第36話:オルタの選択
一、 朝陽の差し込む森と新たな日常
天竜山脈の中腹、緑豊かな森林に囲まれた小さな開けた丘。
昨日までの激闘と、古代都市アガルタの地下深くからの脱出劇が嘘のように、そこには穏やかで温かな朝が訪れていた。大樹の葉を揺らす爽やかな風が吹き抜け、葉の隙間から差し込む木漏れ日が、露に濡れた草花をキラキラと黄金色に輝かせている。
「ふぅ……朝の空気って、本当にこんなに透き通ってるんだね」
アルは、手製の簡易竈の前に立ち、大きく伸びをした。
エプロンの裾をキュッと結び直し、大鍋に注いだ湧き水が煮立つのを待つ。その横では、カルムがまだ半分眠そうな目を擦りながら、豪快なあくびを噛み殺していた。
「ふぁぁ……。おいアル、今朝のメシは何だ? 昨日の残りのボア肉か?」
「カルム、朝からそんな脂っこいものはダメだよ。今朝はね、オルタと一緒に摘んできた山菜と、干し肉の優しいスープ粥だよ」
「へいへい。まあ、お前のスープなら何だって大歓迎だけどな」
カルムはニッと八重歯を見せると、竈の下に手をかざし、手慣れた様子で繊細な『我流・極小微火』を灯した。絶妙な火加減が伝わり、鍋の底部から細かな気泡が立ち上り始める。
「アル殿、薪の補充はこれで足るか?」
背後から、両腕に抱えきれないほどの太い薪を抱えたエレナが歩み寄ってきた。甲冑の胸当てを外し、動きやすい革の胸当て姿となった彼女の額には、朝露のような心地よい汗が光っていた。
「わぁ、エレナさんありがとう! 完璧だよ!」
「ふふ、これくらいはお安い御用だ。私はもう、あの暴走して薪を粉砕していた頃の私ではないからな」
エレナは誇らしげに胸を張り、一本一本の薪を丁寧に竈の横へ並べた。
「あの……アル。ワタクシも……お手伝いをします」
少し戸惑ったような、でもどこか嬉しそうな声。
振り返ると、そこには白磁の装甲ドレスの裾を小さく整え、木のお皿とお匙を大事そうに抱えた少女――オルタが立っていた。
彼女のルビー色の瞳には、かつての機械特有の冷ややかな光は一切存在しない。朝陽を浴びてしっとりと輝くその肌には、人間と同じ温かな体温がしっかりと定着していた。
「ありがとう、オルタ! じゃあ、みんなのお皿とお匙を、あっちの平らな岩の上に並べてくれる?」
「はい、アル! 了解しました!」
「了解」という言葉の響き。それすらも、以前のような無機質なプログラムの実行宣言ではなく、大好きな人の役に立ちたいという、年相応の少女の弾んだ響きを帯びていた。
オルタは、足取りも軽やかに岩のテーブルへと向かい、皿の配置をミリ単位で調整しながら、嬉しそうに作業を進めていく。
包丁を振るうアル。火を統べるカルム。薪を整え護るエレナ。そして、笑顔で配膳をするオルタ。
天竜山脈の爽やかな朝の光の中で、チーム『最高の厨房』の新しい日常が、静かに、そして確かに始まっていた。
二、 残されたマスター権限と最後の未練
食事が終わり、一同が温かなスープ粥の余韻に浸りながら食後の白湯を啜っていた時のことだった。
「……アル」
オルタが、木のお椀を両手で大切に包み込みながら、静かに口を開いた。
そのルビー色の瞳が、どこか遠く――足下に眠る、あの古代都市アガルタの地下深くへと向けられていた。
「どうしたの、オルタ?」
アルが顔を上げる。
「ワタクシの内部メインコア……その最深部に残されている、システムデータについての報告です」
オルタの言葉に、カルムとエレナも静かに杯を置き、耳を傾けた。
「ワタクシは昨日、自分自身のプログラムを書き換え、神の中枢システムとの接続を完全に切断しました。……しかし、ワタクシのコアには、古代アガルタの最高位技師長から直接託された【都市全域のマスター管理権限】のデータが、今も残されています」
オルタは、自らの胸元――『ALTA-00』の刻印がある位置に、そっと小さな手を当てた。
「マスター管理権限……。つまり、君が望めば、あの地下都市アガルタを再び起動させることができるということか?」
エレナが問う。
「はい、エレナ。ワタクシがアガルタの地下へ戻り、中央タワーの基部にアクセスすれば……アガルタの全工場、全機械群をワタクシの完全な制御下に置くことが可能です。神の管理から完全に独立した……『機械と人間が共存する絶対の要塞都市』として、アガルタを再興することができます」
オルタの言葉が、天竜山脈の静かな森に落ちた。
アガルタの再興。
それは、凄まじい意味を持っていた。
もしオルタがアガルタの主となり、地下都市を再起動させれば、そこは地上で追われる人々にとって、神の使徒や教国の追撃すら跳ね返す「絶対の安全地帯」となる。
アルたちがこれから立ち向かおうとしている、神の理不尽な世界。
その戦いにおいて、アガルタという超古代の要塞都市を拠点にできることの価値は、計り知れないものがあった。
「おチビちゃん……」
カルムが、重い口を開いた。
「それってつまり……お前がそこに行けば、お前は誰もが恐れる『地下王国の女王様』になれるってことか?」
「女王様……という表現が適切かは分かりませんが、概念としては同等です。ワタクシは、アガルタのすべての機械を統率する、絶対の管理者となります」
オルタは、静かに言葉を続けた。
「ですが……そのためには、ワタクシはアガルタのメインフレームと直接神経接続を行い、二度とそこから離れられなくなります。……ワタクシの身体は、再びアガルタの心臓として、地下深くへ繋ぎ止められることになります」
「二度と離れられない……!?」
アルの胸が、ドクンと激しく跳ね上がった。
アガルタを再興し、絶対の要塞を作ること。
しかし、その代償は――せっかく自由と「心」を獲得したオルタが、再び地下の暗闇へ逆戻りし、一生機械の核として縛られ続けることであった。
「そんなの……ダメだよ!」
アルが、思わず立ち上がった。
「オルタは、やっと地上に出てこれたんだよ!? 太陽の光を見て、美味しいスープを食べて、『生きているのが嬉しい』って泣いてくれたのに……! なんでまた、そんな暗い地下に戻らなきゃいけないの!?」
「アル……」
オルタは、アルの悲痛な叫びを、どこまでも優しく、温かな眼差しで受け止めた。
「アル。ワタクシは……皆様に救われました。皆様から、名前をいただき、美味しい味を教わり、大切な『心』を与えていただきました。……だからこそ、ワタクシは考えたのです」
オルタのルビー色の瞳に、真摯な光が宿る。
「ワタクシがアガルタの主となり、要塞を構築すれば……アルたちがこれから歩む厳しい旅の、絶対の盾となれます。神の使徒が襲ってきても、教国の軍勢が押し寄せてきても、ワタクシがアガルタの機械軍団を動かして、皆様を守り抜くことができます」
オルタは、自らの小さな胸を強く押さえた。
「それが……ワタクシという存在を創ってくれた、アガルタの技師たちへの報いであり……ワタクシを救ってくれたアルたちへの、最高の恩返しなのではないかと……」
三、 自由の意味と三人の言葉
オルタの言葉。
それは、自分を犠牲にしてでも、大好きな「家族」の未来を守りたいという、彼女の芽生えたばかりの「心」から絞り出された、痛切なまでの配慮(愛)であった。
沈黙が、四人の間に降り積もる。
カルムは、黙って焚き火の薪をいじり、エレナは聖剣の柄を握り締めたまま俯いていた。
そして――。
「バカ野郎」
低い、だが腹の底から響くような声がした。
カルムだった。
カルムは、薪をくべる手を止め、立ち上がると、オルタの前までどかどかと歩み寄った。
「な……カルム?」
カルムは、オルタの目の前にしゃがみ込むと、彼女の小さな額を、容赦なく指先でコンッ! と力任せに小づいた。
「いった……ッ! 痛いです、カルム!」
オルタが両手で額を押さえ、涙目でカルムを見上げる。
「痛ぇだろ? 痛ぇのはな、お前がバカなこと考えてるからだッ!」
カルムは不機嫌そうに八重歯を剥き出しにし、オルタの銀髪をガシガシと乱暴に撫で回した。
「恩返しだぁ? 絶対の要塞だぁ? ……そんなもんのために、誰がお前をあの暗い地下から引きずり出したと思ってんだよ! 俺たちが欲しいのはな、遠くの地下から俺たちを守る『便利なお手伝いロボット』じゃねぇんだよッ!」
カルムは、己の胸を強く叩いた。
「俺たちが欲しいのは……ここで一緒に温けぇ飯喰って、『美味ぇな!』って顔見合わせて笑える、お前自身なんだよ! 自分を犠牲にして俺たちを守るなんてな、そんなの恩返しでも何でもねぇ! ただの『嫌がらせ』だッ!!」
「カルム……」
カルムの荒々しい、だが不器用な愛に満ちた言葉。
続いて、エレナが静かに歩み寄り、オルタの前に美しく片膝をついた。
「オルタ」
エレナの青い瞳は、澄み切った秋の空のようにどこまでも深く、優しかった。
「私も……かつて君と同じ過ちを犯そうとしていた」
「エレナ……?」
「教国の聖騎士長として、民を護る盾として、己の感情や幸せを捨て、神の機械として死ぬことこそが自分の存在価値(誇り)だと信じ込んでいたのだ。……だが、アル殿は私に教えてくれた」
エレナは、そっとオルタの手を包み込んだ。
「自分を大切にできない者に、本当の意味で他者を護ることなどできないのだと。……君が犠牲になって築いた城塞など、アル殿が、喧嘩屋が、そして私が、心から喜ぶと思うか? そんな冷たい城塞で食べるスープが、美味しいと思うか?」
エレナの言葉が、オルタの胸の奥底のコアを、優しく、強く揺さぶる。
「君はもう、道具ではない。誰かに捧げるための犠牲でもない。君自身の足で歩き、君自身の目で世界を見、君自身の心で幸せを掴む権利がある……一人の『生きている人間』なのだよ」
「……あ……」
オルタのルビー色の瞳から、一滴の透明な雫がこぼれ落ちた。
そして――アルが、オルタの正面に立った。
アルは、エプロンで自分の涙を拭い、オルタの手を両手でしっかりと、力強く握りしめた。
「オルタ」
アルの声は、太陽の光のようにどこまでも温かかった。
「アガルタの街を再興しなくたっていい。僕たちを守るために、冷たい地下に戻らなくたっていいんだよ。……僕の包丁はね、君を犠牲にして守られるためにあるんじゃない」
アルは、腰の『黒鉄の包丁』の柄にそっと手を触れた。
「僕の包丁は、オルタと一緒に……世界中の美味しいものをいっぱい食べて、一緒に笑うためにあるんだ。……だから、お願いだから言わないで。『お別れ』になるような選択なんて……絶対にしないでッ!」
アルの、心からの叫び。
「僕たちの側にいて……オルタ。一緒に……旅に行こうッ!!」
四、 自らの意思で掴み取る未来
「アル……っ! カルム……っ! エレナ……っ!」
オルタのルビー色の瞳から、ボロボロと、とめどなく大粒の涙が溢れ出した。
機械としての効率。
アガルタの技師たちから託された使命。
家族への恩返し。
それらすべてを「正解」だと信じ込もうとしていた彼女の心の中で、三人の言葉が、三人の体温が、冷たい論理をすべて吹き飛ばしていった。
彼女の胸の奥底で、本当の「我が儘(自我)」が、産声を上げる。
(ワタクシは……行きたくない)
オルタの心が、叫んでいた。
(あの暗く冷たい地下へ……一人で戻りたくない。……ワタクシは、太陽の下にいたい。アルの作った温かいスープを食べたい。カルムの頭を撫でてくれる手が好き。エレナの優しい抱擁が好き……!)
(ワタクシは……皆様と一緒にいたいッ!!)
オルタは、自らの胸の奥底のコアへ向かって、最上位管理者としての「最後のコマンド」を入力した。
【コマンド:アガルタ全管理権限の永久破棄ならびに、都市機能の完全睡眠固定】。
彼女は、自分を「アガルタの主」へと縛り付けるはずだったマスター権限のデータを、自らの意思で、永遠にアクセス不能な領域へと消去・破棄したのだ。
カチッ……。
彼女の身体の中で、最後の「過去への鎖」が完全にちぎれ飛んだ音。
アガルタの機械の女王としての未来を捨てること。
それは、彼女が「ただの一人の人間の少女」として生きていくための、絶対の選択であった。
「……アル」
オルタは、涙で濡れた顔を上げ、アルの目を真っ直ぐに見つめた。
そのルビー色の瞳には、もう迷いも、悲壮感も、一切なかった。
そこにあるのは、自らの意志で未来を選び取った、一人の気高き人間の輝き。
「ワタクシ……アガルタへは戻りません」
オルタの口から、はっきりとした、力強い言葉が紡がれた。
「ワタクシは……アガルタの女王にはなりません。……ワタクシは、アルの……カルムの……エレナの……『最高の厨房』のオルタとして、生きていきますッ!!」
「オルタ……っ!」
アルの顔に、今日一番の、太陽のような最高の笑顔が咲き誇った。
「へっ……当たり前だろ、おチビちゃんッ!!」
カルムが豪快に笑い、オルタを抱き上げて高々と掲げた。
「よく言ったぁッ! それでこそ、俺たちの自慢の末っ子だッ!」
「ふふ……見事な選択だ、オルタ。君のその気高き決断を、心から誇りに思うぞ」
エレナも、溢れ出る涙を拭いながら、最高に温かな笑顔で二人を抱きしめた。
四人は、緑豊かな天竜山脈の丘の上で、固く、固く抱き合った。
過去の因縛を断ち切り、自らの意志で「家族と共に生きる未来」を選び取った少女。
彼女の選択によって、チーム『最高の厨房』は、揺るぎない絶対の絆を完成させたのである。
五、 旅立ちの道・西への足音
太陽が天空の中央へと昇り、天竜山脈全体を黄金色の光で照らし出していた。
野営の片付けを終え、四人はそれぞれの旅装を整えていた。
アルは、新しくあて布をされたエプロンをキュッと結び直し、背中に大きな調理リュックを背負う。腰には、輝く『黒鉄の包丁』。
カルムは、巨大な荷物を片手に担ぎ、両拳の調子を確かめるように軽く打ち合わせた。その表情には、相棒としての圧倒的な自信が満ちている。
エレナは、白磁の甲冑を完璧に着用し、背には『星霜の聖剣』。風になびく銀髪が、太陽の光を受けて気高く輝いている。
そして――オルタ。
彼女は、アルの手製の小さなリュック(スープの保存食と、途中で摘んだ野草のスパイスが入った大切な袋)を大切そうに背負い、アルの隣に並び立った。
彼女の白磁の肌は温かく、そのルビー色の瞳は、これからの未来への期待で輝いている。
「さあ……行こう!」
アルが、西の地平線を指差した。
天竜山脈を越えた先に広がるのは、白銀の教国『聖都ルミナ』、そしてその先に待つ未知なる広大な世界。
神の冷たい支配に苦しむ人々が、まだ見ぬ新しい「温かな食卓」が、彼らの訪れを待っている。
「おうッ! どこへ行っても、俺たちの『厨房』で美味ぇもん作ってやろうぜ!」
カルムが笑う。
「うむ。我が剣、我が盾、すべてを君たちと共に。……参ろうか!」
エレナが先頭に立つ。
「はい、アル! ワタクシ、どこまでも皆様と一緒に行きますっ!」
オルタが、アルの手をギュッと握りしめる。
アルは、握り返されたオルタの手の温もりを確かめ、力強く頷いた。
「行こう! 僕たちの……冒険の続きへッ!!」
四人の足音が、重なり合いながら、西へと伸びる街道へと力強く踏み出されていく。
神の作った冷たい計算式を解体し、温かな新世界を再創生するための、少年料理人と仲間たちの果てしない大冒険。
古代都市アガルタ編を越え、四人の絆という不滅の体温を抱いたチーム【最高の厨房】は、光溢れる地上世界へと、どこまでも、どこまでも高く羽ばたいていくのであった。




