第47話:異変の兆し
一、 嵐の前の静寂と、アクアリアの朝
海洋都市アクアリアの朝は、青く澄み渡った静寂とともに始まった。
昨日、海竜が巻き起こした大津波の傷痕は、まだ街の随所に色濃く残っていた。だが、大水上市場の広場には、すでに無数の漁師や商人、そして街の住人たちが集まり、威勢の良い掛け声とともに復興作業に精を出している。
彼らの表情に、昨日までのあの暗い絶望の陰りはなかった。
少年料理人アルが仕込み、振る舞った【真理解体・アクアリア復興の極上海鮮ブイヤベース】。その温かなスープの余韻が、今も人々の胸の奥底に「生きる活力」としてしっかりと残っていたからだ。
「よお、お前たち! 早いな!」
白亜の埠頭。修理が進む巨大な捕鯨船『シーホーク号』の前で、船長のギルが背中の巨大な白銀の銛を調整しながら、アルたち四人を笑顔で出迎えた。
「ギルさん、おはようございます!」
アルが元気に手を振り返す。
その隣には、大きな調理リュックを背負ったカルム、甲冑の手入れを済ませたエレナ、そしてアルの手製の小さなリュックを抱えたオルタが並んでいた。
「ふん、船の修理は順調のようだな」
エレナが、シーホーク号の甲板で大工たちがハンマーを振るう様子を見上げて頷いた。
「ああ、昨日のブイヤベースで元気が出た街の大工どもが、一晩徹夜でマストの補強をしてくれた。あと一時間もすれば、外洋へ向けて出航できるぞ」
ギルはそう言ってニッと笑ったが、ふと視線を沖合へ向けると、その三白眼に深い懸念の光を浮かべた。
「だがな……状況はどんどん悪くなっていやがる」
「悪くなってる……?」
アルが首を傾げる。
「ああ。見ろよ、あの海を」
ギルが指差した先――海洋都市アクアリアの防波堤の向こう側に広がる外洋。
今朝の空は、雲一つない快晴であった。しかし、沖合の特定の海域だけが、まるで巨大な黒いインクを落としたかのように、禍々しい漆黒の暗雲に覆われている。
昨日よりも、その暗雲の範囲が明らかに広がっていた。
暗雲の下では、巨大な竜巻が幾本も海面から立ち上り、雷光が激しく明滅している。そして、そこから漂ってくるのは、生臭い潮の香りなどではない――鼻を突くような、焦げついた【異様なマナの臭気】であった。
二、 オルタの精密解析と不気味なノイズ
「オルタ、あの嵐の様子……スキャンできる?」
アルが不安そうにオルタの顔を覗き込んだ。
「はい、アル。……広域マナソナー、スキャンを開始します」
オルタがルビー色の瞳を瞬かせると、空中に透明なホログラムの波形パネルが何枚も展開された。
『――――遠隔解析シークエンス、実行。……対象:外洋の局所的大嵐――――』
オルタの瞳に、滝のようなデータ文字列がスクロールする。
しかし、解析が進むにつれて、オルタの白磁の頬が次第に強張っていった。
「……おかしいです」
「おかしい? 何が分かったんだ、おチビちゃん?」
カルムが腕を組み、真剣な表情で顔を近づける。
「ワタクシのソナーに……不自然な『ノイズ』が混入しています」
オルタは、ホログラムパネルの一部を指で拡大してみせた。
そこに映し出されたのは、暴走する海竜の巨大な生命反応。しかし、その巨大な青い光のグラフィックを取り囲むように、細く、ドス黒い【金属的なスパーク反応】が、まるでクモの巣のように絡みついていたのだ。
「通常、自然生物や魔獣の狂乱であれば、マナの波動はランダムな乱乱を示します」
オルタの声に、機械特有の冷静さと、人間らしい困惑が混ざり合う。
「ですが……あの海竜を囲む黒い波形は、コンマ一秒の狂いもなく、規則的なリズムで脈動しています。……これは、自然の暴走ではありません。……人工的な『強制制御プログラム』の波形です!」
「人工的な制御プログラム……!?」
エレナの顔色が一変した。
「つまり、誰かが意図的にあの海竜を苦しめ、狂わせて、このアクアリアの街へ向けて暴走させているということか!?」
「肯定です、エレナ。……さらに、その黒いプログラムの波形パターン……ワタクシのデータベースにある『ある存在』の波形と、適合率九四・七パーセントを示しています」
オルタが、ルビー色の瞳をアルへ向けた。
「……教国ルミナの、神聖魔導回路の波形です」
三、 刺客の陰と教国の思惑
「教国ルミナだと……!?」
カルムの全身から、怒りの気迫とともに、パッと小さな赤蓮の炎が弾けた。
「またあいつらかッ! ガレアの街でも、アガルタでも、どこへ行っても神様の奴らはろくでもねぇ真似ばかりしやがるッ!」
「……なるほどな」
ギルが、銛の柄をギリッと強く握り締めた。彼の目が、怒りと深い納得で細められる。
「海の生態系の頂点に立つ海竜が、急に街を襲い始めるなんておかしいと思ってたんだ。あいつらは、海竜を操ってこのアクアリアの街を壊滅させ……ついでに、教国へ向かおうとする船(交通路)を完全に封鎖するつもりだったんだな!」
「うむ。第一使徒ガラテアが敗れ、アガルタの封印が解かれたことで、教国は本気で世界の管理を強化しにかかっているのだ」
エレナは聖剣の柄を握り締め、悔しそうに歯を食いしばった。
「教国にとって、この自由都市アクアリアも、そこに住む人々も、単なる『世界の秩序を乱す不純物』に過ぎないということか。海竜の命すらも兵器として使い捨て……街ごと踏み潰す気なのだな!」
教国の冷酷な計算式。
神の「完全管理」という名の平和のために、何千、何万という人々の命や、自然の生態系すらも平気で犠牲にする理不尽。
「……許せないよ」
アルの低い、だが透き通った声が響いた。
アルは、エプロンを風になびかせ、腰の『黒鉄の包丁』にそっと手を置いた。
アルの漆黒の瞳の奥底で、太陽のような【真理の目】の黄金の輝きが、静かに、そして激しく燃え上がり始めていた。
「海竜は……悪くないんだ。誰かに冷たい道具として扱われて……体を傷つけられて、苦しくて泣いてるんだ」
アルは、遠くの黒い嵐を見つめた。
「スラム街の泥の中でも、アガルタの地下でも同じだった。冷たい神様は、みんなの『心』や『命』を道具にして閉じ込める。……そんなの、絶対に間違ってるよ!」
「アル……」
オルタが、アルの手を優しく包み込んだ。
「ギルさん、シーホーク号を出して!」
アルが振り返り、力強い目勢で船長を見つめた。
「僕たちが、海竜を苦しめてる教国の仕掛け(アク)を解体する。海の男たちの街も、あの海竜の命も、絶対に僕たちが守ってみせるッ!」
四、 出航の決意と「シーホーク号」の出航
「……ハッ! 言ってくれるじゃねぇか、料理人の坊主!」
ギルが、背中の巨大な銛をデンッと甲板に突き立て、腹の底から豪快に笑い飛ばした。
「船の修理は完了だ! 野郎どもッ! 錨を上げろッ! 帆を張れッ!!」
「「「「おっしゃぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」」」」
シーホーク号の甲板にいた数十人の荒くれ漁師たちが、一斉に威勢の良い歓声を上げた。
彼らの目には、昨日までの絶望や恐怖は微塵もなかった。アルの仕込んだブイヤベースの熱が、彼らの胸の中に「海と戦う男の誇り」を完全に蘇らせていたのだ。
ギギギギギギギ……ッ!
巨大な鉄の錨が水揚げされ、メインマストに張られた白亜の巨大な帆が、天竜山脈から吹き下ろす【再創生のマナの風】をいっぱいに受けて、力強く膨らんだ。
ザパーーーーーーッ!!
シーホーク号が、白波を蹴立てて海洋都市アクアリアの港を離れ、黒い嵐が逆巻く外洋へと向かって出航した。
「いってらっしゃい、料理人様ーッ!」
「街を守ってくれーッ!」
「海竜を助けてやってくれーッ!」
埠頭からは、大水上市場の人々や、街の子供たちが一斉に手を振り、割れんばかりの歓声を送っていた。
「みんな、待っててね!」
アルが、船尾のデッキから大きく手を振り返す。
シーホーク号は、水路を滑るように抜け、アクアリアを囲む巨大な防波堤の門をくぐり抜けた。
その瞬間。
ザサァァァァァァァッ……!!
船体に叩きつける波の衝撃が、これまでの比ではないほど激しく重いものへと変わった。
どこまでも青く澄み切っていた海の色が、一歩外洋へ踏み出すごとに、ドス黒い群青色へと変色していく。
五、 迫り来る黒き波涛と次なる予感
甲板の上に立つ、チーム『最高の厨房』の四人。
「……くっ、風が強くなってきたぞ!」
カルムが、激しい潮風に赤銅色の髪を激しくなびかせながら、船の手すりに捕まった。
周囲の海面は、まるで生き物のように不気味にうねり、巨大な三角波がシーホーク号の船体を容赦なく揺さぶる。
「カルム殿、しっかり掴まっておけよ」
エレナが甲冑の重みでしっかりと重心を保ちながら、聖剣の柄を握り締める。
「アル! 敵のマナ干渉が、本船の周囲にも及び始めました!」
オルタが、風の中で銀髪を振り乱しながら、アルの肩を引き寄せた。
『――――周囲の海水の可視光透過率、急激に低下。……海中に高濃度の『抑圧マナ』が充満しています――――』
アルの【真理の目】が、甲板の上から海面を見下ろした。
深い海の底。
そこには、黒いノイズとなった教国の拒絶マナが、まるで巨大な網のように広がり、海全体の命の流れ(カレント)を無理やり歪めていた。
そして、その網の中心で――何百メートルもの巨体を持つ海竜が、全身を黒い魔導鎖で縛り上げられ、狂乱のたびにもがき苦しんでいるのが、アルの黄金の視界にはっきりと映し出された。
(苦しい……苦しいよおぉぉぉっ……!!)
海竜の悲痛な魂の叫びが、マナの波形となってアルの『炉』へダイレクトに響いてくる。
「……待っててね」
アルは、手の中の黒鉄の包丁を固く握り締め、胸の『炉』を熱く燃え上がらせた。
「今、助けてあげるから……!」
黒い嵐が猛威を振るう外洋へ向かって、突き進む一隻の捕鯨船シーホーク号。
教国の冷酷な陰謀によって暴走させられた、海の守護者・海竜。
そして、大自然の莫大な「水の質量」を前に、自身の『炎』の無力感と向き合うことになる相棒カルム。
異変の兆しは、ついに真の暴風となって四人を飲み込もうとしていた。
命を解体し再創生する少年料理人アルの真価を懸けた、激動の【海洋都市アクアリア編】の真なる決戦の火蓋が、いま、荒れ狂う海の上で切って落とされようとしていた!




