第53話:海と戦う男たち
一、 夜明けの出航準備と誓い
東の地平線が、薄紫から鮮やかな黄金色へと染まり始める。
昨夜までの不吉な大雨はすっかり上がり、雨上がりの爽やかな潮風が、白亜の水上都市アクアリアを駆け抜けていた。
港の外縁部にある修理ドック。
そこには、徹夜作業によって見事に蘇った捕鯨船『シーホーク号』が、堂々と出航の時を待っていた。折れていたマストには太い補強材がガチガチに打ち付けられ、傷ついていた竜骨にはアルの包丁によって修復された白銀の鉄板がしっかりと張り合わされている。
「よしッ! 帆の展張、完了! 錨の巻揚げ準備、完了だッ!」
「エンジン(魔導機関)、圧力上昇! いつでも出せるぞ、船長ッ!」
甲板の上では、昨日までの絶望的な表情をすっかり脱ぎ捨てた漁師たちが、威勢の良い声を掛け合いながら忙しなく動き回っていた。彼らの胸の中には、アルの一杯の焼き結び茶漬けが灯した熱と、船長ギルへの絶対の信頼が再び燃え盛っていた。
「よし、野郎ども! 準備抜かりはないな!」
船尾の操舵輪の脇に立つギルが、背中にまっすぐ修復された『白銀の銛』を背負い、全乗組員を見渡して腹の底から叫んだ。
「昨日は無様な撤退を見せちまった! だが今日は違う! 俺たちの船には、あの海竜を苦しみから救い出す奇跡の少年料理人と、頼もしい仲間たちが乗ってるんだ!」
「「「「おっしゃぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」」」」
漁師たちが、拳を突き上げて咆哮する。
その甲板の最前列には、チーム『最高の厨房』の四人が並び立っていた。
アルは、新しいあて布で補強されたエプロンをキュッと結び直し、腰の『黒鉄の包丁』の柄を固く握り締めている。傷ついていた右腕の痛みは、一晩の休息とオルタの治癒マナによって、完璧に癒えていた。
「アル、体調はどうだ?」
隣に立つカルムが、低く力強い声で尋ねた。
「ばっちりだよ、カルム! 手の震えも完全に止まった!」
アルが最高の笑顔で答える。
カルムは、己の火傷まみれの両拳を強く握り合わせた。彼の目には、昨日までの「炎が効かない」という迷増や無力感の陰りは微塵もなかった。
「へっ……そう来なくっちゃな。今日の俺は、昨日までの俺じゃねぇ。海がどれだけ冷たくてデカかろうが……お前をあいつの額まで届ける火道は、俺の拳が絶対にこじ開けてやる!」
「うむ。私の盾も、二度は破られん。教国の使徒であれ、自然の猛威であれ、アル殿の手さばきを遮る者は私がすべて斬り伏せよう」
エレナが『星霜の聖剣』の柄に手を添え、不滅の決意を込めて頷いた。
「ワタクシのナビゲーションも、海流のデータ解析を完遂しています! 教国の追撃トラップ、ならびに海竜の攻撃軌道……一ミリの誤差もなく予測してみせますっ!」
オルタも、小さな手で胸を張り、ルビー色の瞳を力強く輝かせた。
四人の「不滅の家族の絆」は、昨夜の試練を経て、より深く、より強固に噛み合っていた。
二、 海洋民の結束と歓送の汽笛
「待ってくれッ!!」
シーホーク号がまさにタラップを外そうとしたその時、埠頭の方から無数の足音が響いてきた。
振り返ると、そこには昨日の夕方、冷たい言葉でアルたちを拒絶し、逃げるように去っていった大水上市場の漁師や商人、そして街の住人たちが大勢駆けつけてきていた。
「お前たち……何の用だ?」
ギルが、三白眼を細めて問いかける。
住人たちの先頭に立ったのは、昨日アルたちに一番厳しい言葉を投げつけた、あの年老いた漁師であった。
老漁師は、申し訳なさそうに頭を下げ、それから手にした大きな木箱をギルへ向かって掲げた。
「ギル……。そして、陸から来た少年料理人様……。昨日、わしらが吐いた心ない言葉……本当にすまなかった!」
老漁師の言葉に、集まった住人たちが一斉に深々と頭を下げた。
「わしらは……海竜様の暴虐が怖くて、自分たちの生活が壊されるのが恐ろしくて……土足でわしらの街を助けようとしてくれたあんたらを、汚い言葉で追い払おうとした。……本当に、情けないかぎりじゃ!」
「そうだ! 昨日の夜、ギル船長が一人で血を流しながら船を直してるのを見て……俺たちは自分たちの小ささを恥じたんだ!」
別の商人も、声を張り上げた。
「これを持って行ってくれ! 街の仲間で集めた、最高級の干し肉と、船の燃料のマナ鉱石だ! 俺たちには船に乗って戦う度胸はねぇ……だが、あんたらを信じてここで祈ることはできる!」
「無事で帰ってきてくれよッ! また、あの美味いブイヤベースを喰わせてくれッ!」
住人たちから沸き起こる、心からの温かな声援と歓声。
アルの仕込んだ一杯の夜食と、ギルが見せた折れない男の意地。
それが、恐怖によって冷たく閉ざされていた海洋民たちの心を完全に解きほぐし、街全体を「一つの不滅の熱量」として結束させていたのだ。
「みんな……っ!」
アルが、胸の『炉』を熱くしながら、埠頭の人々へ向かって大きく手を振った。
「ありがとうッ! 行ってくるよ! みんなの海を……絶対に元通りにしてみせるッ!!」
「野郎どもッ!! 汽笛を鳴らせぇぇぇぇッ!!」
ギルの咆哮とともに、シーホーク号の超音波汽笛が、朝の海洋都市アクアリアの空高くへと、轟々と鳴り響いた。
ボーーーーーーーーッ!!!!
白波を蹴立てて、埠頭を離れる捕鯨船シーホーク号。
街の人々の大歓声に見送られながら、船は一直線に、黒い嵐が待ち受ける恐怖の外洋へと向かって出航したのだった。
三、 荒れ狂う外洋と男たちの連帯
「面舵三〇! 朝陽を背にして波のうねりへ突っ込めぇぇぇッ!!」
アクアリアの防波堤を越えた瞬間、世界は一変した。
穏やかだった朝の海は姿を消し、外洋は昨日以上の狂乱を見せていた。
頭上を覆うのは、太陽の光すら跳ね返す漆黒の雷雲。海面は黒く濁り、家屋ほどもある巨大な三角波が、幾重にも重なってシーホーク号へ襲いかかってくる。
ザッッパァァァァァァァァァンッ!!!!
「ひるむなッ! 帆を絞れッ! 船体を波の斜面へ滑らせろッ!」
ギルが、操舵輪を全身の力でねじ伏せ、荒波を巧みに乗り越えていく。
その横には、カルムが仁王立ちしていた。
「ジジイ! 水しぶきで視野が奪われそうなら、俺の微火で弾いてやる! 操舵に集中しやがれッ!」
「ハッ、言われなくてもそうしてるぜ! 頼んだぞ、赤毛のッ!」
陸の喧嘩屋と、海の船長。
昨日まで反発し合っていた二人の漢が、いまや言葉を交わさずとも互いの意図を理解し合う、絶対の連帯感で結ばれていた。
「アル殿、オルタ! 前方三キロ、海面の盛り上がりが始まるぞ!」
エレナが、甲冑の裾を風になびかせ、聖剣を構えながら叫んだ。
『――――広域マナソナー、敵の浮上を検知!――――』
オルタのルビー色の瞳が、カッ! と極限まで見開かれる。
『――――深度一五〇メートルから、海竜が急速浮上中!……昨日よりも、教国の抑圧マナの出力が二〇パーセント上昇しています! 海竜の苦痛が限界値を超えていますッ!!――――』
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…………ッ!!!!
シーホーク号の目の前の海面が、まるで巨大な山が隆起するかのように激しく泡立ち、持ち上がった。
そして、海が真っ二つに裂けた。
四、 海竜の猛威と立ち向かう漢たち
ズバァァァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!!!!!
黒い海原を突き破り、深淵の底から巨大な悪夢が姿を現した。
【伝説の海竜】。
全長五十メートルを超えるその巨躯は、教国の漆黒の魔導鎖によって全身をより深く食い込まされ、血と黒いマナの混ざり合った赤黒い液を撒き散らしていた。その瞳は完全に自我を失い、苦痛と狂乱の真紅に染まりきっている。
「ギョオォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!!!」
海竜が、空を削るような凄まじい咆哮を放ち、その巨大な尾びれを海面へと叩きつけた。
ドガガガガガガガガガガガッ!!!!
一瞬にして発生する、高さ三十メートルを超える「超極大の津波の壁」。
それは、昨日の波など比べものにならない、シーホーク号を木端微塵に押し潰すための絶対の暴力であった。
「波が来るぞォォォォォォッ!!」
漁師たちが悲鳴を上げる。
「やらせるかよォォォォォォォォォッ!!!!」
カルムが、シーホーク号の舳先へ飛び出した!
彼の全身から、これまでにないほど激しい、太陽そのもののような【赤蓮の極光炎】が吹き上がる。
「俺の炎は……海を蒸発させるための火じゃねぇ! 仲間を通すための『道』を作る火だぁぁぁぁぁぁッ!!」
【我流神殺・太陽貫通砲】ッ!!!!
カルムの両拳から放たれたのは、拡散する炎の竜巻ではない。
高密度に圧縮され、槍のように研ぎ澄まされた、一筋の赤蓮の極光柱!
ドスゥゥゥゥゥゥゥンッ!!!!
カルムの炎の槍が、三十メートルの津波の壁の「一番薄い一点(結び目)」へと穿ち抜かれた!
極高熱の火炎が、波の特定部分を一瞬にして蒸発させ、巨大な水の壁の真ん中に、シーホーク号がすっぽり通れるだけの【穴(道)】を開けたのだ!
「なっ……波に穴を開けやがったぁぁぁっ!?」
漁師たちが目を見張る!
「通り抜けるぞッ!! 面舵固定ぇぇぇぇッ!!」
ギルが、舵輪を固定し、シーホーク号をその炎が開けた穴の中へと一直線に突入させた!
ザシューーーーーーーッ!!
水蒸気の白い嵐を突き抜け、シーホーク号は一粒の傷も負うことなく、三十メートルの津波を完全に突破したのだ!
「見たか海ッ! これが俺の炎だぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
カルムが、拳を突き上げて絶叫する。
海の質量に抗うのではなく、波の構造を見極めて「穴を開ける」。
アルの解体思想を炎に応用した、カルムの『新たな強さ』が爆発した瞬間であった!
五、 結ばれた絆、下ごしらえの舞台へ
津波を突破したシーホーク号。
その目の前には、激痛に身をよじりながら、第二のブレスをチャージしようとする海竜の巨大な頭部が迫っていた。
「ギルさんッ!! 今だッ!!」
アルが、黒鉄の包丁を構えて叫んだ。
「おうよッ!! 仕上げといこうじゃねぇかッ!!」
ギルが、背中から修復された『白銀の銛』を疾風のごとく抜き放った。
アルの包丁によって不純な金属疲労を『解体』され、元の美しさを取り戻した白銀の刀身が、朝陽と雷光を受けて神々しく輝く。
ギルは、全海洋民の誇りと、アルへの絶対の感謝を込めて、全身の筋肉を限界まで引き絞った。
「海を愛する男の意地……喰らいやがれぇぇぇぇぇぇッ!!」
【海王絶技・天貫く銀鯨牙・改】ッ!!!!
ギルが放った白銀の銛は、昨日を遥かに超える速度と貫通力で空を切り裂いた!
ドスゥゥゥゥゥゥゥゥゥンッ!!!!
銛は、海竜の眉間のすぐ下――教国の漆黒の魔導鎖が集結する【マスター・ノードの結び目】の真横へと、寸分の狂いもなく深々と突き刺さった!
「ギョオォォォォォォォォォォォッ!?」
海竜が、苦痛に巨体を激しく震わせる。
ピンッと張り詰める、銛に繋がれた太い鋼鉄のワイヤー。
「道は……完全に繋がったぞッ! 行けぇぇぇぇ、アル殿ッ!!」
エレナが、障壁で周囲の水しぶきを完璧に弾き飛ばしながら叫ぶ。
「ワタクシのナビゲート、同期完了! アル、敵の核まで……あと三秒ですッ!」
オルタのルビー色の瞳が、黄金の導きの光を放つ。
「みんな……ありがとうッ!!」
アルが、黒鉄の包丁を両手で固く握り締め、鋼鉄のワイヤーへ向かって爆発的な跳躍を見せた。
カルムの炎が開けた道。
ギルが打ち込んだ一本の銛。
エレナの不滅の盾。
オルタの導く目。
仲間たちの、そして海洋民たちのすべての魂と熱が、少年料理人アルを、海竜の額という「究極の調理場」へと送り届ける。
胸の『炉』が、創世の太陽のごとく燃え上がる。
アルは、手の中の包丁を黄金の極光へと変え、海竜を縛り上げる冷たい神の鎖を解体するための、真なる一閃を放とうとしていた!




