第4話:スラムの喧嘩屋カルム
一、 迫り来る暴力と黒鉄の朝
黒鉄の街に「朝」という概念はない。
分厚い煤煙の雲が太陽の光を完全に遮断しているため、昼夜の区別は、上層にある巨大工場の稼働音の大きさか、街灯代わりの魔力灯が点滅するかどうかでしか判断できない。
第十三スラム街の朝は、いつだって湿った鉄錆の匂いと、冷たい結露の滴から始まる。
「アル兄ちゃん……」
バラック小屋の中、ボロ布の毛布に包まっていたトニが目を擦りながら起き上がった。
マリアはまだ、昨夜のスープで満たされたお腹を抱え、穏やかな寝息を立てている。
「おはよう、トニ。もう少し寝てていいよ。今、お湯を沸かしてるから」
アルは、手製の竈の前にしゃがみ込み、細い薪に火をくべていた。
鍋の中には、昨夜の【極上の生命マナの肉】から取ったスープの残りが温められている。一晩寝かせたことで、肉の旨味と根菜の甘みがさらに溶け出し、バラックの中には食欲をそそる芳醇な香りが充満していた。
「うん……。アル兄ちゃん、昨日は本当にごめんね。僕が弱かったから……」
トニが、俯き加減でボソリと呟く。
「そんなことないよ」
アルは、木のお玉でスープをかき混ぜながら、優しく微笑んだ。
「トニがマリアを守ってくれたから、僕は間に合ったんだ。トニはすごく強かったよ」
その言葉に、トニが嬉しそうに顔を上げた。
アルも、心がポカポカと温かくなるのを感じていた。
手元には、腰に差した『黒鉄の包丁』。
この包丁があれば、もう誰も傷つけさせない。この小さな食卓を守り抜いてみせる。
そう決意を新たにした、次の瞬間であった。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……!
バラック小屋の外、泥水の路地裏から、無数の足音が近づいてくるのが聞こえた。
一つや二つではない。数十人規模の、重いブーツの足音。
それが、アルたちのバラック小屋を取り囲むようにピタリと止まった。
「……トニ。マリアを起こして、部屋の奥に隠れてて」
アルの声が、すっと低く、真剣なものに変わる。
「ア、アル兄ちゃん……?」
「大丈夫。すぐ終わらせるから」
アルは、エプロンの紐を強く結び直し、立ち上がった。
バキィィィィンッ!!
アルが外へ出ようとした矢先、バラックの入り口を塞いでいたトタンの壁が、外側から巨大な質量によってひしゃげ、木っ端微塵に吹き飛ばされた。
「出てこいッ! 空箱のガキィィィィッ!!」
土煙の中から姿を現したのは、スラム自警団のリーダー・ボリスだった。
彼の背後には、鉄パイプや魔力ナイフで武装した三十人以上のチンピラたちが、完全に逃げ道を塞ぐように陣取っていた。
だが、アルの目を最も引いたのは、ボリスの手にある武器だった。
身の丈ほどもある、異様に巨大な鉄の塊。
柄の先には、歯車と排気管が剥き出しになった円筒形の重りが付いている。
上層の工場で使われる解体用の重機を無理やり改造した、【魔力稼働式・大型鉄骨ハンマー】だ。
ボリスの腕から流れ込む赤い魔力がハンマーの機関部を回転させ、排気管から黒い煙と火の粉を激しく噴き出している。
「てめぇ……よくも昨夜は俺の可愛い部下をコケにしてくれたな。そのふざけた包丁ごと、このハンマーでペチャンコの肉団子にしてやるよ」
ボリスの顔は、怒りと屈辱で真っ赤に染まり、額には青筋が不気味に浮かび上がっていた。
スラムを恐怖で支配してきた彼にとって、魔力ゼロの空箱に部下が負けたなどという事実は、決して許されない汚点なのだ。
「……土足で上がり込まないでくれって、言ったはずだけど」
アルは、瓦礫を踏み越えて外へ出た。
右手は、すでに腰の『黒鉄の包丁』の柄を握っている。
「生意気な口を利きやがって……! 殺せッ! バラックの中にいる他のガキどもも、一人残らず引きずり出せッ!」
ボリスが怒号を上げると同時に、三十人のチンピラたちが一斉にアルへ向かって襲いかかってきた。
アルの瞳に、『真理の目』の黄金の輝きが宿る。
飛びかかってくる男たちの筋肉の動き、武器の軌道が、すべて黄金の光の筋となって視覚化される。
避けるべき空間の隙間は、ハッキリと見えている。
だが――。
(数が多い……ッ! 僕が避けたら、後ろのバラックが……トニたちが狙われるッ!)
アルが自分の身をかわすことはできても、背後のバラックを完全に守り切ることは不可能だった。
アルは歯を食いしばり、逃げることを放棄して、真っ向から包丁を構え直した。
「死ねやぁぁぁぁぁッ!!」
先頭の男が、魔力を纏った鉄パイプをアルの頭上から振り下ろす。
アルが迎撃のために踏み込もうとした――その刹那であった。
「――朝っぱらから、うるせぇんだよ。便所の蠅どもが」
ドガァァァァァァァァンッ!!!!
上空――隣のバラックの屋根の上から、深紅の流星のような影が降ってきた。
影は、アルに襲いかかろうとしていた先頭の男の顔面に、全体重を乗せた強烈な飛び踵落としを炸裂させたのだ!
「ぐべぇッ!?」
男の顔面が陥没するような鈍い音が響き、その体は弾丸のように弾き飛ばされ、背後にいた数人のチンピラたちを巻き込んで路地裏の泥水の中へ突っ込んだ。
「な、なんだッ!?」
ボリスが目を見開く。
土煙が晴れたあとに立っていたのは、一人の青年だった。
ボロボロに擦り切れた分厚いロングコート。
逆立った赤銅色の髪。
そして、ニッと笑い上げた口元から覗く、凶悪に尖った一本の八重歯。
「あぁ? なんだてめぇら。この第十三スラム街の端っこは、俺の縄張りだって知らねぇのか?」
青年は、肩をポキポキと鳴らしながら、三十人の武装した男たちを前にして、一切怯むことなく、むしろ楽しそうに獰猛な笑みを浮かべていた。
「てめぇ……見ねぇ顔だな。何者だ」
ボリスが、大型鉄骨ハンマーを構えて凄む。
「俺か? 俺はカルムだ。誰とも群れねぇ、ただの喧嘩屋だよ」
青年――カルムは、ポケットに両手を突っ込んだまま、首を傾げた。
「自警団だかゴミ掃除屋だか知らねぇが、三十人がかりでこんなチビっ子一人をいじめて楽しいか? 弱い者いじめは趣味じゃねぇんだよ、俺は」
「チビっ子って……」
アルは、呆気に取られてカルムの背中を見つめた。
自分を助けてくれたのだろうか。だが、彼の背中から発せられる闘気は、あまりにも荒々しく、そしてどこか「寂しげ」でもあった。
「スラムの野良犬が……俺たちに喧嘩を売る気か?」
ボリスが殺気を放つ。
「喧嘩? 違うね」
カルムは、ポケットから両手をゆっくりと引き抜いた。
その両拳が、メラメラと赤黒い「魔力の炎」に包まれ始める。
「俺の朝飯の邪魔をしたお前らを、ただブッ飛ばすだけだ」
二、 スラムの喧嘩屋カルム
「殺せェェェェッ!! そいつから肉の塊に変えてやれェッ!!」
ボリスの号令とともに、残っていた二十数名のチンピラたちが、一斉にカルムへと殺到した。
鉄パイプ、ナイフ、鈍器が、四方八方からカルムの急所を狙う。
だが、カルムは笑っていた。
「おせぇよ」
ダァァァンッ!!
泥水を蹴り上げる爆発的な踏み込み。
カルムのファイトスタイルは、洗練された武術でも、強力な魔法でもなかった。
それは、路地裏で生き抜くために身につけた、徹底的な『我流の喧嘩殺法』。
「オラァッ!!」
右の拳が、一人の男の腹をえぐるように突き刺さる。
「がはッ!?」
男がくの字に折れ曲がって吹き飛ぶと同時、カルムはその勢いのまま体を回転させ、背後から迫っていた男の顎に強烈な回し蹴りを叩き込んだ。
バキィッ!
「ひぐッ!」
カルムの拳と脚には、荒削りだが高密度の『赤い魔力』が纏われていた。
魔力量自体は、上層の騎士や使徒に比べれば大したことはない。だが、その限られた魔力を「打撃の瞬間にだけ爆発させる」という、極めて動物的で直感的な魔力操作を、彼は本能でやってのけていた。
「どうした!? その程度かよ自警団ッ!」
カルムが吠える。
男たちが次々と殴り飛ばされ、泥の中に沈んでいく。
アルは、その後ろ姿を『真理の目』で見つめていた。
(すごい……。動きに無駄がない。でも……)
アルの黄金の視界には、カルムの体内に流れる「魔力の筋」が見えていた。
カルムの魔力は、情熱的で熱い。しかし、彼が拳を振るうたびに、その魔力の筋は不自然に歪み、体内で無駄な反発を起こしているのが分かった。
まるで、自分を傷つけながら無理やり力を引き出しているかのように。
(彼は……独りで戦うことに慣れすぎている。誰も信じていないから、自分の力だけで全部解決しようとして……体が悲鳴を上げてるんだ)
「チィィィィィッ!! 雑魚どもが、だらしねぇぞッ!」
部下たちが次々と倒されていくのを見て、ついにボリスが痺れを切らした。
「野良犬ごときが、調子に乗るなよぉぉぉぉッ!」
ボリスが、巨大な【大型鉄骨ハンマー】を両手で高々と振りかざした。
彼が腕から流し込む魔力が限界まで高まり、ハンマーの排気管から噴き出す炎が真っ赤に膨れ上がる。
それは、スラムのバラック群を丸ごと消し飛ばすほどの、圧倒的な魔力質量攻撃。
「オラァァァァァァァッ!!」
ハンマーが、カルムの頭上へ向かって、隕石のように振り下ろされた!
「上等だッ!」
カルムは避けることなく、両拳の赤い魔力を全開にして頭上で交差させ、その巨大なハンマーを正面から受け止めようとした!
ガガガガガガガガガッ!!!!
凄まじい衝撃波が路地裏を吹き抜け、周囲のトタン屋根が紙クズのように吹き飛ぶ。
「ぐ……ぬううううっ……!」
カルムの顔が苦痛に歪む。
ボリスのハンマーの圧倒的な重さと魔力推力が、カルムの防御をジリジリと押し潰していく。
カルムの足元が、泥地を砕きながら深くめり込んでいった。
「ギャハハハハハ! どうだ! このハンマーの最高出力は、上層の装甲車だってスクラップにするんだぜぇッ!」
ボリスが狂気じみた笑い声を上げ、さらに魔力を注ぎ込む。
「くそっ……! 重てぇ……ッ!」
カルムの膝が震え、折れそうになる。
このままでは、カルムはハンマーの下敷きになって完全にペチャンコにされてしまう。
その時だった。
「――そこだッ!!」
カルムの背後から、一陣の風が吹き抜けた。
「え?」
カルムが目を見開く。
背中に庇っていたはずの華奢な少年――アルが、カルムの横をすり抜け、ボリスの巨大ハンマーへ向かって飛び出してきたのだ。
「バカッ! 出てくんなチビッ!」
カルムが叫ぶ。
だが、アルの瞳には、一切の恐怖はなかった。
アルの『真理の目』には、ボリスの振り下ろしているハンマーの構造が、完璧に透けて見えていた。
(このハンマーは、柄の内部を通る太い『赤い魔力管』で先端の重りを回転させている!)
(魔力管が一番集まっている、柄の付け根のバルブの下。……あそこが、この武器の『結び目(解体線)』だッ!)
「ハァァァァァァァッ!!」
アルが、黒鉄の包丁を右下から左上へ向かって、滑らかに斬り上げた。
「ギャハハハ! そんな包丁で、俺のハンマーが傷つけられると――」
ボリスが嘲笑いかけた、その刹那。
シュッ――――。
アルの包丁の刃先が、ハンマーの分厚い鉄の装甲をすり抜け、内部の「赤い魔力管の結び目」だけを、ミクロの精度で寸分違わず一刀両断した。
サクッ。
「……あ?」
ボリスのハンマーから、突然プシュウウウウウ……! と間の抜けた排気音が鳴り響いた。
激しく回転していた先端の歯車がピタリと止まり、排気管から噴き出していた炎が「すんっ」と消え失せたのだ。
魔力推力を完全に失ったハンマーは、ただの「クソ重たい鉄の塊」へと成り下がった。
「な、なんだぁッ!? なんで止まりやがるッ!」
ボリスがパニックに陥り、ハンマーを振り回そうとする。だが、ただの鉄塊となったハンマーは、彼の腕力だけで支えきれるものではなかった。
「おわっ!?」
ボリスは、ハンマーの重さに振り回され、大きく前のめりに体勢を崩した。
「――よくやったぜ、チビッ!!」
その完璧な隙を、カルムが見逃すはずがなかった。
カルムが、めり込んでいた泥地を爆発的に蹴り上げた。
右の拳に、残るすべての赤い魔力を凝縮させる。
「俺の朝飯の邪魔をした罪は……重てぇぞッ!!」
ドガァァァァァァァァァァァァンッ!!!!!!!!!!!
カルムの渾身の右アッパーが、前のめりになったボリスの顎を、下から完璧に打ち抜いた。
「がぼッ……!?」
ボリスの巨体が、白目を剥いて空高くカチ上げられ、そのまま五メートルほど後方のゴミの山へと頭から激突し、ズドーンと音を立てて沈黙した。
「あ……アニキが……やられたぁぁぁッ!?」
「逃げろォォォォォッ!!」
リーダーを瞬殺されたチンピラたちは、蜘蛛の子を散らすように悲鳴を上げながら、路地裏から逃げ出していった。
あっという間に、バラックの前には静寂が戻ってきた。
倒れたボリスと、散乱したゴミの残骸だけが残されている。
「ふぅ……。ざっとこんなもんだ」
カルムは、拳の魔力炎をスッと消し、肩を回しながら息を吐いた。
そして、振り返ってアルを見た。
「おい、チビ」
カルムが、鋭い目でアルに詰め寄る。
アルは、少しビクッとしながら包丁を腰に収めた。
「お前……ただの空箱じゃねぇな? 今の、なんだその包丁。あんな分厚い鉄の塊、どうやって斬ったんだよ」
「斬ったんじゃないよ」
アルは、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「ただ、ハンマーの中の『筋』を切り離しただけだよ。僕は料理人だから、食材の筋を切るのは得意なんだ」
「料理人……? スラムのゴミ溜めでか?」
カルムが、呆れたようにため息をついた。
グゥゥゥゥゥゥゥウウウウウウ……。
その時、カルムのお腹から、雷鳴のような盛大な音が鳴り響いた。
「あ」
カルムの顔が、一瞬にして真っ赤になる。
「朝飯の邪魔されたって、本当だったんだね」
アルが、クスッと笑った。
「う、うるせぇ! 戦ったら腹が減るのは当然だろがッ!」
カルムがそっぽを向いて誤魔化そうとする。
「あのさ」
アルは、壊れかけたバラック小屋の中を指差した。
中からは、トニとマリアが恐る恐る顔を出している。
「僕たちを助けてくれたお礼に……よかったら、スープ、食べていかない? 今朝、ちょうど温め直したところなんだ」
「……は?」
カルムが、怪訝な顔をした。
「スラムの飯なんて、泥水と腐ったパンの耳だろ。んなもん食ったら、余計に腹壊すわ」
「泥水じゃないよ」
アルは、自信満々に胸を張った。
「僕が作った、世界で一番美味しいスープだよ」
カルムは、アルの真っ直ぐな黄金の瞳を見て、ふと毒気を抜かれたように息を吐いた。
「……チッ。まあ、タダなら食ってやるよ。不味かったら、てめぇもボリスと同じ目に遭わせるからな」
三、 泥水とパンの味、そして体温
バラックの中。
トニとマリアが、カルムの赤い髪と八重歯を見て少しビクビクしていたが、カルムが「おう」と無愛想に手を挙げると、すぐに慣れてアルの背中に隠れながら興味津々で見つめていた。
アルは、手製の竈に再び火を入れ、鉄鍋のスープを温め直した。
フワァ……と、肉と根菜の甘い香りがバラックの中に広がる。
カルムの鼻が、ピクッと動いた。
(なんだこの匂い……? スラムの飯から、こんな匂いがするはずねぇだろ……)
「はい、お待たせ。熱いから気をつけてね」
アルが、木のお椀にたっぷりとスープと肉を盛り付け、カルムに手渡した。
カルムは、胡散臭そうにお椀を受け取った。
黄金色に透き通ったスープ。その中には、ホロホロに煮込まれたピンク色の肉と、柔らかそうな大根が浮かんでいる。
カルムの人生において、「食事」とは苦痛でしかなかった。
親の顔も知らずにスラムで育った彼にとって、飯とはゴミ捨て場から拾った腐りかけの残飯か、泥水でふやかした硬いパンの耳。生きるために、無理やり胃袋に詰め込むだけの作業。
「美味しい」という感情など、彼の中には存在しなかった。
「……毒でも入ってんじゃねぇだろうな」
カルムは悪態をつきながらも、お椀に口をつけ、スープをズズッと啜った。
ゴクリ。
「――――――――――――ッ!!」
カルムの全身に、雷に打たれたような衝撃が走った。
「な、なんだ……これ……っ!?」
カルムの瞳孔が限界まで開き、お椀を持つ手がガタガタと震え出した。
口の中に広がったのは、今まで味わったことのない、信じられないほどの「旨味」。
廃棄区画の魔獣からアルが抽出した純粋な生命マナの肉が、舌の上でホロリとほどけ、濃厚な甘みとなって胃の腑へ落ちていく。
岩塩と野草の絶妙な塩梅が、その味を完璧なバランスで引き立てている。
それだけではない。
冷え切っていたカルムの身体の芯から、じんわりと、言葉では言い表せないほどの「ポカポカとした熱」が溢れ出してきたのだ。
「う……」
カルムの目から、ポロリと一滴の涙がこぼれ落ちた。
「え?」
トニとマリアが驚く。カルム自身も、自分の涙に一番驚いていた。
(なんで……涙なんか……)
カルムは、慌てて乱暴に涙を拭った。
誰にも頼らず、孤独に拳一つで生きてきた。強がらなければ生きていけなかった。冷たいスラムの路地裏で、彼はずっと「誰かの体温」を求めていたのだ。
アルの作ったスープは、ただ空腹を満たすだけのものではない。
作り手の「食べて笑顔になってほしい」という優しさと情熱が、極上の熱となって、カルムの冷たく凍りついていた心を内側から溶かしてしまったのだ。
「……う、美味ぇ……」
カルムの声が、震えていた。
「なんだよこれ……めちゃくちゃ美味ぇじゃねぇか……ッ!」
カルムは、恥も外聞も捨てて、木のお椀に顔を突っ込むようにして、ものすごい勢いでスープと肉を掻き込み始めた。
「熱ッ! 痛ぇ! でも美味ぇぇぇぇッ!!」
ズズズズズズズズズッ!!
あっという間にお椀を空にし、カルムは「プハァッ!」と最高の笑顔で息を吐き出した。
その顔には、先ほどまでの荒々しい喧嘩屋の影はなく、ただ美味しいご飯を食べて幸せいっぱいになった青年の、無邪気な笑顔が浮かんでいた。
「フフッ、おかわりあるよ?」
アルが、ニコニコと笑いながら鉄鍋のお玉を掲げる。
「おうッ! どんぶり一杯よこせッ!!」
カルムが勢いよくお椀を突き出した。
トニとマリアも、そんなカルムの食べっぷりを見てケラケラと笑い出し、バラックの中は一気に明るく温かい空気に包まれた。
四、 最高の厨房結成
鍋の中のスープがすっかり空になった頃。
カルムは、ポンポンに膨れたお腹をさすりながら、満足そうに床に寝転がっていた。
「あー……食った食った。腹が破裂しそうだ。生きててよかったぜ」
カルムが天井のトタンを見つめながら呟く。
「喜んでもらえてよかった。助けてくれたお礼、少しはできたかな」
アルが、木のお椀を片付けながら微笑んだ。
カルムは、上体を起こし、アルを真っ直ぐに見つめた。
その目には、いつもの鋭い光が戻っていたが、そこには確かな「信頼」の色が混じっていた。
「おい、アルって言ったな」
「うん」
「お前……こんな美味ぇメシが作れるくせに、なんでこんなスラムのゴミ溜めで縮こまってんだ?」
「え?」
アルが手を止める。
「俺はな、強い奴と喧嘩するのが好きで生きてきた。でもよ、お前のメシを食って分かったぜ。本当の『熱さ』ってのは、誰かを殴り倒す拳じゃなくて……誰かの腹を満たしてやる、その包丁の中にあるってな」
カルムは、立ち上がり、自分の胸をドンッと叩いた。
「なあアル。お前、もっと広い世界を見てみたくねぇか?」
「広い世界……」
「こんなスラムでくすぶってる器じゃねぇ。お前のその包丁とメシがあれば……このクソッタレな神様の世界でも、何か変えられるかもしれねぇ」
カルムは、ニッと八重歯を光らせた。
「俺が、今日からお前の用心棒になってやる。お前がメシを作るための『最高の火力』は、この俺が担ってやるよ」
「カルム……」
アルの瞳が、驚きと喜びで丸くなる。
「その代わり……報酬は、毎日三食、お前の作るそのスープだ。文句は言わせねぇぞ」
カルムが、照れ隠しのように顔を背けながらそう言った。
アルは、少しだけ下を向き、それから最高の笑顔で顔を上げた。
「……うんッ! 任せてよ、カルム!」
「僕の包丁と、カルムの拳があれば……絶対に、世界中で一番美味しいご飯が作れる気がするッ!」
少年料理人と、スラムの喧嘩屋。
互いに足りないものを補い合う、最強の相棒が誕生した瞬間であった。
泥だらけのバラック小屋の中で結ばれた、小さな食卓の誓い。
それはやがて、神々の支配するこの冷たい世界を根本から解体し、再創生していく偉大な物語の始まりとなる。
だが、二人がまだ気づかぬ天空の彼方。
純白の翼を持つ神の使徒たちが、この黒鉄の街を完全に消去すべく、静かに、そして確実に降下を開始していた。




