに削がれただけの巨大な波が、黒い影となって覆い被さろうとしていた。
スラムで生き抜くために頼ってきた拳。
仲間を守ると誓った炎。
それが、海という無慈悲な大自然の前に、全く通用しない。
(俺は……何の役にも立たねぇのか……!)
カルムの心が、かつてないほどの激しい「無力感」に打ち砕かれた瞬間であった。
「カルム殿、下がれェェェェッ!!」
波がカルムを飲み込む寸前、白銀の流星が彼の前に割り込んだ。
エレナだ!
彼女は、聖剣『星霜』を天高く掲げ、全生命のマナを注ぎ込んで絶対防壁を展開した。
「【星霜不滅・絶対極光陣】ッ!!!!」
ガガガガガガガガガガガガッ!!!!
青白銀の幾何学魔法陣が、巨大な波の直撃を真っ向から受け止める!
凄まじい衝撃。甲板の木材が悲鳴を上げてひび割れ、シーホーク号全体が大きく左舷に傾く。
「ぐっ……があぁぁぁぁぁっ……!!」
エレナの口から、鮮血が大きく噴き出した。
白磁の甲冑の肩当てが弾け飛び、彼女の膝が甲板の床にめり込む。
「エレナさんッ!!」
アルが叫ぶ。
波は防いだ。しかし、エレナの障壁も限界寸前であり、次に同じ波が来れば、今度こそ船ごと海の底へと沈められてしまう。
「ハァ……ハァ……っ。すまない、アル殿。……海竜の質量……想像以上だ……っ」
エレナが、血を吐きながら聖剣を杖にして立ち上がろうとする。
「クソッ……クソォォォォォッ!!」
カルムが、自分の焼け焦げた両拳を、ギリギリと血が出るほど強く握り締めた。
悔しい。情けない。自分がもっと強ければ、エレナにこんな怪我をさせることもなかったのに。
『――――警告! 海竜の口腔内に、莫大なマナの圧縮を確認!……次弾、来ますッ!!――――』
オルタの悲鳴に近いアナウンス。
海竜が、その巨大な顎を大きく開き、周囲の海水を渦を巻くように吸い込み始めた。
それは、ただの波ではない。極限まで圧縮された水の刃――【水竜の激流】のチャージ。
まともに直撃を受ければ、シーホーク号など一瞬で木端微塵に粉砕されてしまう。
四、 苦しむ命と漆黒の鎖
「やめろ……ッ!!」
アルが、黒鉄の包丁を抜き放ち、船の最前列へと飛び出した。
アルの漆黒の瞳に、太陽のごとき【真理の目】の黄金の光が、極限まで燃え上がる。
カァァァァァァァァッ……!
アルの視界の中。
狂乱し、破滅の激流を放とうとしている五十メートルの海竜の巨体。
その分厚い青き鱗の隙間に、そして海竜の全身を覆い尽くすようにして、ある「おぞましいもの」が深く、深く食い込んでいるのがはっきりと見えた。
「鎖……! 真っ黒な、トゲトゲの鎖が……!」
アルが叫んだ。
それは、物理的な鎖ではない。
教国ルミナの神託機関が海竜に打ち込んだ、【漆黒の魔導鎖(強制制御プログラム)】であった。
鎖には無数の棘が生えており、海竜の肉体に深く突き刺さり、ヤツが少しでも自分の意思で動こうとするたびに、脳髄を焼き切るような激痛の電流を流し込んでいるのだ。
(痛い……っ。苦しいよ……っ。やめろ……俺の海を、俺の体を、勝手に操るな……っ!)
海竜の悲痛な魂の叫びが、マナの波形となってアルの『炉』へダイレクトに響いてくる。
「怒ってるんじゃない……! あの海竜は、教国の鎖に縛られて、痛くて痛くて、どうしようもなくて暴れてるだけなんだッ!」
アルは、黒鉄の包丁を強く握り締めた。
「オルタ! あの黒い鎖の『大元(結び目)』はどこ!? どこを切れば、あの子を解放してあげられるの!?」
オルタが、ルビー色の瞳を激しく明滅させ、アルの【真理の目】の視界と自らの解析データを同期させた。
『――――照合完了! 黒い魔導鎖のマスター・ノード(結び目)は……海竜の頭部、巨大な『逆鱗』のすぐ奥深くに埋め込まれています!――――』
「頭部……!」
アルが、遥か頭上で鎌首をもたげる海竜の巨大な頭を見上げた。
船からは、優に三十メートル以上の高さがある。アルの包丁の斬撃を飛ばすにしても、海竜の周囲に渦巻く分厚い水の防壁が邪魔をして、正確に結び目まで刃を届かせることは不可能だった。
「届かない……! 僕が直接あそこまで行って、包丁を突き刺さなきゃ、解体できないよッ!」
しかし、どうやって?
荒れ狂う海の上、空中を飛ぶ手段はない。カルムの炎で押し上げてもらおうにも、カルムの炎は海の質量に完全に封じられてしまっている。
「……なら、道を作ってやるのが、船長の仕事だ」
その時、アルの背後から、低く、力強い声が響いた。
五、 海の男の意地と、繋がれた道
「ギルさんッ!」
振り返ると、そこには、血と雨水にまみれた船長ギルが、自身よりも巨大な白銀の銛を右肩に担ぎ上げて立っていた。
銛の後部には、シーホーク号の巻き上げ機から伸びる、腕の太さほどもある極太の鋼鉄ワイヤーがしっかりと結びつけられている。
「野郎どもッ! 船を波の頂点に乗せろッ! 海竜の喉元まで、限界ギリギリまで寄せるぞッ!!」
「おうッ! 任せとけ船長ぉぉぉッ!!」
漁師たちが、死の恐怖を振り払い、決死の覚悟で帆と舵を操作する。
シーホーク号は、海竜が巻き起こした大波の斜面を、まるでサーフィンのように滑り上がり、海竜の巨大な胴体へと信じられない速度で肉薄していった。
「アル! 料理人ってのは、獲物の急所を捌くのが仕事なんだろ!」
ギルが、白銀の銛をギリィッと限界まで引き絞った。
「俺が、この銛をヤツの額の近くにぶち込んでやる! そのワイヤーを伝って、お前がヤツの懐に飛び込めッ!!」
「ギルさん……! でも、そんなことしたら、船が海竜に引っ張られて……!」
「構わねぇ! これが、海を愛する男の意地だッ!!」
ギルの全身の筋肉が爆発的に隆起し、白銀の銛に群青色のオーラが纏われる。
「いけぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!!」
【海王絶技・天貫く銀鯨牙】ッ!!!!
ギルが放った白銀の銛は、雷光を切り裂くような凄まじい速度で空を飛び、見事、海竜の眉間のすぐ下――分厚い鱗と鱗の隙間の、黒い鎖が密集している箇所へと、ドスゥゥゥンッ! と深々と突き刺さったのだ!
「ギョオォォォォォォォォォォォッ!!」
海竜が、痛みに激しく身をよじり、巨大な頭を振り回す。
ギギギギギギギギッ!!
銛に繋がれた鋼鉄のワイヤーが、悲鳴を上げてピンと張り詰め、シーホーク号が海竜の巨体に引きずられるようにして宙に浮き上がった。
「道は……できたぞッ! 行けェ、アルゥゥゥッ!!」
ギルが、血を吐きながら絶叫する。
「アルッ!!」
アルがワイヤーに飛び乗ろうとした瞬間、背後からカルムがアルの腕を強く掴んだ。
「カルム……?」
カルムは、俯いたまま、自分の無力な拳をワナワナと震わせていた。
だが、彼は顔を上げると、悔しさを完全に噛み殺し、アルに向かって不敵な、そして最高に頼もしい相棒の笑みを作ってみせた。
「俺は……炎が効かねぇから、お前と一緒に飛んでやることはできねぇ。……だが、俺はお前の『最高の火力』だ。お前が料理に集中できるよう、俺の命に代えても、この船と……迫り来る水しぶきは、全部俺の炎で弾き飛ばしてやる!」
カルムの言葉に、アルの胸が熱くなった。
自分の無力さに一番傷ついているはずのカルムが、それでも仲間のために、今自分にできる最大の「裏方」に徹しようとしてくれている。
「ありがとう、カルム……! お願い、みんなを護ってッ!」
「ああ! 行ってこい、コック長ッ!! 最高の『下ごしらえ』を魅せてやれッ!!」
アルは、黒鉄の包丁を口に咥え、ピンと張り詰めた鋼鉄のワイヤーへ向かって、決死の跳躍を見せた!
ガシッ!!
アルの小さな手が、油にまみれた冷たいワイヤーを掴む。
眼下には、口を開けて待ち受ける荒れ狂う暗黒の海。
頭上には、暴れ狂い、破滅の激流を放とうとしている五十メートルの海竜。
(待ってて。……今、その苦しい鎖を、全部切ってあげるからねッ!!)
アルの『炉』が、大嵐の中で黄金の光を放って燃え上がる。
少年料理人は、たった一人、鋼鉄の糸を伝って、大自然の化身である海竜の巨大な懐へと、真っ直ぐに突き進んでいくのであった。




