第16話:世界の広さと冷たさ
一、 地平線の彼方と無律荒野
黒鉄の街を背にしてから、二日の月日が流れていた。
かつてアルの頭上に広がっていた世界とは、狭く、暗く、油と煙の臭いが立ち込める第十三スラム街のトニやマリアたちの小さなバラックの空だけであった。
しかし今、彼の視界を埋め尽くしていたのは、どこまでも、どこまでも果てしなく続く赤茶けた大地――『無律荒野』であった。
「……ひろいなぁ……っ」
アルは、背中の大きな旅リュックの帯をぎゅっと握り締めながら、思わず足を止めて感嘆の声を漏らした。
風が吹き抜ける。
その風は、スラム街の湿った鉄錆の臭いとはまるで違っていた。乾燥した乾いた土の匂い、遠くの塩の気配、そして見たこともない野生の植物が放つ、かすかな苦みを含んだ空気。
頭上を見上げれば、そこには煙の遮りなど一切ない、吸い込まれそうなほど澄み切った蒼穹が広がり、太陽が眩いばかりの光を放っている。
「へっ、だから言ったろ。世界ってのは、あのゴミ溜めの何千倍もでけぇんだよ」
カルムが巨大な荷物を片手で軽々と担ぎ直し、ニッと八重歯を見せて笑った。
彼の赤銅色の髪が、荒野の激しい風になびく。
「だがな、アル。空がいくら広くたって、地面が広いからって、浮かれてばかりもいられねぇぞ」
カルムの視線が、遠くの地平線に揺らめく不気味な赤黒い陽炎へと向けられた。
「ここらは神様の直接管理が届かねぇ『無律荒野』だ。一見すると自由に見えるが……その実、神様から見捨てられた捨て場(廃棄物置き場)でもある。水も育たねぇし、植物も枯れ果ててるだろ?」
アルは言われて周囲を見回した。
確かに、広大な大地のあちこちには、上層の工場から投棄された巨大なギアや破断したパイプが、巨獣の骨のように転がっていた。地表はカラカラに乾ききり、ひび割れた亀裂からは、かすかに緑色の有毒な魔力毒の煙がゆらゆらと立ち上っている。
「……うん。すごく綺麗に見えるのに、どこか……寒気がするよ」
アルは胸の前にそっと手を当てた。
胸の奥底で燃える命の熱『炉』が、この荒野に漂う「冷たさ」に反応して、チリチリと微かな痛みを訴えていたのだ。
「油断するな、二人とも」
白銀の甲冑を纏い、背に『星霜の聖剣』を背負ったエレナが、先頭で足を止めた。
彼女の美しい青い瞳は、荒野の先――薄っすらと見えてきた、巨大な黒い影を捉えていた。
「あれが、旧交易都市『ガレア』の残骸だ。かつては教国と東の大陸を結ぶ繁栄した都市だったが……数十年前に神の『過失管理区域』と指定され、主要なマナラインを遮断されて廃墟と化した」
「過失管理区域……?」
アルが尋ねる。
「要するに、神様にとって『維持する価値がなくなった場所』だ」
エレナの声には、抑えきれない苦い痛みが混じっていた。
「神は、効率を重んじる。マナの生産性が落ちた都市、あるいはバグが発生した地域は、容赦なく管理ランクを下げられ、水や食料の給付を絶たれる。……そこに住む人々がどうなるかも知らずに、な」
エレナの言葉とともに、風が一段と冷たく吹き抜けた。
空はこんなにも広く、太陽はこんなにも明るいというのに。
アルたちの肌を刺す空気は、スラム街の暗闇よりも冷たく、残酷なまでの理不尽を孕んでいた。
二、 枯れたオアシスと『管理街区ガレア』の残骸
旧交易都市ガレアの入り口へ足を踏み入れたとき、アルたちは言葉を失った。
かつては美しい石造りの建物が立ち並んでいたであろう街並みは、今や崩れた瓦礫と錆びた鉄骨の山と化していた。中央にあったとされる巨大なオアシスの池は完全に干上がり、底の泥は乾いて亀裂が走り、死んだ魚の骨が白く転がっている。
だが――この廃墟の街には、人がいた。
「……あ……」
アルの口から、漏れ出た声。
崩れかけた石壁の影、乾いた路地の両脇。
そこに、無数の人々が座り込んでいた。
服はボロボロで、肌は土色に汚れ、骨と皮ばかりに痩せこけている。スラム街の住民たちと似たような姿だ。
しかし、彼らの「目」は、スラムの人々とも全く違っていた。
恐怖も、怒りも、悲しみすらもない。
ただ、ガラス玉のように光を失った虚ろな瞳で、空の一点を見つめている。
子供が母親の隣で縮こまっているが、泣き声ひとつ上げない。親もまた、その子供の頭を撫でることすらなく、ただ置物のようにじっと佇んでいる。
「なんなんだよ……こいつら……」
カルムが不気味さに身をすくめ、眉をひそめた。
「死んでんのか……? いや、息はしてやがるが……生きているようには見えねぇぞ」
「これが……神の『効率管理』の果てだ」
エレナが、硬い表情で路地の奥を指差した。
廃墟の広場の中央。
そこに一つだけ、周囲の崩壊とは不釣り合いなほどピカピカに維持された、白磁の金属塔が聳え立っていた。
【自動配給端末・タイプγ】。
塔の根元には小さな穴が開いており、そこに長蛇の列が作られていた。
痩せこけた人々が、まるで意思を持たない機械のように、一歩、また一歩と無言で列を進めている。
カコン……。
塔の穴から、一粒の灰色の小さな「錠剤」が転がり出た。
並んでいた男が、泥で汚れた手でそれを拾い上げ、噛みしもせずにそのまま喉の奥へ呑み込んだ。
それだけだ。
水すらない。男は錠剤を呑み込むと、満足した風でもなく、ただフラフラと列を離れ、再び壁の影へと戻って座り込んだ。
「あ……あの小さな粒が……ご飯なの?」
アルが、信じられないというように目を見開いた。
「そうだ」
エレナが、悔しそうに拳を握り締めた。
「あれは神が下層民に与える『魔力ペレット(高栄養錠剤)』だ。味も、匂いも、温もりもない。ただ生命を維持し、最低限の肉体労働を行わせるためだけの、科学的合成物質。……神は、人間が『食事を楽しむ』ことを無駄な消費とみなし、このようにペレット一枚で管理する仕組みを理想としているのだ」
「味もない……温かくもない粒……」
アルの脳裏に、幼い頃に啜ったあのカビの生えたパンと泥水の記憶が蘇る。
だが、あの泥水のパンにすら、「お腹が空いた」「生きたい」という人間の必死な情熱があった。
目の前の人々には、それすらもない。
ただ、神から与えられる冷たい錠剤を胃袋に放り込み、感情を殺して、死んでいないだけの存在へと変えられている。
「こんなの……ご飯じゃないよ……っ」
アルの胸の奥の『炉』が、激しい怒りと悲しみでカッと熱くなった。
アルは、背中のリュックから手製の木のお鍋と、スラムで仕込んできた「スープの保存食(乾燥マナ肉と根菜の粉末)」を取り出した。
「僕……温かいスープを作る! みんなに、本当のご飯を食べてもらうんだ!」
三、 拒絶される温もりと冷たいペレット
「おい、アル! 待てって!」
カルムの制止も聞かず、アルは廃墟の広場の隅へ駆け寄り、手早く薪を集めて火をくべた。
パチパチパチ……。
アルの手さばきは迅速だった。
綺麗なお湯を沸かし、そこへ乾燥マナ肉の粉末を投入する。
シュワァァァァァッ……!
一瞬にして、あのスラム街を包み込んだ、香ばしく濃厚なカニ肉の旨味と根菜の甘い香りが、ガレアの殺伐とした廃墟へ広がっていった。
温かな湯気が、灰色の空へと舞い上がる。
「みんな! 温かいスープだよ! こっちに来て、呑んでみて!」
アルが声を張り上げ、木のお玉でスープを掬って掲げた。
スラム街であれば、この香りが広がった瞬間に、人々は目の色を変えて集まってきたはずだった。
しかし――。
「……!?」
広場にいた人々が一斉にアルの方を振り返った。
だが、彼らの顔に浮かんだのは、喜びや感動ではなかった。
圧倒的な「恐怖」と「嫌悪」。
「ひ……ひぃぃぃっ!?」
「不純物だ! 匂いのある物体が加熱されている!」
「バグだ! 危険な未認証物質だぁぁぁっ!!」
人々が、まるで毒薬でも突きつけられたかのように、悲鳴を上げて後ずさりしたのだ。
母親は子供の目を覆い隠し、男たちは頭を抱えて地面に伏せた。
「え……? どうして……?」
アルの手が、空中でピタリと止まった。
お玉から立ち上る、温かく美味しいスープの湯気。
それが、彼らにとっては「恐怖の対象」でしかなかった。
一人の老人が、震える指でアルを指差し、枯れた声で叫んだ。
「や、やめろ……ッ! そんなものを口にしたら……神の識別コードが汚れてしまうっ!」
「自動配給端末に『不純物摂取者』と認定されたら……明日からのペレット給付が止まってしまうんだぁっ!」
「あっちへ行け! 悪魔め! 俺たちのペレットを奪わないでくれぇぇっ!!」
「そんな……僕、ただみんなに温かいものを……」
アルの声が震える。
「退がるんだ、少年!」
エレナが、アルの前に割って入り、彼を背中に庇った。
エレナの顔は、苦痛に歪んでいた。
「無駄だ、アル殿……。彼らの精神は、長年の神の管理と調教によって、すでに完全に破壊されている。……彼らにとって『神のペレット以外を口にすること』は、死以上の恐怖なのだ」
「そんなの……そんなのってないよ……っ!」
アルの手から、お玉が力なく滑り落ちそうになる。
世界は、スラム街より遥かに広かった。
しかし――その広い世界のあちこちに張り巡らされていたのは、スラムの泥水よりも遥かに冷たく、恐ろしい「神の管理の暗闇」であった。
どれほど美味しいスープを作っても。
どれほど温かな情熱を込めても。
食べる側の心が冷たく凍りつき、神の恐怖に支配されていれば、その温もりすら拒絶されてしまう。
自分の作ってきた料理の全否定。
アルは、立っていることすらできなくなるほどの、激しい眩暈と絶望に襲われた。
四、 監視機兵の襲撃と拒絶の世界
『――――警告。観測領域・ガレア区画において、未認証の加熱調理反応を検知――――』
不意に、広場の中央に聳え立つ【自動配給端末】から、甲高い警告音が鳴り響いた。
端末の先端に埋め込まれていた巨大な赤いレンズが、怪しく発光し、アルの作ったスープの鍋へと照準を合わせる。
『――――当物質は、管理コード【非正規の感情誘発性・高栄養不不純物】と判定。……直ちに廃棄および、持込者の排除を実行する――――』
ガシャンッ! ガシャンッ! ガシャンッ!
広場のあちこちの瓦礫が弾け飛び、地中から三機の防衛兵器が姿を現した。
身の丈二メートル。
四本脚の蜘蛛のような金属の躯体に、無数の不気味なカメラレンズと、回転式の魔力機関砲が取り付けられた、自動殺戮機械。
【神罰監視機・サーベイランス・ギア】。
使徒のような高階位の神聖兵器ではない。しかし、神が地上を直接監視し、管理ルールを破った下層民を即座に処刑するために配置された、冷酷な機械兵であった。
「チッ……! どこへ行っても神様の鉄クズが湧いてきやがるな!」
カルムが前に躍り出た。
両拳に、激しい赤蓮の魔力炎が燃え上がる。
「アル! 凹んでる暇はねぇぞ! あの鉄クズどもをブッ叩くのが先だッ!」
「カルム殿、右は任せろ! 【星霜一閃】ッ!」
エレナが聖剣を振り抜き、青白銀の極光が走る。
一機の監視機兵の脚が、幾何学の刃によって瞬時に切断され、激しい火花を散らして転倒した。
「オラァァァァァッ!!」
カルムが爆発的な踏み込みで二機目の正面に躍り出て、全魔力を込めた右アッパーを叩き込む!
ドガァァァァァンッ!!
監視機兵の金属頭部が打ち抜かれ、内部の魔力回路が大爆発を起こして炎上した。
「ギ……ギギギ……ッ」
残された三機目の監視機兵が、回転機関砲をアルと彼の作ったスープの鍋へと向けた。
『――――対象物の完全破壊を開始――――』
バババババババババババババババッ!!!!
大量の魔力弾が、アルと大鍋へ向けて降り注ぐ!
「させないッ!!」
アルの瞳に、『真理の目』の黄金の光が灯った。
絶望に沈んでいた彼の体内で、黒鉄の包丁が不滅の脈動を打つ。
アルはエプロンをなびかせながら、魔力弾の軌道の中へと踏み込んだ。
(見える……! 弾丸の軌道……そして、あの機械の動力パイプの『結び目』……!)
シュッ――――。
アルが黒鉄の包丁を滑らかに振り抜いた。
サクッ。
降り注ぐ魔力弾のエネルギーの結合が空中であっけなく解体され、ただの温かい風となって消失する。
さらにアルは一歩踏み込み、監視機兵の胸の動力炉の接合部へ向かって、包丁の刃先を吸い込ませた。
パカーンッ!
監視機兵の頑丈な金属装甲が、まるでミカンの皮のように綺麗に剥がれ落ち、内部の動力核が剥き出しになる。
「いっけぇぇぇ、カルムッ!」
「おっしゃぁぁぁッ!! 燃え散りやがれぇぇぇッ!!」
アルの解体からコンマ一秒後、カルムの赤い炎の拳が剥き出しの核心へと叩き込まれた。
ドガァァァァァァァァンッ!!
三機目の監視機兵も、内部からの大爆発とともに粉々に打ち砕かれた。
わずか数十秒の電撃戦。
アルたちの見事な連携により、神の監視兵器は完全に沈黙した。
しかし――。
「……あ……」
アルは、手の中の包丁を握りしめたまま、言葉を失った。
倒した敵の向こう側。
広場にいた人々が、アルたちを見ていた。
だが、そこにあるのは「助けてくれた感謝」ではなかった。
「あ……悪魔だ……っ!」
「神様の監視機を壊しやがった……っ!」
「お前たちのせいで……お前たちのせいで、俺たちは殺されるんだぁぁぁっ!!」
人々が、血走った目でアルたちを睨みつけ、足元の石ころや泥を拾い上げて、アルたちへ向かって投げつけてきたのだ。
ベチャッ。
泥の塊が、アルのエプロンに当たって落ちた。
「出て行け! 悪魔ども! 俺たちの街から出て行けぇぇぇっ!!」
人々の叫び声。
それは、ボリスたちの理不尽な暴力よりも、使徒の消去光線よりも、深く、痛烈にアルの心を切り裂いた。
「アル……行こう」
カルムが、無言でアルの肩に手を置いた。
カルムの顔も怒りに歪んでいたが、同時に、この世界の「底なしの冷たさ」に対する深い諦めが混じっていた。
「ここにいても、何も変わらねぇ。……行こうぜ」
エレナも静かに首を振り、聖剣を鞘へと収めた。
アルは、泥で汚れたエプロンを見つめ、投げ捨てられたスープの鍋を静かに拾い上げた。
そして、人々の憎悪の視線を背中に受けながら、トボトボとガレアの廃墟を後にした。
五、 スープの熱が灯す小さな影
ガレアの廃墟を遠く離れ、再び広大な無律荒野の街道へ出た頃には、空は赤紫色の惨劇のような夕焼けに染まっていた。
荒野の冷たい夜風が、アルの頬を叩く。
アルは、街道の脇の岩場にぽつんと座り込み、膝を抱えて俯いていた。
手元には、泥のついた大鍋。
「……世界は、広いね」
アルの声は、消え入りそうに小さかった。
「すごく広くて……すごく、冷たいや」
カルムは、隣に腰掛け、黙って干し肉をかじっていた。
エレナも、少し離れた場所で風を見つめている。
「スラム街の人たちはね……温かいスープを呑んで、笑顔になってくれたんだ。だから僕、世界中どこに行っても、みんな喜んでくれると思ってた」
アルの目から、ボロボロと大きな涙が溢れ出た。
膝に顔を埋め、声を押し殺して泣く。
「でも……みんな、恐怖で心が死んじゃってた。温かいものを食べるのが怖いなんて……そんなの、あんまりだよ……っ! 僕は……僕の作ったご飯は……みんなを傷つける悪魔の食べ物なのかな……っ?」
アルの胸の奥の『炉』が、悲しみで冷たく湿っていた。
その時だった。
ザザッ……。
背後の岩場の陰から、小さな足音が聞こえた。
「……ん?」
カルムが瞬時に反応し、腰のナイフに手を掛けた。
しかし、岩陰から顔を出したのは――衰弱しきった、六、七歳ほどの小さな女の子だった。
ガレアの廃墟から、こっそりとアルたちの後を追ってきたのだろう。
ボロボロの服、煤けた顔。しかし、その女の子の鼻は、クンクンとアルの持っている大鍋の方向を嗅いでいた。
女の子は、アルの前までフラフラと歩み寄ると、震える小さな声で呟いた。
「……あたたかいの……」
「え……?」
アルが涙を拭って顔を上げた。
女の子は、アルの大鍋の底に残っていた、わずかなスープの湯気を指差した。
「さっきの……街で出た匂い……。すっごく……甘くて……あたたかかったの……」
女の子の瞳には、ガレアの他の大人たちのような「光のない虚ろさ」はなかった。
ほんの少しだけ……「食べてみたい」という、人間としてのささやかな情熱の芽が残っていたのだ。
「私……お腹、すいちゃった……。あのあたたかいの……ちょうだい……?」
アルの息が止まった。
アルは、慌ててリュックから木のお椀を取り出し、大鍋の底に残っていた温かいスープをすくった。
手が震える。だが、今度は絶対に倒さないように、大切にお椀を女の子へ手渡した。
「あ、熱いから……フーフーしてね……!」
女の子は、小さなお手でお椀を受け取ると、そっとお椀に唇をつけた。
ズズッ……。
一口。
その瞬間、女の子の小さな身体が、ポッと朱に染まった。
「……あ……っ!」
女の子の瞳に、ポロポロと涙が溢れ出した。
でも、それは恐怖の涙ではなかった。
「あたたかい……っ! 甘いよぉ……っ! すごく、美味しいよぉぉっ!!」
女の子は、お椀にしがみつくようにして、夢中でスープを飲み干した。
そして、空になったお椀を胸に抱きしめ、アルに向かって――世界で一番輝く、最高の笑顔を見せたのだ。
「お兄ちゃん、ありがとう! 私……生き返ったみたいっ!」
その笑顔を見た瞬間。
アルの胸の奥底で、死にかけていた『炉』の火が、ドッ……! と爆発的な熱を取り戻した。
「あ……」
アルの目から、再び涙が溢れ出た。
今度は、悲しみの涙ではない。
(届いた……! 僕のスープの熱が……届いたんだっ!!)
カルムが、ニッと満足そうに八重歯を見せて笑った。
エレナも、胸に手を当て、深く安堵の息を吐き出した。
女の子は、スープで満たされたお腹を抱え、何度もアルにお礼を言いながら、温かな余韻とともにガレアの街へと走って帰っていった。
彼女の胸の中には、もう二度と消えない「本当の体温の記憶」が灯っていた。
アルは、立ち上がり、夕陽に染まる広大な荒野を見つめた。
世界は広い。
そして、神の冷たいルールによって、思った以上に冷たく、絶望に満ちていた。
でも――。
「どんなに冷たい世界でも……冷え切った心でも」
アルは、黒鉄の包丁を固く握り締めた。
「温かいスープの熱は……絶対に、人の心を溶かすことができる!」
アルの漆黒の瞳に、迷いは消え去っていた。
「行こう、カルム! エレナさん!」
アルは、エプロンの涙を拭い、仲間たちに向かって力強く微笑んだ。
「世界中の冷たさを……僕たちの包丁とスープで、全部温めてみせるからッ!!」
「おうッ! その意気だ、アルッ!!」
「うむ。どこまでも共に行こう、私たちのコック長!」
広大な無律荒野の夜空に、小さな三人の足音が、どこまでも強く、高く響き渡っていった。




