第134話:地上の混乱
一、 崩壊する世界軸と、狂乱する自然マナ
ゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!
それは、教国ルミナの数千年の歴史において、一度たりとも観測されたことのない狂気の天地異変であった。
使徒エノク、メリエル、バアルの三人が、カルムの放った【我流極奥義・赤蓮解躰】による概念解体を危険視し、地上を統括していた管理システムそのものを一時的に切り離して天空の居城『天門』へと退避したこと。
その副産物は、地上のあらゆる命にとって、あまりにも惨烈で理不尽な天災となって襲いかかっていた。
数千年の間、使徒たちが構築した「神の法則」によって力づくで固定され、抑え込まれていた自然マナの流動。
それが、重しを失ったことで一気に解き放たれ、地上全域で恐ろしい速度で過充填と暴走を引き起こし始めていたのだ。
ドカァァァァァァァンッ! ドゴォォォォォォンッ!
教国ルミナの各地で、大地が悲鳴を上げて脈打ち、地表の割れ目から赤黒い原始のマナと汚泥が間欠泉のように噴き出す。
空を見上げれば、昼だというのに太陽の光はすっぽりと遮られ、紫と鉛色が入り混じった不気味な暗雲が渦を巻き、激しい紫電が雷鳴と共に地表へ降り注いでいた。
「……な、なんだ……! 一体何が起きてやがるんだ!?」
「空が……! 大地が……壊れていく……!」
混乱は、アガルタ周辺だけに留まらなかった。
かつてカルムやアルが生きていた最下層のスラム街では、制御を失った生活用マナラインが逆流して爆発を起こし、老朽化した石造りの建物が次々と崩落。行き場を失った貧民たちが、悲鳴を上げて逃げ惑う。
交易の港町アクアリアでは、狂乱した自然マナの引力によって潮位が数十メートルも跳ね上がり、巨大な津波となって波止場を飲み込んでいた。
さらに、森や山に棲んでいた野生の魔獣たちは、暴走するマナの毒気を吸い込んで目が血走り、狂乱状態となって人間たちの集落へと押し寄せていた。
「神様が……! 神様が俺たちを見捨てたんだァァァッ!」
「世界が終わる……! もうおしまいだッ!」
悲鳴、泣き声、暴動、そして絶望の叫び。
管理という名の温室で飼い慣らされていた人間たちは、神の法則という手枷足枷を外された瞬間、その自由の代償として『世界そのものの崩壊』という底なしの恐怖に突き落とされたのだ。
通信魔導具の画面は激しいノイズを発して次々と暗転し、都市と都市、集落と集落を繋いでいた情報の網は完全に寸断された。
地上は一瞬にして、孤立無援の暗黒時代へと逆戻りしてしまったのである。
二、 アガルタ防衛線の危機と、裁きの獅子の威容
そして、地上の人間たちの最後の希望であり、レジスタンスの最大拠点である地下都市『アガルタ』の地上入り口もまた、この世界的な混乱の波に呑み込まれていた。
ドズゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥンッ!!!!
地響きと共に、地上口を覆っていた全高数十メートルの防壁が、巨大な影によって内側から砕かれ、瓦礫となって吹き飛んだ。
煙幕の向こうから姿を現したのは、使徒たちが残していった最終殲滅機体——全高三十メートルを超える、三体の神造魔獣『裁きの獅子』。
白銀と黄金の装甲で覆われたその巨体は、使徒の管理を失ったことで、周囲に渦巻く暴走マナをその体内に無差別に吸い上げ、異常なまでの過熱状態を起こしていた。
背中の光の鬣は赤黒く変色し、その眼光は理性など破片も感じさせない、純粋な殺戮の狂気で満ち満ちている。
『……目標……アガルタ地下居住区……。……全生命体ノ消滅……実行……』
バチチチチチチチッ!
三体の『裁きの獅子』の口元に、暴走した自然マナが収縮され、黒紫色の極大熱線が充填されていく。
それが解き放たれれば、アガルタの地上口は跡形もなく消し飛び、地下に避難している何万人もの無辜の市民や子供たちが、一瞬にしてマグマの蒸気となって焼き尽くされるだろう。
「……させ……させるかァァァァァッ!! 【絶対守護障壁・過出力】ッ!!!!」
血みどろの姿となった女騎士、エレナ・ルミナスが、砕けかけた大盾を両手で掲げ、地を蹴った。
ズガァァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!
一筋の黒紫色の熱線が放たれ、エレナの展開した聖光の壁に激突する。
凄まじい衝撃波。
周囲の空気どころか、空間そのものが熱波で歪み、黒曜石の地面が瞬時に流体化して赤くドロドロに溶けていく。
「……ぐ……ガハッ……! ぐあぁぁぁぁぁぁぁっ……!」
エレナの口から、大量の鮮血が噴き出した。
熱線の圧倒的な質量と威力が、大盾を伝って彼女の全身の骨をミシミシと砕いていく。
白銀の甲冑は熱で赤熱し、彼女の皮膚を焼き焦がす激痛が襲う。
それでも、エレナの足は一歩も後ろへ下がろうとしなかった。
(……ここで……私が折れれば……背後の命が……アル殿が……ッ!)
彼女の背後には、負傷した兵士たちを必死に庇い、ボロボロの黒鉄の包丁を構えて敵を睨みつける少年料理人、アルの姿があった。
エレナにとって、この盾はただの鉄の板ではない。
カルムという修羅が全霊を懸けて帰ってくるための場所であり、アルという大切な相棒の命を繋ぐための、不滅の誓いそのものなのだ。
三、 混乱する人々と、途絶える通信
「……エレナさん! もうやめて、盾が砕けちゃうよッ!」
アルが、熱風に吹き飛ばされそうになりながらも大声で叫んだ。
彼の手にある【真理の目】は、絶望的な現実を完璧に捉えていた。
エレナの大盾の内部、マナを伝達するための幾何学模様(回路)はすでに熱で融解し、修復不可能なほどに破壊されている。
次の一撃を受ければ、大盾は粉々に砕け散り、エレナの身体は熱線の露となって消え去るだろう。
さらに、アガルタの地下防空壕からも、悲鳴と怒号が地上へ漏れ聞こえていた。
「……地上はどうなってるんだ!? 結界はどうした!?」
「空が……紫色の雲で覆われてる! 世界が終わるんだ!」
「逃げろ! どこへ逃げればいいんだ!?」
地下に隠れていた何千、何万という避難民たちが、地上の地響きと不気味な空の変貌にパニックを起こし、出口へと殺到していた。
アガルタを治めていたレジスタンスの指導者たちも、通信が途絶えたことで状況を把握できず、怒号を飛び交わせるばかり。
「……落ち着いてください! 地上にはエレナ様やアル君がいます! 踏み止まるのです!」
レジスタンスの兵士たちが必死に避難民を抑え込もうとするが、一度広がった『神の不存在による恐怖』は、伝染病のように人々の心を浸食していく。
「……神様がいなくなったら……俺たちはどうやって生きていけばいいんだよ!?」
誰かが叫んだその一言。
それこそが、この地上の混乱の真の正体であった。
奪われていた自由。押し付けられていた支配。
だが、人々はその理不尽な管理(神)の傘の下で「決められた死」を受け入れることで、思考を停止させ、安寧を得ていたのだ。
それが突然奪われ、自分たちの足で立ち、自分たちの手で命を守らねばならないという過酷な『自由の荒野』に放り出された時、人間は己の無力さに絶望し、混乱する。
「……神様なんて、最初から僕たちを助けてなんてくれなかったのに……!」
アルは、黒鉄の包丁を強く握り締め、悔しさに唇を噛み締め、血を滲ませた。
スラムでひもじさに震えていた時も、教国の兵士に親を奪われた時も、神様は一度だってパンひとつ、スープ一杯届けてはくれなかった。
僕たちを救ってくれたのは、いつだって冷たい雨の中で温かいスープを分かち合った仲間であり、不器用な拳で僕の前に立ち続けてくれたカルムだった。
「……神様に頼らなくたって……僕たちは、生きていけるんだッ!」
アルの魂の叫び。
だが、その小さな声は、裁きのアガルタを揺るがす『裁きの獅子』の不気味な咆哮によってかき消されてしまった。
四、 狂乱天使の爪痕と、立ち塞がる少女と料理人
ガルルルルルルルルッ……!
熱線を放ち終えた一番目の『裁きの獅子』が、赤く煮えたぎる前脚で大地を削りながら、エレナに向かって低く唸り声を上げた。
エレナは、大盾を地面に突き刺したまま、片膝を突いて激しく血を吐いている。腕は激しい火傷で黒く爛れ、もはや自力で立ち上がることすら困難な状態であった。
「……ハァ……ッ……ハァ……ッ。……まだだ……まだ……私は……」
エレナが、震える手で剣を抜こうとする。
だが、二番目の『裁きの獅子』が、その巨大な質量を持った前脚を、エレナの頭上から容赦なく振り下ろそうと持ち上げた。
「……エレナさんッ!!」
アルが、考えるよりも早く身体を動かしていた。
小さな身体。マナを持たない華奢な肉体。
だが、アルはボロボロの黒鉄の包丁を逆手に持ち、エレナと巨大な前脚の間に割り込むようにして立ちはだかったのだ。
「……アル殿……!? 馬鹿な、離れろッ! 君まで……ッ!」
エレナが血を吐きながら叫ぶ。
「……逃げないよ! 僕は、料理人だ!」
アルは、見上げるほど巨大な裁きの獅子の前脚——そこから放たれる圧倒的な質量の圧力と、暴走する狂乱マナの旋風に押し潰されそうになりながらも、その漆黒の瞳(真理の目)を極限まで見開いた。
アルの眼に映る世界。
それは、単なる「化け物の襲撃」ではなかった。
使徒の管理を失って狂乱するマナ。
黒黒と逆流する大地の脈(龍脈)。
そして、暴走したエネルギーを処理しきれずに、内部で摩擦を起こして破壊へと向かっている『裁きの獅子』の構造。
(……この化け物も……この空も……大地も……全部、悲鳴を上げてるんだ)
アルの【真理の目】は、食材の命の形を見極める能力。
それは言い換えれば、この世界のすべての万物が持っている『本来あるべき調和の姿』を見極める眼でもあった。
使徒たちの身勝手な支配と、唐突な放棄によって、世界そのものがバランスを崩し、酷い『熱病』にかかっている。
裁きの獅子の前脚に走る、過剰なマナの鬱滞。
そこは、過充填されたエネルギーが逃げ場を失い、破裂寸前になっている最も脆いポイントであった。
(……カルムのような『火力』は、僕にはない。……でも、僕には『包丁』がある……!)
アルは、振り下ろされる巨足の影の中で、恐怖を完全に抑え込み、自らの全神経を黒鉄の包丁の刃先へと集中させた。
「……ここだッ!!」
アルは、体重の全てを乗せ、自分の包丁の刃先を、裁きの獅子の前脚の【マナの鬱滞】へと、一ミクロンの狂いもなく突きたてた!
五、 カルムの模索と、地下深くの熱
その頃。
アガルタの地上口から数千メートル地下深く——この地下都市の全機能を支える巨大な『魔力炉』の間。
ドクンッ! ドクンッ! ドクンッ!
直径数十メートルにおよぶ古代の水晶球(リアクターの核)が、地上の狂乱マナの逆流を受けて不気味な紫色の光を放ち、激しく脈打っていた。
炉の周囲を囲む古代の制御陣は次々と焼き切れ、冷却用のアクア・マナは激しく沸騰して蒸気を吹き上げている。
「……チッ! 街のタフなシステムだと思ってたら、上からの狂い(暴走マナ)が直接流れ込んできてやがる……!」
リアクターの直前に立つカルムは、汗だくになりながら、生身の両腕を脈打つ水晶球へと押し当てていた。
彼の両腕の皮膚に刻まれた『赤蓮の紋様』から、真紅と緋色の【概念炎】が溢れ出し、崩壊しかけているリアクターの核を包み込むようにして必死に抑え込んでいた。
「……カルム様! ダメです、これ以上魔力を流し込んだら、リアクターがオーバーヒートしてアガルタごと吹っ飛びます!」
傍らで制御盤に張り付いていたレジスタンスの老技師が、青ざめた顔で叫ぶ。
「……うるせぇ! 黙って見てろ!」
カルムの黄金の左目(解体眼)が、リアクターの内部で狂乱するマナの暴風を凝視していた。
力任せに自分の炎をぶつければ、老技師の言う通り暴走に拍車がかかる。
だが、カルムの炎はただの熱ではない。
武神の孤島で手に入れた【理を見極め、解体する炎】。
(……混ざり合って暴れてる外のマナを……俺の火で一回『綺麗に炙って』、無駄な濁りを解体してやる……!)
カルムは、武神との真剣勝負で学んだ「浸透」の理を、リアクター全体へと応用しようとしていた。
激しい爆発を起こそうとする狂狂のマナの結節点へ、自身の赤蓮の炎を「包丁の刃」のように滑り込ませ、過剰なエネルギーだけを綺麗に切り離して外部へ逃がす。
極限の精密操作。
一ミクロンでも刃(炎)の角度が狂えば、リアクターは爆発し、自分もアガルタも全滅する。
「……ハァ……ッ……ハァ……ッ……! ……アル……エレナ……」
カルムの額から血のような汗が流れる。
地上から伝わってくる、凄まじい衝撃と激痛の気配。
アルとエレナが、命を削って地上で踏み止まっているのが、魂の繋がりを通じて痛いほど伝わってくる。
(……待ってろ……! 今、この狂った炉を……俺の火で完璧に調律(解体)してやる……! だから、それまで絶対に死ぬなよッ!!)
カルムの両腕の赤蓮の紋様が、かつてないほど高く、熱く輝き始めた。
六、 混沌の渦中で芽生える、小さき抵抗の萌芽
ズシャァァァァァァァァァァンッ!!!!
アガルタ地上口。
アルが投げ暴いた黒鉄の包丁が、裁きの獅子の前脚の【マナの鬱滞】に突き刺さった、その瞬間。
包丁そのものには、巨足を止める力などない。
しかし、アルの完璧な解体眼によって突かれた『鬱滞のポイント』は、過充填されていた暴走マナのエネルギーを一気に外部へ噴出させる【風穴】となったのだ。
パァァァァァァァンッ!
「……グガァァァァァァァッ!?」
裁きの獅子の前脚内部で、行き場を失った過剰マナが逆流し、内側から爆発を引き起こした!
三十メートルの巨獣が、自らの重みに耐えかねてバランスを崩し、激しい地響きと共に側倒していく。
「……な……ッ!?」
「あの小さな男の子が……包丁一本で、あのバケモノを倒した……!?」
崩れ落ちる防壁の陰で、固まって震えていた避難民たちや、負傷した兵士たちが、信じられないものを見るように目を見開いた。
アルは、反動で地上へ吹き飛ばされ、激しく受身を取りながらも、すぐに立ち上がってボロボロの包丁を引き抜いた。
彼の息は切れ、両腕は痺れて感覚がない。
だが、その瞳には、一歩も引かない絶大な覚悟が宿っていた。
「……みんな! 諦めちゃダメだ!」
アルは、転がりそうになりながらも、倒れたエレナの前に仁王立ちし、避難民たちへ向かって叫んだ。
「……世界が壊れそうでも、神様がいなくなっても……僕たちには、自分の足がある! 自分の手がある! ……冷えた体なら、僕が温かいスープで温めてあげる! 倒れそうなら、僕たちが背中を支えてあげる!」
アルの声は、地上の嵐の音にかき消されそうなほど小さかった。
だが、その声に含まれた『生命の温度』は、パニックを起こしていた人々の心に、確かに届いたのだ。
「……そうだ……。俺たちには、この子たちが作ってくれたスープがある……!」
「神様が助けてくれないなら……俺たち自身で、この子たちを守るんだよォッ!」
避難民の中から、数人の若い男たちが棍棒や作業用のつるはしを握り締め、アルの隣へと駆け寄ってきた。
一人、また一人。
絶望に震えていた者たちが、アルという小さな少年の立ち向かう姿に胸を打たれ、己の足で立ち上がり始めたのだ。
地上の混乱。神の不在。崩壊する世界。
その漆黒の闇の中で、人間たちが自らの意志で光を灯す【真の抵抗】の萌芽が、いま、静かに、しかし力強く芽吹き始めていた。




