第140話:防衛線の限界
一、 圧殺の重力場、果てなき軍勢
ズガァァァァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!
アガルタの地上防衛線に、耳を劈くような激しい爆発音が連続して響き渡った。
上空の『星喰いの楔』から放射される紫色の重力異常波紋が、アガルタの青き結界の内部にまで容赦なく降り注ぎ、空間そのものを目に見えない巨大な万力で押し潰そうとしている。
「……ぐ……ガハッ……! 息が……吸えねェ……!」
「足が……岩みてぇに重いッ……! 動け……動けよ俺の足ィッ!」
レジスタンスの戦士たちが、土嚢の陰で血を吐きながら呻き声を上げた。
通常の数十倍に達する局地的な重力異常。それは単に「体が重くなる」という次元の話ではない。
心臓が血液を頭へ送るためのポンプ機能が悲鳴を上げ、脳は酸欠状態に陥る。肺は自身の肋骨の重みで圧迫され、一呼吸するたびに針で刺されたような激痛が走る。
ただ立っているだけで、常人の致死量を超えるダメージが蓄積していく地獄の環境。
だが、その絶望的な重力場の中で、彼らは休むことすら許されていなかった。
『……異端者ノ抵抗ヲ確認。……第三陣、殲滅フォーメーション・アルファニ移行。……目標、青キ結界ノ完全破壊』
空を埋め尽くすほどの数万の光の点——天門から降下してきた『上位神造兵器』の軍団が、機械的な音声と共に、雨あられのように光の長槍を投擲してくる。
彼らはマナによって構成された半霊体に近い存在であるため、この異常重力の影響をほとんど受けることなく、本来の速度と破壊力でアガルタの防衛線へ突撃を繰り返していた。
「……撃てェェェェッ!! 一歩も通すなァァァッ!」
重力で膝を突きそうになりながらも、レジスタンスの隊長が魔導銃の引き金を引く。
青き結界の内側から放たれる反撃の魔力弾が、上位天使の数体を撃ち落とす。しかし、倒れた敵の隙間を埋めるように、すぐさま十体、二十体の新たな天使が上空から降下してくる。
倒しても、倒しても、終わりが見えない。
使徒エノクがアガルタを確実に潰すために用意した軍勢の数は、地上の残存勢力だけで凌ぎ切れるような規模を遥かに超えていたのだ。
二、 枯渇する力と、泥に塗れた意志
「……アル殿! 右翼の敵陣、前衛が手薄になっている! オルタにそこを崩させろ!」
最前線で大盾を構えるエレナ・ルミナスが、結界に激突する無数の光の槍を強引に弾き返しながら、背後のアルへ向けて叫んだ。
「……わかってる! オルタ、右の敵の足元にある影ッ!」
アルが、鉛のように重い身体を引きずりながら、黄金に輝く【真理の目】で敵の陣形の僅かな綻び(スジ)を見極める。
シュンッ!!
アルの指示と同時に、進化した漆黒の魔狼オルタが、アガルタの地面に落ちた瓦礫の影へと沈み込む。そして、右翼に布陣していた上位天使の背後の影から唐突に飛び出し、緋色の炎を纏った牙で敵の首筋を噛み砕いた。
『影渡り』による神出鬼没の奇襲。
オルタの活躍によって右翼の陣形が崩れ、そこにレジスタンスの残存火力が叩き込まれる。
見事な連携だった。
カルムという絶対の火力が不在の中、アルの『真理の目』による完璧な指揮と、エレナの『不滅の盾』、そしてオルタの『機動力』が奇跡的なバランスを保ち、防衛線は数十分もの間、崩壊を免れていた。
しかし。
「……ガハッ……! ゲボォッ……!」
戦果を上げた直後、魔導銃を撃っていた兵士の一人が、突如として口から大量の血を吐き出し、その場に崩れ落ちた。
「……おい! どうした! しっかりしろ!」
隣にいた仲間が駆け寄るが、倒れた兵士の白目は剥き、鼻や耳からもツツーッと血が流れ出していた。
敵の攻撃を受けたわけではない。
異常重力に耐えながら無理なマナの放出を続けた結果、全身の血管が重圧に耐えきれずに内側から破裂してしまったのだ。
「……ダメだ……! 俺たちの身体が……もう、重力に限界だ……!」
「武器のエネルギーも底を突いた……! もう、撃てねぇ……」
一人、また一人と、レジスタンスの兵士たちが重力と疲労の前に膝を折っていく。
精神力(意志)でどうにかなる限界を、人間の生身の肉体はとうに超えてしまっていた。
アルが作った『復興スープ』の効力も、この異常な環境下での激しい消耗によって、完全に底を突きかけていた。
「……みんな……ッ!」
アルが、倒れていく仲間たちを見て悲痛な声を上げる。
彼自身も、マナを持たない小柄な肉体に数十倍の重力を受けており、立っていることすら奇跡に近い状態だった。膝はガクガクと震え、古びた黒鉄の包丁を握る手の感覚は、すでに失われている。
三、 不滅の盾、その果てにあるもの
『……障害物ノ機能低下ヲ確認。……コレヨリ、最前線ノ「物理防壁」ノ完全破壊プロセスニ移行スル』
上空を埋め尽くす天使の軍勢が、戦況の変化を冷徹なシステム音声で共有した。
彼らは無数の雑兵を後退させると、代わりに、全高十メートルを超える重装甲の『神殿殲滅兵』と呼ばれる巨大な機械人形を十体、最前線へと投下してきた。
ズドォォォォォォンッ!!!!
巨大な質量がアガルタの結界のすぐ外側に着地し、大地を激しく揺らす。
神殿殲滅兵たちは、両腕に装備された巨大な破城槌に極大の神聖マナを充填し、結界のド真ん中で盾を構えるエレナへ向けて、一斉に狙いを定めた。
「……エレナさん! 危ないッ! あれは防ぎきれないよ!」
アルが、真理の目で敵の武器に込められた異常なマナの密度(スジの太さ)を読み取り、血相を変えて叫んだ。
あの一撃は、カルムの修復した青き結界の『外壁』を強引に貫通し、内側にいるエレナを直接粉砕するだけの物理的な破壊力を秘めている。
「……下がるな、アル殿! みんなも、私の背中から絶対に離れるなッ!」
エレナは、アルの警告を聞いても、一歩も後ろへ下がろうとはしなかった。
ここで自分が退けば、背後にいる倒れた兵士たちや、避難民たち、そして何よりアルが、破城槌の衝撃波で挽肉になってしまう。
「……我が名はエレナ・ルミナス! かつて教国の神に誓いを立て、今は人間の未来を護るために盾を取る者! ……神の鉄槌ごときで、私の魂(盾)が砕けるものかァァァァッ!」
エレナは、自身の生命力そのものを黄金の聖光へと変換し、すでにヒビだらけとなっている大盾へ、オーバードライブの極限出力を叩き込んだ。
『……目標、排除』
十体の神殿殲滅兵が、一斉に破城槌を打ち出した。
ズガァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!!!!!
十本の巨大な神造の杭が、アガルタの結界を局所的に貫通し、エレナの大盾へと真っ向から激突した。
その瞬間、大気が爆発し、強烈な衝撃波がアガルタの地上口全体を吹き飛ばすかのように荒れ狂った。
「……ガ……ァァァァァァァァァァァァッ!!!!」
エレナの絶叫が響き渡る。
彼女の足元の黒曜石の大地が数十メートルにわたってクレーター状に陥没し、彼女自身の両腕の骨が、内部から破裂するような凄まじい音を立てて砕け散った。
ピキィィィィンッ……! ガシャンッ!!!!
そして。
彼女が誇りとし、どんな絶望の前でも決して手放さなかった『不滅の盾』が。
限界を超えた物理的圧力とマナの飽和によって、ついに中心から真っ二つに裂け、無数の破片となって空中に砕け散ったのだ。
「……エ……レナ……さん……?」
アルの目の前で、スローモーションのように盾が砕け、その背後から、血みどろになった女騎士の身体が、力なく後方へと吹き飛ばされていく。
「……エレナさんッ!!!!」
アルは、重力に抗って必死に手を伸ばし、吹き飛んできたエレナの身体を抱き止めた。
だが、その勢いを殺しきれず、二人揃って瓦礫の山へと激しく転がった。
「……ガハッ……! ア、アル……殿……」
エレナは、意識が朦朧とする中で、砕けた両腕を力なく投げ出しながら、血まみれの顔でアルを見上げた。
「……申し訳……ない。……私の……盾が……。カルム殿が……帰ってくるまで……護り抜くと……誓ったのに……」
その碧眼から、悔し涙が一筋こぼれ落ちる。
「……喋らないで! エレナさんは、僕たちを十分すぎるほど守ってくれたよッ!」
アルは、ボロボロと涙をこぼしながら、エレナの冷たくなっていく手を必死に握りしめた。
四、 漆黒の魔狼の献身と深手
防衛線の要であったエレナの盾が完全に粉砕されたことで、アガルタの入り口は無防備な状態となった。
カルムが残した青き結界はまだ機能しているものの、結界の外から放たれる質量攻撃や、結界をすり抜ける重力異常を押し留める『物理的な壁』が消失したのだ。
『……防衛機構ノ無力化ヲ確認。……全軍、アガルタ内部ヘノ侵攻ヲ開始セヨ』
空で待機していた数万の天使軍団が、結界の限界点(綻び)へ向けて一斉に降下を開始する。
結界そのものを質量と数の暴力で押し潰し、内部の人間を皆殺しにするための最終フェーズ。
「……させないッ! オルタッ!!」
アルが、倒れたエレナを背中に庇いながら、叫んだ。
『ガァァァァァァァァァァァァァッ!!!!』
アルの叫びに呼応し、進化した漆黒の魔狼オルタが、アガルタの入り口を塞ぐように巨大な体躯を躍り出させた。
オルタの全身の緋色の紋様が限界まで発光し、その口からカルムの炎に似た『指向性の極大炎弾』が上空へ向けて連続で放たれる。
ズドォォォン! バガァァァンッ!!
オルタの放つ炎牙が、降下してくる天使たちの群れを空中で次々と焼き払い、爆散させていく。
だが。
『……目標、漆黒ノ獣。……脅威度A。……一斉射撃ヲ許可』
オルタが空へ向かって炎を放ったその硬直の隙を、機械のように冷徹な敵の戦術は見逃さなかった。
上空に展開した数百体の上位天使が、一斉に光の長槍をオルタへ向けて投擲したのだ。
「……オルタ! 避けてッ! 影に潜って!」
アルが悲鳴を上げる。
普段のオルタであれば、『影渡り』を使って瞬時にその場から姿を消し、無傷で回避できただろう。
だが、今のオルタは、背後にいるアルと、倒れたエレナ、そして動けなくなったレジスタンスの戦士たちを【庇う位置】に立っていた。
ここで自分が影に逃げれば、光の槍の雨は、そのままアルたちを串刺しにしてしまう。
『……グルゥゥゥゥッ!!!!』
オルタは、逃げなかった。
自らの巨大な漆黒の身体を盾のように大きく広げ、前足で大地を強く踏み締めると、降り注ぐ数百の光の槍を、その身ひとつで真っ向から受け止めたのだ。
ズドスッ! ズシャァァァァンッ!!!!
「……ッ!!??」
光の槍が、オルタの強靭な毛皮を貫き、太い四肢を抉り、背中の緋色の紋様を無残に引き裂く。
神聖マナの灼熱が、オルタの体内で爆発し、漆黒の血がアガルタの大地に激しく噴き出した。
「……オ、オルタァァァァァァァッ!!!!」
アルの絶叫が響く。
『……クゥ……ン……』
オルタは、全身に数十本もの光の槍を突き立てられたまま、一度だけアルの方を振り返り、安心させるように優しく鳴いた。
そして、その巨大な身体をグラグラと揺らし、ついに限界を迎えてズズン……と重い音を立ててその場に倒れ伏してしまった。
進化を果たした最強の魔狼ですら、数万の軍勢の力と、愛する者を庇うという『自己犠牲』の前には、抗いきれなかったのだ。
五、 料理人の包丁、届かない理
エレナが倒れ。
オルタが血の海に沈んだ。
レジスタンスの兵士たちも、異常重力に耐えきれずに全員が意識を失い、あるいは息絶えて地面に転がっている。
アガルタの地上口で、まだ意識を保ち、立っているのは。
重力に押し潰されそうになりながらも、両手で黒鉄の包丁を構え、膝をガクガクと震わせている、マナを持たない少年料理人・アルただ一人となってしまった。
『……残存勢力、一名。……非戦闘員ト推測。……処理セヨ』
上空から、十体の上位天使がゆっくりと降下し、アルを半円状に包囲した。
彼らの手には、オルタを貫いたのと同じ、無慈悲な光の長槍が握られている。
「……ハァ……ッ……ハァ……ッ……」
アルの息は荒く、視界は重力による脳血流の低下で真っ赤に染まっていた。
だが、彼の漆黒の瞳の奥で、黄金の【真理の目】だけは、決してその輝きを失ってはいなかった。
(……視える。……あいつらの槍の構え、踏み込みの角度、マナの流れるスジ……。……全部、完璧に視えてる……!)
アルの眼には、上位天使たちの次の動きが、コマ送りのように手に取るように解っていた。
右から来る天使の脇腹に隙がある。
左の天使の槍の根元には、マナの接続が甘い部分がある。
そこを突けば、確実に敵を無力化できる。
理は、完全に見極めているのだ。
「……ウオォォォォォォォッ!!」
アルは、決死の覚悟で前へ踏み出し、右から迫る上位天使の『スジ』へ向けて、ボロボロの包丁を突き出した。
完璧なタイミング。完璧な角度。
キンッ…………。
だが。
アルの包丁の刃先が上位天使の装甲に触れた瞬間、響いたのは、硬い金属同士が弾き合う、虚しくも残酷な音であった。
「……え……?」
アルの包丁は、敵の装甲の表面を数ミリ削っただけで、完全に弾き返されてしまったのだ。
『理』は見えていても、それを断ち切るための【物理的な力(火力)】が、アルには圧倒的に足りなかった。
カルムの炎がなければ。エレナの突進力がなければ。
マナを持たないただの子供の腕力では、神の金属を解体することなど、絶対に不可能なのだ。
バキィッ!!
「……ガハァッ!!」
上位天使が、弾き返されて体勢を崩したアルの腹部へ、無慈悲な回し蹴りを叩き込んだ。
アルの小さな身体が、ボールのように軽々と宙を舞い、数十メートル後方の瓦礫の山へと激突した。
「……ゴホッ……! ゲボォッ……!」
アルは、肺の中の空気を全て吐き出し、口から血を流して地面を転がった。
折れた肋骨が内臓に突き刺さるような激痛。
包丁を握っていた右手の指は不自然な方向に曲がり、黒鉄の包丁は遥か遠くへ転がっていってしまった。
(……痛い……。……身体が……動かない……)
アルは、霞む視界の中で、這いつくばって包丁へ手を伸ばそうとした。
だが、重力異常の負荷と絶望的なダメージが、彼の身体から一切の自由を奪っていた。
六、 決壊する防衛線、それでも消えない火
『……目標の完全無力化を確認。……アガルタへの侵攻ルート、確保完了』
アルを蹴り飛ばした上位天使たちが、もはや倒れた少年には目もくれず、完全に無防備となったアガルタの青き結界(カルムが残した防壁)へ向けて、一斉に光の槍を突き立て始めた。
バリバリバリバリッ……!
いかにカルムが地下の魔力炉を調律し、強固な結界を張ったとはいえ。
防衛する者が誰一人いなくなり、数万の軍勢が一点に物理的な攻撃を集中させ続ければ、やがて限界は訪れる。
結界の表面に巨大な亀裂が走り、今にもアガルタの地下都市へ向けて、神の軍勢が雪崩れ込もうとしていた。
防衛線の限界。
いや、完全なる崩壊。
「……ダメだ……。……みんなが……アガルタのみんなが、殺されちゃう……」
アルは、血の涙を流しながら、地面に爪を立てて必死に前へ進もうとした。
僕が守らなきゃ。エレナさんが命を懸けて繋いでくれた時間を。オルタが血を流して庇ってくれたこの場所を。
そして何より。
カルムが、絶対に世界を救って帰ってくると約束した、この温かい『居場所』を。
(……カルム……。ごめんね……。僕、最高の火力(相棒)がいないと……一人じゃ、何のお肉も切れなかったよ……)
絶望が、アルの心を黒く塗り潰そうとした。
天使たちの槍が、ついにアガルタの結界の最後の一枚をぶち破り、地下への通路が開かれようとした、まさにその瞬間だった。
トクンッ……。
アルの心臓の奥底で、不思議な温もりが脈打った。
(……『一人じゃ何のお肉も切れない』? ……バカ言え、シェフ)
幻聴だろうか。
それとも、魂の奥底で繋がっている【彼】の声だろうか。
(……お前がスジを見つけてくれたから、俺の火は真っ直ぐに飛べるんだ。……顔を上げろ、アル。……世界中のゴミ掃除は、もう終わったぜ)
「……え……?」
アルが、泥だらけの顔を僅かに上げた、その時。
頭上を覆い尽くし、世界を絶望の闇に沈めていた紫色の重力暗雲が。
まるで、巨大な見えない包丁によって下から上へ十文字に切り裂かれるように、一瞬にして真っ二つに割れたのだ。
そして、その暗雲の裂け目から。
絶望の空を完全に塗り替えるほどの、圧倒的で、苛烈で、どこまでも温かい【暗雲を突く紅い光】が、アガルタの戦場へ向けて一直線に降り注いできたのである。




