第3話:初めて切り開いた筋
一、 凍える夜のバラック
冷たい風が、トタン屋根の隙間を容赦なく吹き抜けていく。
黒鉄の街、第十三スラム街の路地裏。
雨風を凌ぐだけの粗末な廃材で組まれたアルたちのバラック小屋の中では、三人の幼い孤児たちが、互いの身を寄せ合いながらボロ布の中で震えていた。
「さ、寒いよぅ……」
一番小さな女の子、マリアが歯の根を合わさずにガチガチと鳴らしている。
「大丈夫だよ、マリア。アル兄ちゃんが、絶対になにか見つけて帰ってきてくれるから」
トニが、自分の着ていた薄汚れた上着を脱いでマリアにかけ、小さな体をギュッと抱きしめる。
だが、トニ自身の腹の虫も、残酷なほど大きく鳴っていた。
昼間、ボリスたちにスープを蹴り飛ばされてから、彼らは泥水しか口にしていない。
スラムの夜は極寒だ。腹の中に熱となるべき「カロリー(食べ物)」が入っていなければ、人間の体温はあっという間に奪われ、そのまま死に至る。
トニは、壁の隙間から外の暗闇を見つめた。
(アル兄ちゃん……廃棄区画なんかに行って、大丈夫なのかな……。化け物が出たって噂もあるのに……)
その時である。
バキッ!
「ひっ!?」
トニたちが身を縮めた。
バラックの入り口の薄い板戸が、外から乱暴に蹴破られたのだ。
「へへっ、いるかぁ? 空箱のガキども」
ニタニタと下劣な笑みを浮かべて入ってきたのは、自警団のボリスの部下、二人のチンピラであった。
彼らの手には、アルが作った手製の木のお椀が握り潰されている。
「お、おじさんたち……なにか用……?」
トニがマリアを背中に庇い、震える声で尋ねた。
「用だぁ? 昼間、ボリスの頭に言われただろうが。明日までに栄養錠剤を拾ってこねぇと、お前らを工場に売り飛ばすってな」
チンピラの一人が、汚れた舌で唇を舐め回す。
「でも、どうせあの『空箱』のアルのガキじゃ、アビスで野垂れ死んでるか、ロクなもん拾ってこれねぇのは分かってんだよ」
「だからよぉ、明日を待つまでもなく、今夜お前らを連行して、少しでも早く上層の工場の連中に金に換えてもらおうと思ってよぉ。俺たちも小遣いが欲しくてね」
男たちが、ゲラゲラと笑いながらトニたちへ近づいてくる。
「やだ……やだぁッ!」
マリアが泣き叫ぶ。
「来ないでッ! アル兄ちゃんが帰ってくるまで、僕たちはここを動かないぞッ!」
トニが、手近にあった錆びた鉄パイプの欠片を構え、必死に男たちへ向かって振り回した。
「チッ、生意気なクソガキが!」
チンピラの一人が舌打ちし、持っていた魔力棒でトニの細い腕を容赦なく打ち据えた。
「がはッ……!」
トニが鉄パイプを落とし、うずくまる。
「アル兄ちゃんなんて帰ってこねぇよ! あの空箱は、今頃アビスの泥の中で化け物のウンコになってんだよッ!」
男がトニの髪を掴み、力任せに引きずり起こそうとした。
その、瞬間であった。
スパーーーーーーーーーーーーンッ!!!!!!!!!!!
「「え?」」
バラック小屋の狭い空間に、空気を鋭利に切り裂く、異様で透き通った音が響き渡った。
トニの髪を掴んでいたチンピラの男の手が、ふわり、と軽くなった。
いや、手が軽くなったのではない。
男が握っていたはずの【魔力棒】が。
そして、彼が身につけていた、防具代わりの分厚い【鋼鉄の胸当て】が。
音もなく、紙クズのように「真っ二つ」に両断され、ズシリと音を立てて床へ滑り落ちたのだ。
「あ……?」
男が、自分の手と、真っ二つになった胸当てを間抜けな顔で見つめる。
血は一滴も出ていない。肉は一ミリも傷ついていない。ただ「武器と防具」だけが、神業のような精度で寸分違わず解体されたのだ。
「な、なんだぁッ!?」
もう一人のチンピラが腰を抜かして後退る。
バラックの入り口。
蹴破られた板戸の隙間から、夜風に吹かれて現れたシルエット。
「――お前たち、僕の家族に何をしてるんだい」
静かで、しかし地鳴りのように深く響く声。
そこに立っていたのは、ボロボロのエプロンを纏い、血と泥に汚れながらも、その漆黒の瞳に【黄金の真理の光】を宿した少年――アルであった。
アルの右手には、墨流しの美しい刃紋を持つ一本の『黒鉄の包丁』が、静かに、そして圧倒的な存在感を放って握られていた。
「アル……兄ちゃん……ッ!」
トニの瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出す。
アルは、泣きじゃくるマリアとトニの姿を一瞥すると、その黄金の瞳をすーっと細め、二人のチンピラを真っ直ぐに見据えた。
「ア……アルのガキ……ッ!? てめぇ、なんで生きて……ってか、なんだその包丁はッ!」
チンピラたちが、恐怖を押し隠すように怒鳴り声を上げる。
「ただの空箱の分際で、調子に乗ってんじゃねぇぞッ!」
もう一人の男が、腰から抜いたナイフを構え、アルへ向かって力任せに飛びかかってきた。
だが――。
アルは、一歩も動かなかった。
アルの『真理の目』には、飛びかかってくる男の筋肉の動き、ナイフを振るう軌道、そして彼自身の体重移動の「因果の筋」が、ハッキリと【黄金の光の線】となって視覚化されていた。
(右肩に力が入っている……。ナイフの軌道は右下がり。……膝の関節の『重心の結び目』は……ここだ!)
男のナイフがアルの顔面に届く、コンマ一秒前。
シュッ――――。
アルは、ただ黒鉄の包丁の柄を、男の右膝の関節の真下にある「空間の死角」へ向かって、トンッ、と軽く当てただけだった。
「ひぶっ!?」
それだけで、男の体重移動の「筋」が完璧に崩壊。
男は自分の勢いと重心を完全に失い、ナイフをすっぽ抜かして、アルの足元へ無様に顔面からズシャーッ! と滑り込んで転倒した。
「ぐ、がはっ……! な、なにが……!?」
男が鼻血を出しながら顔を上げる。
アルは、倒れた男の首筋に、冷たい黒鉄の包丁の刃先をピタリと当てていた。
「ひぃッ……!」
男の顔が、恐怖で青ざめる。
「僕たちを工場に売り飛ばすって言ったね」
アルの声は、怒りよりも、料理人が腐った食材を見極める時のように、冷徹で静かだった。
「僕たちは、ゴミじゃない。人間だ。……もう二度と、僕の厨房(家)に土足で上がり込まないでくれ。次に来たら……その時切り離すのは、防具だけじゃないよ」
「ひ、ひぃぃぃぃぃぃッ!!」
二人のチンピラは、腰を抜かしたまま悲鳴を上げ、転がるようにしてバラックから逃げ出していった。
夜の路地裏に、彼らの情けない足音だけが遠ざかっていく。
静寂が、戻ってきた。
シャリン……。
アルは、滑らかな手つきで包丁を腰のベルトへと収めた。
そして、先ほどまでの冷徹な顔から一転して――いつもの、ちょっと頼りないけれど、誰よりも優しい「アル兄ちゃん」の笑顔に戻った。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
アルは、トニとマリアの元へ駆け寄り、その小さな体を力いっぱい抱きしめた。
「アル兄ちゃんッ! アル兄ちゃぁぁぁんッ!」
トニもマリアも、アルの胸に顔を埋めて、声を上げて泣きじゃくった。
「怖かったよね。ごめんね……でも、もう大丈夫だよ」
アルは、二人の頭を撫でながら、優しく微笑んだ。
「僕……最高のお肉(食材)、見つけてきたからさ」
二、 再創生のスープ
バラックの中央。
蹴り飛ばされて凹んだ鉄鍋を、アルは丁寧に水で洗い、再び竈の上へセットした。
「アル兄ちゃん……それ、お肉なの……?」
トニが、アルが持ってきた布包みの中身を見て、目を丸くした。
布の中から現れたのは、透き通るような美しいピンク色をした、巨大な肉塊。
廃棄区画の魔導汚染獣からアルが削ぎ落とし、解体・再創生した【極上の生命マナの肉】である。
スラムの子供たちにとって、肉などというものは、上層の富裕層が食べる伝説の食べ物でしかなく、実物を見るのは初めてであった。
「うん。ちょっと変わった形してるけど、絶対に美味しいからね」
アルは、薪に火をくべた。
パチパチとはぜる火の音。
アルは、腰から『黒鉄の包丁』を抜いた。
トントン、トントントントン――――ッ。
バラックの中に、包丁がまな板代わりの木の板を叩く、軽快で心地よいリズミカルな音が響き渡り始めた。
「わぁ……」
マリアが、目を輝かせてアルの手元を見つめる。
アルの手さばきは、まさに魔法のようであった。
『真理の目』で見極めた肉の「筋(繊維の結び目)」に沿って、黒鉄の包丁が吸い込まれるように滑っていく。
硬い筋は断ち切り、旨味が詰まった部分は薄くそぎ切りにし、火が通りやすいように絶妙な隠し包丁を入れる。
アルの包丁の刃が肉に触れるたび、微かな黄金の光の粒子が舞い上がり、肉の中にわずかに残っていた臭みや不純物が、完全に空気中へ分解されていく。
【真理解体・下ごしらえ】。
それは、神が作ったただの肉の塊を、「人間が最も美味しく、最も栄養を吸収できる形」へと進化(再創生)させる、料理人アルにしかできない究極の魔術であった。
「よし、お鍋に入れるよ」
グツグツと煮立った鉄鍋のお湯の中に、アルはスライスした極上肉を静かに投じた。
ジュワァァァァァ……! と、食欲をそそる芳醇な香りが、一瞬にしてバラックの中へ広がる。
味付けは、スラムの隅で集めたわずかな岩塩と、野草の香草だけ。
だが、素材そのものの旨味と生命力が極限まで引き出されているため、それだけで十分すぎるほどの至高のスープになるのだ。
「いい匂い……!」
「お腹鳴りっぱなしだよぅ……」
トニとマリアが、鍋の周りを飛び跳ねながらヨダレを拭いている。
コトコト、コトコト……。
アルは、薪の火加減を慎重に見つめながら、お玉でスープのアクを丁寧にすくい取っていく。
アルの横顔は、真剣そのものだった。
神々の支配するこの世界で、彼が唯一持っている「誰かを幸せにするための力」。
(神様は、人間を空箱だって言うかもしれない)
(でも……僕たちには、体温がある。美味しいものを食べて、笑い合える命があるんだ)
「……よし、完成だ!」
アルが、鍋の火から鍋を外した。
立ち上る、黄金色の湯気。
透き通ったスープの中には、柔らかく煮込まれたピンク色の肉が、花びらのように美しく咲き誇っている。
アルは、木のお椀にたっぷりとスープと肉を盛り付け、トニとマリアへ手渡した。
「火傷しないように、フーフーして食べてね」
二人は、震える手でお椀を受け取った。
お椀から伝わってくる、じんわりとした確かな熱。
「い、いただきます……ッ!」
トニとマリアが、同時にスープを口へ運んだ。
ゴクリ。
「――――ッ!!」
二人の瞳が、同時に見開かれた。
「う……」
「う……」
「「う、うっまーーーーーーーーーーーーーいッ!!!!!」」
バラックの中に、子供たちの歓喜の絶叫が響き渡った。
「なにこれ!? お肉が、口の中に入れた途端に溶けちゃったよ!」
「スープが甘い! すごく甘くて……お腹の中が、すっごくポカポカするぅぅぅっ!」
トニもマリアも、涙目になりながら、ものすごい勢いでスープと肉を掻き込み始めた。
それもそのはずである。
このスープは、ただ美味しいだけではない。
アルが『黒鉄の包丁』で解体し、再創生した【生命マナ】が極限まで濃縮されているのだ。
冷え切っていた子供たちの体温が急上昇し、奪われていた生命力や細胞の傷が、みるみるうちに修復・活性化されていく。
「フフッ、ゆっくり食べてね。おかわりはたくさんあるから」
アルも、自分のお椀にスープを注ぎ、一口飲んだ。
温かい。
美味しい。
腹の底から、生きる力が湧いてくる。
アルは、泣きながらスープを食べる子供たちの笑顔を見て、ようやく心の底から安堵の息を吐き出した。
(よかった……。みんなに、ご飯を食べさせてあげられた)
(僕の包丁は……やっぱり、みんなを笑顔にするための道具なんだ!)
スラムの冷たい夜風の音は、もうバラックの中には聞こえなかった。
小さな鉄鍋を囲む三人の間には、世界で一番温かく、世界で一番幸せな「食卓」の時間が流れていた。
三、 嵐の前兆
だが――この小さな幸せの食卓の裏で、世界の歯車は不吉な音を立てて回り始めていた。
アルたちがスープを堪能していた、ちょうどその頃。
第十三スラム街の、さらに最上層部。
スラムを牛耳る自警団のアジトである、廃工場の一室。
「なんだと……? あの空箱のガキが、俺の部下をボコボコにして追い返しただと?」
皮のソファーにふんぞり返りながら、葉巻を吹かしていた大男――ボリスが、報告にきたチンピラ二人を前に、不機嫌そうに眉をひそめていた。
「は、はいッ! 嘘じゃありませんボリスの頭! あいつ、変な黒い包丁を持ってて……俺の鋼鉄の胸当てを、音もなく真っ二つにしやがったんですッ!」
「それに、なんか目も……黄金色にピカッと光ってて……ただの空箱じゃねぇ化け物みたいで……ッ!」
ガシャンッ!
ボリスが、持っていたグラスを床へ叩きつけて粉々に砕いた。
チンピラ二人がビクッと肩を震わせる。
「舐めやがって……。ただの魔力ゼロの空箱が、この第十三スラム街で俺に歯向かうってのか……?」
ボリスが立ち上がり、自分の横に立てかけてあった、身の丈ほどもある巨大な【魔力稼働式・大型鉄骨ハンマー】を肩に担ぎ上げた。
「俺たちが上層の連中からどんな思いでこのスラムを仕切ってんのか、あのガキに教えてやる必要がありそうだな……」
ボリスの顔に、凶悪な血管が浮かび上がる。
「おい、野郎どもを集めろ。明日の朝一番で、あのバラックを完全に包囲する」
「あの空箱のガキを半殺しにして……手に入れてきたって言う『包丁』とやらも、俺様がへし折ってやるよ」
スラム街の暴力と理不尽が、アルの小さな食卓へ向かって、暗い影を落とそうとしていた。
そして――さらに。
ボリスたちが気付いていない、もっと巨大で、絶望的な影もまた、黒鉄の街へ向かって静かに忍び寄っていた。
天空。
分厚い煤煙の雲の向こう側。
そこから、この黒鉄の街を見下ろしている、純白の翼を持つ二つの影。
『――――観測ポイントA(黒鉄の街)、異常マナの波形を検知――――』
冷たく、感情の全くない声。
『――――第十三スラム街の座標(アビス上空)において、神が定めた理を書き換える「非正規の解体コード」の発生を確認――――』
『――――これより、主神アルファ様の命に基づき……当エリアの【バグ個体】の特定、ならびに……対象区画の『全消去』を開始する――――』
神界から遣わされた、主神直属の刺客――【使徒】。
まだアルたちは知らない。
彼がゴミ溜めで手に入れた『黒鉄の包丁』と『真理の目』が、神々が管理するこの世界の根幹を揺るがすほどの、とんでもない存在であるという事実を。
そして、その力に目をつけた神々が、アルの命を――そしてスラム街という街そのものを消し去るために、動き出したということを。
嵐の前の静けさの中。
アルの小さな食卓の火は、世界を覆う絶対的な理不尽の氷を溶かすための、たった一つの希望の灯として、静かに、しかし力強く燃え続けていた。




