第45話:海洋都市アクアリア
一、 白亜の珊瑚礁と海上の大都市
天竜山脈の麓を抜け、海風が運んでくる強烈な潮の香りに導かれるようにして、チーム『最高の厨房』の四人は、ついにその巨大な門の前へと到達した。
【海洋都市アクアリア】。
それは、アルたちがこれまで見てきたスラムの泥臭い街並みや、アガルタの無機質な地下空間とは、根本から異なる色彩と活気に満ちた別世界であった。
「うわぁぁぁ……! すごい! 街が本当に海の上に浮かんでる!」
アルが、巨大なアーチ状の石橋の上から身を乗り出し、目を輝かせて叫んだ。
彼らの眼下に広がるのは、浅瀬の広大なサンゴ礁を土台にして築き上げられた、息を呑むほど美しい水上都市だった。建物の多くは、海から切り出された白亜の石灰岩や巨大な珊瑚で造られており、屋根には太陽の光を反射して輝く瑠璃色の瓦が葺かれている。
都市の中に「道路」と呼べるものは少なく、代わりに無数の水路が葉脈のように張り巡らされていた。人々は小さなゴンドラや小舟を巧みに操り、水路を行き交いながら生活を営んでいる。
「カァーッ、カァーッ!」
頭上では、真っ白な翼を持った海鳥たちが気持ちよさそうに空を舞い、帆船の帆柱から帆柱へと飛び移っている。
「へっ、こりゃあたまげたな。地面が揺れてやがるぜ」
カルムが、石橋を渡りきって都市の浮き桟橋に足を踏み入れた瞬間、微かな波の揺れを感じてニヤリと笑った。
「うむ。海と共に生き、海に抱かれた都市。……教国の厳しい教律が届きにくい辺境の自由都市とは聞いていたが、これほどまでに生命力に溢れた場所だったとはな」
エレナも、白磁の甲冑を鳴らしながら、周囲の活気に目を細めた。教国ルミナの整然とした、しかし冷たい街並みとは対極にある、混沌としながらも温かな熱気がここにはあった。
『――――環境データを更新。……都市の総人口、およそ一五万人。水上建築物の耐久年数、平均一二〇年。……非常に合理的な海洋適応型建築です――――』
オルタが、ルビー色の瞳を瞬かせながら街の構造をスキャンする。
しかし、彼女の視線はすぐに、水路沿いの露店に並べられた色鮮やかなフルーツや、見たこともない装飾品へと釘付けになった。
「アル! あそこを見てください! 青くて丸い、不思議な形の果実があります! 表面温度が周囲より低く、内部に大量の水分を含んでいると推測されます!」
オルタが、アルの袖を引っ張って無邪気に指を差した。
「あはは、本当だ! あっちには大きな貝殻で作った風鈴も売ってるよ! 行ってみよう、オルタ!」
「はいっ!」
二人は手を繋ぎ、初めて見る海洋都市の景色に大はしゃぎしながら、大通りの水上市場へと駆け出していった。
カルムとエレナは、そんな二人の後ろ姿を保護者のように微笑ましく見守りながら、のんびりと後を追った。
二、 水上市場の熱気と微かな「ノイズ」
海洋都市アクアリアの心臓部とも言える【大水上市場】。
そこは、アルという少年料理人にとって、まさに夢のような「食材の宝庫」であった。
水路沿いにずらりと並んだ木の板の上には、近海で獲れたばかりの巨大な魚、赤や青の鮮やかな甲殻類、そして人の顔ほどの大きさがある牡蠣やホタテが山積みになっている。
「いらっしゃい! 獲れたての『銀鱗マグロ』だよ! 脂が乗ってて最高だぜ!」
「こっちは『大王イカ』の串焼きだ! 一本どうだい、そこのお嬢ちゃん!」
威勢のいい漁師や商人たちの声が飛び交う中、アルは目を皿のようにして食材を見て回っていた。
「すごい……! このお魚、丸々太ってて目が澄んでる! こっちのタコは、スラムの沼にいた泥タコとは全然違って、吸盤がすごく力強いよ!」
アルは、生魚の匂いに顔を輝かせながら、次々と食材を吟味していく。
「おじさん、この串焼きを四本ちょうだい!」
アルは、屋台で売られていた海鮮の串焼きを買い求め、カルム、エレナ、オルタに手渡した。
それは、大ぶりの貝柱とエビを、甘辛い醤油のようなタレで豪快に焼き上げたものだった。
「おおっ! 気が利くじゃねぇかコック長!」
カルムが串焼きに噛みつき、「ウメェェェッ!」と雄叫びを上げる。
エレナも「野趣あふれる味だが、海の旨味が凝縮されていて美味だな」と上品に口元を拭った。
オルタも串焼きを両手で持ち、小さくかじってからパァッと顔を輝かせた。
「アル! とっても美味しいです! ……海洋生物のアミノ酸濃度が、ワタクシの味覚回路に強烈な幸福感を引き起こしていますっ!」
「あはは、よかった!」
アルも自分の串焼きを食べながら、最高の笑顔を見せた。
しかし――。
アルの漆黒の瞳に【真理の目】の黄金の光が微かに宿った瞬間、彼の表情がふと曇った。
(……ん?)
アルは、手元の串焼きの身の奥底に、そして、市場に並べられている他の生魚たちの体内に、ごく僅かながら共通する「不自然な結び目」が混じっていることに気がついたのだ。
毒ではない。腐っているわけでもない。
だが、その魚たちの命の因果の筋に、ドス黒い「恐怖」と「ストレス」のノイズがこびりついている。
(このお魚たち……すごく怯えた状態で獲られたんだ。海の中で、何かに怯えながら……無理やり水揚げされたみたいな……)
アルがその違和感に首を傾げた時、市場の奥の方から、怒鳴り声のような騒ぎが聞こえてきた。
三、 荒くれ者たちと港の事情
「ふざけんなッ! こんなハシシタ(小魚)ばかりで、どうやって商売しろってんだ!」
「仕方ねぇだろ! 沖合の漁場は全部『海神の怒り(大嵐)』に飲み込まれちまって、近海でしか網を下ろせねぇんだよッ!」
アルたちが声のする方へ向かうと、屈強な海の男たちが、水揚げされたばかりの貧弱な魚を前にして、激しい口論を繰り広げていた。
「これじゃあ明日には市場から魚が消えちまうぞ! 船主のギルは何やってんだ! あいつのモリなら、あの嵐の元凶を仕留められるんじゃねぇのか!」
「馬鹿言え! 相手は伝説の海竜だぞ! ギルだって、先週の出航で船を半分に割られて、命からがら逃げ帰ってきたばかりじゃねぇか!」
男たちの会話に、アルとカルムは顔を見合わせた。
「おいおい……海竜だってよ」
カルムが腕を組み、ニヤリと口角を上げる。
「岬から見たあの黒い嵐の中にいるバケモンのことだな。やっぱり、この街の連中も手を焼いてるみたいだぜ」
「うむ。どうやら、事態は我々が思っている以上に深刻らしい」
エレナが周囲の露店を鋭く観察しながら言った。
「よく見れば、市場の熱気に隠れてはいるが、店に並んでいる魚の数は明らかに少なく、値段も異常に高騰している。……このまま嵐が続けば、この海洋都市は干上がってしまうぞ」
「そんな……」
アルは、魚たちの因果の筋に見えた「恐怖」の正体を理解した。
海竜が暴れ、海全体がパニックに陥っているのだ。
「カルム殿、アル殿。まずは情報を集めよう。我々の目的は、この海を越えて教国ルミナの本土へ向かうための『船』と『航海士』を見つけることだ。……あそこにいる荒くれ者たちに、話を聞いてみるか」
エレナの提案に、カルムが「任せとけ!」と自信満々に前に出た。
「おい、そこのオッサンたち!」
カルムが、口論していた漁師たちの間へ、堂々とした態度で割り込んだ。
「なんだテメェは! ヨソ者が首突っ込んでんじゃ……」
「俺たちは、教国の大陸まで行きてぇんだ。この街で一番デカくて、一番腕の立つ船乗りを紹介してくれねぇか?」
漁師たちは、カルムの赤い髪と、無骨な傷だらけの拳を見て一瞬ひるんだが、すぐに鼻で笑い飛ばした。
「ハッ! 教国の大陸までだと? 寝言は寝て言え、赤毛の坊主!」
「今、港から外洋に出られる船なんて一隻もねぇよ! あの沖合の『海神の怒り』を越えようとした船は、教国の軍艦だろうが商船だろうが、全部海の底に引きずり込まれちまってるんだ!」
「船が出せねぇ? なら、その海竜とやらをぶっ飛ばせばいいだけの話だろ」
カルムが、右拳にポンッと小さな赤蓮の炎を灯してみせた。
「俺の炎で、その海竜を丸焼きにしてやるよ。だから、船を出せる奴を呼んでこい」
漁師たちの顔色が変わった。
「テメェ……海を舐めてんのか?」
一人の筋骨隆々な漁師が、カルムの胸倉を掴み上げた。
「俺たちの仲間が、あの海竜の波に何人飲み込まれたと思ってんだ! ポッと出の魔法使いのガキが、炎一つで海に勝てると思うなよッ!」
「あぁん? やんのか、オッサン?」
カルムの瞳に、喧嘩屋としての好戦的な光が宿る。
「カルム! ダメだよ、ケンカしちゃ!」
アルが慌てて止めに入ろうとした、その時だった。
「やめとけ、ゴードン。その赤毛の兄ちゃんの言う通りだ」
四、 海と戦う男『ギル』の登場
低く、よく通る声が市場に響いた。
群衆がパカッと割れ、その奥から一人の男が歩み出てきた。
年齢はカルムより少し上、二十代半ばほど。潮風で焼けた浅黒い肌に、荒波のように乱れた群青色の髪。鍛え上げられた上半身には、鮫の皮で作られた軽鎧を纏い、背中には彼自身の身の丈よりも長い、白銀の巨大な『銛』を背負っていた。
「ギ、ギル……!」
胸倉を掴んでいた漁師が、ハッとして手を離した。
歩み出てきた男――ギルは、鋭い三白眼でカルムを一瞥すると、ふっと自嘲気味に笑った。
「海竜をぶっ飛ばせば船が出せる。……まったくだ。それができりゃあ、俺たちだってこんな所で小魚の奪い合いなんてしてねぇよ」
ギルは、背中の巨大な銛をドスンと足元に突き立てた。
「俺は、アクアリア一の捕鯨船『シーホーク号』の船長、ギルだ。……あんたら、教国へ渡りたいって言ったな?」
「ああ、そうだ。お前が一番腕の立つ船乗りなのか?」
カルムが、警戒を解かずに睨み返す。
「自分で言うのもなんだが、この海で俺より速く船を走らせる奴はいねぇ」
ギルは、真っ直ぐにカルムたちの目を見た。
「だが、さっきも言った通り、今は船は出せねぇ。あの海竜がいる限り、どんな船も港から一〇キロと出られずに波の藻屑だ。……俺の船も、先週あいつの尾びれの一撃で、マストをへし折られたばかりでな」
ギルの言葉の端々には、深い悔しさと、海に対する圧倒的な無力感が滲んでいた。
「海竜って……そんなに強いの?」
アルが、ギルの前にちょこんと歩み出て、真っ直ぐに見上げて尋ねた。
ギルは、エプロン姿の小柄な少年を見て、少し驚いたように目をパチクリとさせた。
「……坊主。海竜ってのはな、ただのデカい魔獣じゃねぇんだよ。海そのものが怒り狂って形になったようなバケモンだ。あいつが一度咆えりゃあ、嵐が起きる。あいつが尾を振れば、津波が街を襲う」
ギルは、自身の大きな手で、アルの頭をポンと撫でた。
「陸地の魔獣なら、火で焼くこともできるだろう。だが、海の上じゃあ、炎の魔法なんて波一発で消し飛んじまう。……俺の銛でさえ、あいつの硬い鱗を一枚剥がすのがやっとだった」
その言葉に、カルムがピクッと眉をひそめた。
炎の魔法が、波一発で消し飛ぶ。
それは、カルムの「火力」が、海という大自然の前では全く通用しないという、残酷な宣告でもあった。
「……それでも」
アルは、ギルの目から逃げずに、力強い声で言った。
「あの海竜は……怒ってるんじゃない。すごく、苦しんでるんだよ」
「……何?」
ギルが眉をひそめる。
「僕、岬から見たんだ。あの海竜の体に、黒くて痛いものが巻き付いてるのを。……だから、あの子は暴れてるんだよ」
アルは、胸の『炉』の温もりを両手に込めながら、ギルに向かってはっきりと宣言した。
「ギルさん。僕たちが、あの海竜を助けるよ。……苦しみの原因を解体して、海を静かにしてみせる。だから、それができたら……僕たちを、教国まで乗せていってくれる?」
五、 暴走する海と、カルムの火種
市場が、水を打ったように静まり返った。
エプロン姿の少年が、海の男たちですら手も足も出ない伝説の海竜を「助ける」「解体する」と言い放ったのだ。
数秒の沈黙の後。
「……ぶはっ、わはははははっ!!」
ギルが、腹を抱えて豪快に笑い出した。
それに釣られるように、周囲の漁師たちもドッと笑い声を上げた。
「おいおい坊主! 料理人が海竜を解体するってか!? そりゃあ最高の冗談だ! 海竜の肉で刺身でも作ってくれるのかよ!」
「最高にイカれたガキだぜ! 陸の魔法使いのお兄ちゃんより、よっぽど度胸がある!」
周囲が嘲笑に包まれる中、カルムの顔が怒りで真っ赤に染まり、拳から「ボワッ!」と炎が吹き上がった。
「テメェら……! アルを笑うんじゃねぇッ!!」
「やめて、カルム!」
アルがカルムの腕にしがみつく。
ギルは、笑い涙を指で拭いながら、アルの真っ直ぐな、一切の嘘のない漆黒の瞳を見つめ直した。
そして、ギルの表情から笑いが消え、真剣な海の男の顔に戻った。
「……坊主。お前、本気で言ってるのか?」
「うん。僕は料理人だからね。命を無駄に傷つけたりはしない。……一番美味しくて、一番幸せな形に下ごしらえするのが、僕の仕事だから」
アルの言葉に、ギルはしばらく押し黙り、やがてフッと息を吐いた。
「いいだろう。……もし、本当にお前たちがその『料理』とやらで海竜の嵐を鎮めることができたなら、俺が責任を持って、お前らを教国の本土まで送り届けてやる」
ギルが、アルに向かって右手を差し出した。
「約束だ、ギルさん!」
アルが、その大きな手と、力強く握手を交わした。
その時であった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ……!!!!
海洋都市アクアリアの足元が、激しい地震のように大きく揺れ動いた。
「な、なんだ!?」
「海面が……引いていくぞ!?」
市場の人々が、悲鳴を上げて水路の方へ駆け寄る。
アクアリアの街を囲む海の潮が、不自然なほどのスピードで沖合へと引き始め、海底のサンゴ礁が剥き出しになっていく。
「こ、これは……ッ!」
ギルの顔色が一瞬にして蒼白になった。
「津波の引き波だ……! 馬鹿な、今日は嵐の周期じゃねぇはずだぞッ!」
ブワァァァァァァァァッ!!
突如として、アクアリアの空を覆っていた青空が、インクをこぼしたように真っ黒な雷雲によって塗り潰された。
真昼であるにもかかわらず、街は夜のような暗闇に包まれ、強烈な暴風が市場のテントを吹き飛ばしていく。
『――――警告! 警告!!――――』
オルタが、ルビー色の瞳を激しく明滅させながら、悲痛な声で叫んだ。
『――――沖合から、超巨大なマナの津波が接近中! ……海竜が……海竜が、アクアリアの街へ向かって突進してきますッ!!!!――――』
「なんだって……!?」
エレナが聖剣を抜き放ち、海の方角を睨みつけた。
暗闇の海の彼方。
そこから、山脈のように巨大な「水の壁」が、規格外のスピードでアクアリアの街を飲み込まんと迫り来ていた。
そして、その波の頂点には、雷光に照らされて浮かび上がる、凶悪なまでの巨大な水竜のシルエットが。
「クソッ……! 街が潰されるぞッ!!」
ギルが、巨大な銛を構えながら絶叫した。
「やらせるかよッ!!」
カルムが、誰よりも早く防波堤の上へと躍り出た。
彼の全身から、これまでにないほど激しい、太陽のような赤蓮の極光炎が爆発的に吹き上がる。
「どんなデカい水だろうが……俺の全開の炎で、一滴残らず蒸発させてやるッ!!」
カルムの咆哮。
しかし、大自然の化身である海竜の持つ「絶対的な水の質量」を前にして、カルムの炎がどれほどの無力感に直面するかを、彼はまだ知る由もなかった。
海洋都市アクアリアを襲う、突然の海竜の暴走。
少年料理人アルと仲間たちの、大いなる海での新たな死闘が、荒れ狂う波涛とともに、いよいよ幕を開けたのであった。




