第15話:スラムの旅立ち
一、 朝焼けのスラムと最後の見送り
黒鉄の街、第十三スラム街に、静かな朝が訪れていた。
かつてこの場所に満ちていたのは、上層の工場群が吐き出す赤黒い煤煙と、油交じりの濁った泥水の臭い、そして明日をも知れぬ住民たちの死に瀕した沈黙だけであった。
しかし、いま、巨大な煙突の合間から差し込む朝日(初日の出)の黄金色の光は、生まれ変わったスラム街を穏やかに照らし出していた。
街の真ん中に建てられた『食堂 アルとカルム』の前に、何百人ものスラムの住民が集まっていた。
「アル様……本当に、行っちまうんだな……」
巨大な鉄パイプを抱えたボリスが、その熊のような巨体を小さく丸め、ボロボロと大粒の涙を流しながら鼻をグスグスと鳴らしていた。彼の手ろ、昨日アルから手ほどきを受けたばかりの「大鍋の火加減」の熱が、まだ微かに残っている。
「うん。ボリスさん」
アルは、新しくあて布が縫い付けられた大きめのエプロンをキュッと結び直し、背中に仕込み道具が詰まった大きなリュックを背負って微笑んだ。その腰には、神の理不尽すら解体する漆黒の『黒鉄の包丁』が静かに収まっている。
「僕たちは、このスラム街の外へ行かなきゃいけないんだ。神様がこの世界全体にかけた冷たいルールを解体して……世界中のどこにいる人たちも、みんなが温かいご飯を食べられるようにするためにね」
アルの言葉に、住民たちは誰も引き留めることができなかった。
彼らは知っている。この小さな少年が、自分たちの命を救い、この死に体だったスラム街に「温かいスープ」と「生きる喜び」をもたらしてくれた、真の救世主であることを。
「おいおい、ボリス。朝っぱらからそんな泣きっつら見せるんじゃねぇよ。せっかく綺麗に作った食堂が台無しだろ」
カルムが、補修された分厚いロングコートを羽織り、アルの数倍はあろうかという巨大な旅の荷物を片手で軽々と担ぎ上げながら、呆れたように笑った。赤銅色の髪が朝風に揺れ、その八重歯が光る。
「カルムのアニキ……ッ! だってよぉ、寂しいじゃねぇかッ! アル様やアニキがいなくなったら、俺たち……」
「馬鹿野郎」
カルムはボリスの肩を、バシッと力強く叩いた。
「お前らには、俺とアルが叩き込んだ『スープの作り方』と『火加減』があるだろ。形だけ真似したって美味ぇもんは作れねぇが、お前らはもう知ってんだ。誰かを想ってメシを作るってことが、どういうことかな」
カルムの言葉に、ボリスはハッと息を呑み、力強く何度も頷いた。
「おうっ! 分かってます! 俺たち……絶対にこの食堂を守ります! スラムの子供たちを二度と腹減らせて泣かせたりしやせんッ!」
二、 託された大鍋と小さなお匙
「アル兄ちゃん……ッ! カルムのお兄ちゃん……ッ!」
人込みをかき分けて飛び出してきたのは、トニとマリアだった。
ふたりは涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭いもせず、アルの腰にしがみついて声を上げて泣き出した。
「行かないでよぅ……っ! ずっとここにいてよぅ……っ!」
「マリア、アル兄ちゃんのスープがなくなったら、やだよぉぉっ!」
小さく震える子供たちの肩。
アルは、そっと膝をつき、ふたりをその小さな腕でギュッと優しく抱きしめた。
「トニ、マリア。泣かないで」
アルは、ポケットから二つの小さな木彫りの『お匙』を取り出し、ふたりの手のひらにそっと握らせた。アルが夜な夜なナイフで木の枝を削り、丁寧に磨き上げて作った手製のお匙だ。
「これは……?」
トニが涙目を丸くする。
「僕のお守りだよ」
アルは、ふたりの顔をまっすぐに見つめた。
「トニ、マリア。僕が教えたスープの作り方、覚えてる?」
「うん……っ。お肉の筋を切って、弱火でじっくりお出汁をとるんだよね……っ」
「アクを……丁寧にとるの……っ」
「そう。すごく上手だったよ」
アルは優しく微笑み、ふたりの頭を撫でた。
「大きくなったら、今度は二人がスラムの新しいみんなに、温かいスープを作ってあげてね。お腹が空いて泣いてる子がいたら、そのお匙で、温かいスープを飲ませてあげるんだよ」
「アル兄ちゃん……っ!」
「僕たちは、絶対に帰ってくるから。世界中を温かいスープでいっぱいにしたら……一番最初に、このスラム街のこの食堂に帰ってくるからね」
「うん……ッ! 約束だよッ! 絶対に帰ってきてね、アル兄ちゃんッ!!」
トニとマリアは、溢れる涙を拭い、手の中のお匙を宝物のように抱きしめた。
その様子を、白銀の甲冑を纏ったエレナが、静かな感動を瞳に宿しながら見つめていた。
彼女の手には、布で厳重に巻かれた『星霜の聖剣』が握られている。
(神よ……見ているか)
エレナは、心の中で天空へ向けて呟いた。
(君が『バグ』と切り捨て、存在価値のないゴミと決めつけたこのスラム街に……今、これほどまでに気高く、美しき『人の体温』が満ちている。……私はこの光芒を、私の全存在を賭けて護り抜く)
「アル殿、カルム殿。準備は整った。……行こうか」
エレナの凛とした声に、アルとカルムは頷いた。
三、 黒鉄の鉄門と響く歓声
広場を抜け、スラム街の最外郭へと続く不気味で巨大な『黒鉄の大鉄門』へ向かって、三人は歩みを進めた。
この大鉄門は、上層の管理区域と最下層のスラム街を完全に隔離するために神の使徒たちが建設した、重厚な鋼鉄の扉だ。かつてはスラムの住人たちが外の世界(地上の荒野)へ逃げ出さないよう、重い鎖で封印されていた。
しかし今、ボリスたち元自警団の男たちが総出で巨大な滑車を回し、ギギギギギ……とけたたましい金属音を立てて、その重い鉄門を持ち上げていた。
「押せぇぇぇっ! アル様たちの旅立ちの道を開けぇぇぇっ!!」
ボリスの怒号とともに、何十人もの男たちが太い筋肉を躍動させ、封印されていた鉄門がゆっくりと持ち上がっていく。
門の隙間から差し込んできたのは――黒鉄の街の煤煙など一切存在しない、外の世界の「本物の風」。
潮の香りと、広大な土の匂いを孕んだ、新しく、どこまでも自由な風であった。
「うわぁ……っ」
アルは、エプロンを風になびかせながら、開いていく扉の向こう側を見つめた。
「すごい……。空が……あんなに広いんだ……」
「へっ、驚くのはまだ早いぜ、アル」
カルムがニッと八重歯を見せて、アルの隣に並び立った。
「この先にはよ、スラムの何千倍もでけぇ海や、山や、見たこともねぇ街がたくさんあんだ。もちろん……激ウマの食材もな!」
「激ウマの食材……!」
アルの瞳が、料理人としての血を騒がせて輝いた。
「気をつけるのだぞ、二人とも」
エレナが二人と肩を並べ、慎重な面持ちで続けた。
「鉄門の向こうに広がるのは、神の直接管理を外れた『無律荒野』。凶悪な魔獣や、教国の刺客、そして使徒の追撃が待ち受けている。……だが、我が剣は君たちの不滅の盾だ」
「おうよ! 盾と火力、そして世界一のコック長! 俺たちのチームに敵なんていねぇよ!」
カルムが豪快に笑い、右拳を固く握り締めた。
鉄門が完全に上がりきった。
後ろを振り返ると、何百人ものスラムの住民たちが、帽子や布を高く振り上げながら、割れんばかりの大歓声を上げていた。
「いってらっしゃい、アル様ッ!」
「カルム、アル様をしっかり守れよーっ!」
「騎士様、気を付けてッ!」
「アル兄ちゃぁぁぁん! 美味しいスープ作ってねぇぇぇっ!!」
住民たちの歓声と、トニやマリアの叫び声が、朝の空へと高く響き渡る。
アルは、大きく深く息を吸い込み、スラムのみんなに向かって、最高の笑顔で大きく手を振り返した。
「いってきますッ!! みんな、ご飯しっかり食べてねーっ!!」
四、 泥の街を背に踏み出す一歩
ガシャンッ――――……。
三人が大鉄門をくぐり抜けた瞬間、背後で重い鉄の扉が静かに下り、黒鉄の街との境界線が閉じられた。
一瞬の静寂。
アルは、足を止め、ゆっくりと振り返った。
視界に広がるのは、すり鉢状に建造された巨大な工業都市『黒鉄の街』の全貌であった。
無数の巨大な煙突、複雑に絡み合う蒸気パイプ、上層の煌びやかな建造物、そしてその最下層にひっそりと佇む、第十三スラム街。
かつて、自分はあのスラムのゴミ溜めで生まれ、誰からも必要とされず、「空箱」と蔑まれて生き暴れていた。
泥水を飲み、カビの生えたパンをかじり、ただ死を待つだけだった日々。
(でも……僕は、もう空箱じゃない)
アルは、胸の前にそっと手を置いた。
そこには、神の冷たい計算式を打ち破る、命の熱『炉』が朗々と燃え盛っている。
(僕には……黒鉄の包丁がある。カルムやエレナさん、スラムのみんながいる。……僕は、料理人だ!)
アルの漆黒の瞳に、太陽の光が反射し、黄金の真理の輝きが静かに宿った。
「アル? どうした、名残惜しいか?」
カルムが立ち止まり、不思議そうに振り返った。
「ううん」
アルは、首を横に振った。
「僕、決めたんだ。……世界中を旅して、どんなに冷たい場所でも、温かいスープを届ける。そして、すべての旅が終わったら……絶対に、あのスラムの食堂に帰ってくるよ」
「へっ……当たり前だろ」
カルムは満足そうに鼻を鳴らし、カルムの肩をポンと叩いた。
「その時は、あの食堂を世界一デカい『大料亭』に改造してやろうぜ。ボリスの奴に、特大の看板を作らせてな!」
「ふふっ、それ、すごくいいね!」
「うむ。私も、その時は教国の聖騎士を辞め、君たちの食堂の用心棒兼給仕として働こう」
エレナが真顔で言った。
「おいおい騎士様、お前がウエイターやったら客が緊張してメシどころじゃなくなんだろ!」
「何だと喧嘩屋!? 私はこれでも教国で最も所作が美しいと称えられていたのだぞ!」
いつものような、賑やかで温かな掛け合い。
アルは、二人の背中を見つめながら、心からの幸福感に満たされていた。
さようなら、僕の生まれた泥の街。
ありがとう、僕に「体温」を教えてくれた場所。
アルは、一度だけ深く黒鉄の街にお辞儀をすると、クルリと身を翻し、前方の広い地平線へと向かって、力強く第一歩を踏み出した。
五、 西へ続く荒野と新しい風
三人の目の前に広がるのは、どこまでもどこまでも続く、見渡す限りの赤茶けた『無律荒野』であった。
頭上には、澄み切った青空と、眩い太陽。
吹き抜ける風は、黒鉄の街の煤煙とは完全に異なり、どこか遠くの海や森林の香りを運んでくる。
「うわぁ……っ! すごい! 空気があたたかいよ、カルム!」
アルは、両手を大きく広げて、外の世界の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「おう! これが本当の『外』だ! 煙臭くねぇ空気ってのは、こんなに美味ぇもんなんだな!」
カルムも、コートを翻しながら、珍しく子供のように目を輝かせて周囲を見回している。
「ここから西へ数日歩けば、最初の目的地である旧交易都市『ガレア』の廃墟へ辿り着く」
エレナが、腰の革袋から古びた羊皮紙の地図を取り出し、指でなぞりながら説明した。
「ガレアを抜ければ、教国ルミナの領土へと至る。だが……油断は禁物だ。この荒野には、神の管理を脱した野生の大型魔獣『荒野の暴食者』や、浮浪盗賊団が徘徊している」
「ヘッ! 荒野の暴食者だぁ?」
カルムが、両拳を固く握り合わせ、ボッと赤い魔力炎を燃え上がらせた。
「上等じゃねぇか! 襲ってきたら、片っ端から叩きのめして、アルの最高の『食材』にしてやるぜ!」
「ふふっ、荒野の魔獣のお肉かぁ……。どんな味がするのかな? 『真理の目』で下ごしらえしたら、すごくジューシーな肉汁が出そうだね!」
アルも、黒鉄の包丁の柄を撫でながら、楽しそうに微笑んだ。
「……君たちは、本当に逞しいな」
エレナは呆れたように吐き捨てたが、その口元には、かつての冷酷な聖騎士長には見られなかった、温かな笑みが浮かんでいた。
パチ、パチ、パチッ……。
夕刻、荒野の街道の脇で、アルたちは小さな野営の火を焚いた。
アルがリュックから取り出したのは、昨日スラムでみんなで作った「スープの保存食(乾燥マナ肉と根菜の固形粉末)」。
お湯を沸かした小さな鉄鍋の中に、その固形粉末を一つ投入すると――。
シュワァァァァァッ……!
一瞬にして、あのスラム街で人々を笑顔にした、芳醇で温かなカニ肉と根菜のスープの香りが、荒野の静寂の中へ広がっていった。
「わぁ……本当に、簡単においしいスープができた!」
アルが目を輝かせる。
「うむ……素晴らしい。これならば、長旅の途中であっても、常に命の熱を補給できるな」
エレナもお椀を受け取り、嬉しそうにフーフーと息を吹きかけている。
「ズズッ……う、美味ぇ……! スラムで食ったあの味が、そのまま再現されてやがる!」
カルムが、大口でスープを飲み干し、幸せそうな吐息をついた。
荒野の夜空には、黒鉄の街では決して見ることができなかった、吸い込まれそうなほどの満天の星々が瞬いていた。
パチパチとはぜる焚き火の火。
一杯の温かいスープ。
そして、隣で笑い合う最高の仲間たち。
「……僕たちの旅は、まだ始まったばかりだね」
アルは、満天の星空を見上げながら、そっと呟いた。
「おう。神様の冷てぇルールを、片っ端から下ごしらえしてやろうぜ!」
「うむ。私が、君たちの厨房をどこまでも護り抜こう」
三人で交わす、温かな約束。
神が作った冷たい世界の計算式を解体し、すべての人々に温かな食卓を取り戻すための、偉大なる創生の大冒険。
スラム街から飛び出した少年料理人と仲間たちの足音は、果てしない明日の空へと、どこまでも力強く響いていくのであった。




