第127話:傷だらけの拳
一、 暴力の権化、神殿騎士団長バルガス
ズズズズズズズズ…………ッ!!!!
裁きの谷の奥底から、土煙と血の匂いを巻き上げて現れたその男の歩みは、まるで巨大な岩盤がそのまま移動しているかのような、圧倒的で重苦しいプレッシャーを放っていた。
身長は優に二メートルを超え、はち切れんばかりに膨れ上がった鋼のような筋肉。上半身は裸で、その皮膚には数え切れないほどの刃の痕、魔法による火傷の痕が、まるで年輪のように深く刻み込まれている。
そして何より異様なのは、その両腕であった。
彼の両拳から肘にかけては、幾重にも巻かれたバンデージが赤黒く変色し、完全に皮膚と一体化してしまっている。それは、敵の血を浴び、自らの拳を砕き、治癒し、再び砕くという終わりのない暴力のサイクルを、何十年にもわたって繰り返してきた証であった。
「……教国最強の武闘派、神殿騎士団長バルガス……。異名は『傷だらけの拳』……」
背後で、エレナが大盾を杖代わりにして身体を支えながら、青ざめた顔でその名を絞り出した。
「……カルム殿、気をつけろ。奴は、これまでの使徒や天使のように『神の法則』に依存する者ではない。……自らの肉体を極限まで鍛え上げ、純粋な【暴力とマナの圧縮】だけで教国の裏の仕事(異端排除)を全て一人で片付けてきた、殺戮の権化だ」
「……へっ。暴力の権化ね」
カルムは、両腕の皮膚に刻まれた赤蓮の紋様に微かに熱を走らせながら、不敵な笑みを浮かべた。
かつてのカルムであれば、純粋な力と力のぶつかり合いを好むその姿勢に、激しい闘争心を燃やして真っ向から殴り合おうとしただろう。
だが、武神の孤島で【解体の理】を極めた今のカルムにとって、相手がどれほど絶対的な質量と暴力を誇ろうとも、それは『スジが見え見えの、不格好な肉の塊』にしか見えなかった。
「……ホォ……。天使どもを瞬殺したって聞いて、どんなバケモノかと思えば。……ずいぶんと細っこい、モヤシみたいなガキじゃねェか」
バルガスが、首の骨をゴキゴキと鳴らしながら、黄色く濁った瞳でカルムを舐め回すように見下ろした。
彼の口元には、獲物を前にした飢えた獣のような、下品で凶悪な笑みが張り付いている。
「……だが、俺は誰だろうと容赦はしねェ。神様に逆らうクズは、俺のこの拳で、肉片一つ残さずすり潰してやるのが、俺の『祈り』の形なんでなァッ!」
ダンッ!!!!
バルガスが、分厚い足底で黒曜石の大地を蹴り飛ばした。
その瞬間。
彼とカルムの間にあった数十メートルの空間の空気が、異常な圧縮によって目に見えるほどの『白い衝撃波の壁』となり、音速を超える速度でカルムへと襲いかかってきた。
二、 試食の時間、理を透過する目
「……カルムッ!」
アルが叫ぶ。
「……慌てんな、アル。こんな見え透いた力任せの風圧、避けるまでもない」
カルムは、一切の予備動作なく、右腕をスッと前に出した。
赤蓮の紋様から立ち上る、厚さ一ミクロン以下の『真紅と緋色の概念刃』。
シュパァァァァァァンッ!!!!
バルガスの足踏みだけで生み出された数十トンにも及ぶ衝撃波の壁が、カルムの刃に触れた瞬間、まるで薄い紙がカッターで裂かれるように左右に綺麗に真っ二つに分断された。
分断された衝撃波は、カルムの身体の左右を猛烈な突風となって通り抜け、後方の岩山を粉々に吹き飛ばす。
だが、カルムの髪の毛一本、アルの服の裾一つすらも、揺れることはなかった。
「……アァ? なんだ、今の奇術は。俺の拳圧を、どうやって消しやがった?」
バルガスが、訝しげに太い眉をひそめる。
「……消したんじゃねぇ。お前の力が流れていく『スジ』を、綺麗に左右に切り分けてやっただけだ」
カルムは、左腕の赤蓮の刃も展開し、両腕をだらりと下げた自然体のまま、背後のアルに声をかけた。
「……おい、シェフ。あのおっさんの肉、ずいぶんと筋張ってて硬そうだが……お前の眼なら、どこに包丁を入れればいいか、視えるか?」
アルは、カルムの言葉に、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
だが、すぐにその意味を理解し、泥だらけの顔に力強い笑みを浮かべ、両手で黒鉄の包丁をしっかりと握り直した。
「……うん。視えるよ、カルム」
アルの漆黒の瞳の奥で、微かに黄金色の光(真理の目)が明滅する。
マナを持たないアルだが、その『食材の理(命の形)』を見極める眼力は、カルムの解体眼のルーツであり、カルムと同等、あるいはそれ以上の精密さを誇っていた。
「……あの人の力は、すごく大きくて乱暴だけど……。力を出す前に、必ず『右の肩甲骨』から『腰の筋肉』にかけて、太い力の川が流れてる。……そこを断ち切れば、どんなに強い拳も、ただの重い腕の塊になるよッ!」
「……上等だ。……アルの指示通りに、極上の三枚おろしにしてやるぜッ!」
カルムが、大地を蹴る。
赤蓮の炎が爆発的な推進力を生み、カルムの身体は文字通り【流星】となってバルガスの懐へと突進した。
三、 爆縮の拳 vs 解体の概念刃
「……ナメやがって、クソガキがァァァァァッ!!!!」
バルガスが激昂し、右の拳を大上段に振りかぶった。
その瞬間。
アルが言った通り、バルガスの右の肩甲骨から腰にかけての巨大な筋肉群が、尋常ではない速度で収縮し、異常なまでのマナを吸い上げて【爆縮】を開始した。
バルガスの『傷だらけの拳』の正体。
それは、自らのマナを体外に放出するのではなく、筋肉組織の内部で限界まで圧縮・爆発(爆縮)させ、その反動エネルギーを100パーセント拳に乗せて放つ、自爆スレスレの究極の肉弾技であった。
だからこそ、彼の腕は常に自らのマナの爆縮によって皮膚が裂け、傷だらけで血に染まっているのだ。
「……死ねェェェェェェェェッ!!!!」
マナの爆縮によって赤熱したバルガスの巨大な右拳が、空間をねじ曲げながらカルムの頭部へと振り下ろされる。
直撃すれば、山一つが吹き飛ぶほどの絶対的な質量。
(……右肩甲骨から腰のライン。……スジは丸見えだぜッ!)
カルムの解体眼が、アルの言葉と完全にシンクロし、バルガスの体内で爆縮しようとしているマナの『力の結節点』を完璧に捉えた。
力と力の衝突ではない。
カルムは、迫り来る巨大な拳を真っ向から受け止めるのではなく、自らの身体を極限まで低く沈み込ませ、バルガスの脇の下へと滑り込んだ。
そして、右腕の『赤蓮の概念刃』を。
バルガスの右肩甲骨の下——マナの爆縮が最も激しく行われている『力の起点』へ向けて、下から上へと、優しく、滑らかに擦り上げた。
スゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ…………ッ!!!!
「……ア……?」
バルガスの口から、間の抜けた声が漏れた。
カルムの刃が、バルガスの分厚い鋼の筋肉を切り裂いた……のではない。
筋肉の内部で爆縮しようとしていた【マナの循環の因果】を、極薄の概念熱で綺麗に断ち切ったのだ。
パシュゥゥゥゥゥゥンッ!!!!
バルガスの右拳に込められていた、山を吹き飛ばすほどの絶対的な破壊力が。
マナの供給を断たれたことで、風船から空気が抜けるように一瞬にして霧散し、ただの「重い腕の落下」へと成り下がった。
ドズンッ。
威力のないバルガスの腕が、カルムの背中を軽く叩く。
「……な、なんだと……!? 俺の『爆縮』が……消えた……!?」
バルガスが驚愕に目を見開く中、カルムはすでに次の動作へと移行していた。
「……一つ、解体いたぜ」
カルムは、バルガスの右腕を無力化した勢いのまま、身体を回転させ、今度は左腕の刃を構えた。
四、 二人の厨房、完全なるシンクロ
「……カルム! 次は左足の太もも! そこから腰へ向かうスジが、すごく捻れてる!」
アルの声が、戦場に響き渡る。
アルの『真理の目』は、バルガスが右腕の威力を消されたことに焦り、無意識に左足で大地を蹴って体勢を立て直そうとする際の【微細な力の偏り】を、完璧に読み取っていた。
「……応よッ!!」
カルムは、アルの指示に一切の疑いを持たず、思考すら介さずに身体を反応させた。
(……俺の眼(解体眼)でも視える。……だが、アルの眼(真理の目)と合わせれば、コンマ数秒早く、確実に相手の理を捉えられる。……これが、俺たち二人の……【最高の厨房】だッ!)
カルムは、左腕の赤蓮の刃を、バルガスが踏み込もうとした左太ももの関節の隙間へ向けて、ピンポイントで突き入れた。
ザシュゥゥゥゥゥゥンッ!!!!
「……ガァァァァッ!?」
バルガスの左足の関節に流れていた力のベクトルが断ち切られ、彼を支えていた数十トンの筋力が一瞬にして空回りする。
体勢を完全に崩し、巨大な身体が前に大きくのめり込む。
「……クソがァァァァッ! チョコマカと、ハエみたいに……ッ!」
バルガスは、バランスを崩しながらも、残された左腕に全マナを爆縮させ、自らの身体ごとカルムに叩きつけるような『裏拳』を強引に放ってきた。
獣のような反射神経と、暴力への執着。
「……アルッ!」
「……首の付け根と、左脇腹の交差点!」
アルとカルムの呼吸が、寸分の狂いもなく一致する。
カルムは、迫り来る裏拳の破壊力を、後方へ跳躍することで間一髪かわすと同時に、空中で両腕の赤蓮の双刃を交差させた。
「……お前の乱暴な力任せの肉は、筋張りすぎてて食えたモンじゃねぇな。……細かく切り刻んで、筋切りしてやるよッ!」
空中で交差させた双刃を、バルガスの首の付け根と左脇腹へ向けて、巨大な『X』の字を描くように一気に振り抜く。
シャァァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!
「……ガ……ブァァァァァァァッ!?」
バルガスの体内で暴走していたマナの循環(爆縮の理)が、カルムの放った真紅と緋色の概念刃によって、完璧に、そして無残に【十文字に解体】された。
肉体は斬れていない。
しかし、彼の暴力の源泉であった『マナの圧縮による物理法則のねじ曲げ』が、完全に機能を停止したのだ。
五、 暴力の極致の終焉、静寂の刃
「……ガッ……ハァッ……ハァ……ッ……」
バルガスは、両腕と左足の力を完全に失い、黒曜石の大地の上に、ズンッ……と重々しく膝を突いた。
「……バ、バカな……。……俺の、俺のこの拳が……。何十年もかけて鍛え上げた、無敵の爆縮が……。……こんな、ヒョロガキの、訳の分からねェ炎に……」
バルガスは、自身の両手を見つめ、信じられないものを見るように震えていた。
マナを込めようとしても、まるで切れた電線のように、一切の力が拳に伝わらない。
カルムの刃は、彼の細胞とマナの繋がり(理)を、根本から切断してしまったのだ。
「……俺の炎が訳分からねぇってか?」
カルムは、赤蓮の双刃を静かに下ろし、膝を突くバルガスを見下ろした。
「……なら、教えてやるよ。……お前の拳は、ただの『自分勝手な暴力』だ。神様や自分を信じてるふりをして、ただ相手を力でねじ伏せて悦に浸ってただけの、底の浅い肉の塊だ」
カルムの言葉は、かつての自分自身へ向けての戒めでもあった。
力任せに振るう暴力は、いつか必ず、さらに大きな理不尽(力)の前に叩き折られる。
「……だが、俺のこの炎は違う。……俺は、アルの祈りを背負って、あいつの背中を護るために、全ての理不尽を解体する術を手に入れた。……誰かを想う熱(祈り)が混ざった俺の刃は……お前みたいな空っぽの暴力なんざ、いつでも綺麗に三枚におろしてやるよ」
カルムの全身から立ち上る真紅と緋色の炎が、武神の孤島で得た【修羅の慈悲】と【絶対の静寂】を伴って、周囲の焦土を優しく照らし出していた。
「……フザ、ケるな……。……俺は、教国最強の……神殿騎士団長だァァァァァァッ!!!!」
バルガスが、最後の力を振り絞り、口から血を吐きながら、カルムの足首に食らいつこうと地を這って突進してきた。
マナを失ってもなお、敵を殺すことだけを求める狂気の闘争心。
だが。
「……カルム!」
アルの声が響く。
「……あぁ。分かってる」
カルムは、迫り来るバルガスに対して、構えすらとらなかった。
ただ、右足の爪先に、一ミクロン以下の極薄の概念刃を展開し。
地を這うバルガスの顎の下——意識を刈り取るための【脳への血流の結節点】へ向けて、スッと、ただ静かに刃を滑り込ませた。
スゥゥゥゥゥゥ…………ッ。
「……ア…………」
バルガスの狂気に満ちた瞳が、一瞬で白目を剥き、巨大な身体が完全に糸の切れた操り人形のように崩れ落ち、沈黙した。
殺してはいない。
だが、彼の戦意と暴力の理は、完全に解体され、永遠の眠りについた。
六、 決着、そして流星の如き気迫へ
「……終わったぜ、アル。エレナ」
カルムは、気絶したバルガスの巨体を一瞥し、両腕と足から赤蓮の炎をフワリと消散させた。
「……カルム……! すごいよ、本当に……! 僕がスジを見つけたら、カルムが完璧にそこに刃を入れてくれる。……僕たち、最高のコンビだったよッ!」
アルが、泥だらけの顔に満面の笑みを浮かべ、カルムの元へと駆け寄ってくる。
「……へっ。当たり前だろ。俺がお前の最高の火力になるって、約束したんだからな」
カルムは、アルの頭を乱暴に、しかし優しく撫で回した。
エレナも、大盾を支えにしながら、深く安堵の息を吐き出していた。
「……まさか、あのバルガスを、力ではなく『理』で圧倒するとは。……カルム殿、君が武神の孤島でどれほどの地獄を乗り越えてきたのか、私には想像もつかない。……だが、君が帰ってきてくれたことで、我々には間違いなく『神に届く希望』が生まれた」
「……あぁ。……使徒どもが敷いてるクソみたいな神の法則も、全部俺たちの『包丁さばき』で解体してやる。……アルの厨房(居場所)は、俺が絶対に護り抜く」
カルムは、教国のさらに奥……三使徒の気配が色濃く渦巻く『聖都の深淵』へと視線を向けた。
ここからが、本当の戦いだ。
神の尖兵や武闘派を退けたとはいえ、全てを奪い去った真の理不尽——三使徒たちとの決着が待っている。
「……行くぞ、アル。エレナ。……神様どもに、俺たちの『最高の料理』を味わわせてやろうぜ」
カルムの全身から、再び真紅と緋色の極光が、静かに、しかし流星が天を駆けるような、圧倒的で苛烈な気迫となって立ち上り始めた。
第128話「流星の如き気迫」。
ついに真の神殺しの力を手に入れたカルムと、彼を信じ続けたアル。
二人の力が完全に重なり合った時、教国を支配する使徒たちへの反撃の進軍が、怒涛の勢いで加速していく。
新たなる伝説の第二幕が、流星のような輝きと共に、いま本格的にその火蓋を切って落とした!




