第126話:俺はアルの最高の火力になる
一、 絶望の包囲網、不滅の盾の限界
教国ルミナの中心部へ続く巨大な渓谷、通称『裁きの谷』。
かつては美しい清流と豊かな緑に囲まれていたその場所は、今や赤黒い血と神聖マナの爆炎に焼かれ、完全なる焦土と化していた。
「……ハァ……ッ……ハァ……ッ……! ……アル殿、私の背中から絶対に離れるなッ!」
激戦のド真ん中、無数のクレーターが穿たれた岩山を背にして。
全身を白銀の鎧で包んだ気高き騎士、エレナ・ルミナスが、血に染まった大盾を構えて絶叫した。
彼女の周囲には、すでに倒れ伏したレジスタンスの戦士たちの亡骸が転がっている。
そして、その生き残った数少ない者たち——その中心で震えながらも必死に立ち続けている少年料理人アルを守るため、エレナは一人で、数百という教国の精鋭部隊『神殿騎士団』と、上空から光の雨を降らせる『上位天使』の群れを相手に、防衛線を維持し続けていた。
ガガガガガガガガッ!!!!
上位天使たちが放つ、数十本の『裁きの光槍』が、エレナの構える大盾に容赦なく降り注ぐ。
かつて忘却の深淵で、己の弱さを噛み締め、不滅の盾として生まれ変わるための試練を乗り越えたエレナ。彼女の盾から放たれる『絶対守護の聖光』は、神の法則すらも一時的に相殺するほどの強固さを誇っていた。
だが、それでも限界はある。
「……ぐ……アアアアアアッ!!!!」
光槍の圧倒的な質量の連撃に、エレナの腕の骨がミシミシと悲鳴を上げる。
盾の表面に亀裂が走り、防ぎきれなかった熱波と衝撃波が、彼女の鎧を削り、皮膚を焼き焦がしていく。
彼女の足元はすでに数十センチも地面にめり込み、膝はガクガクと震え、今にも崩れ落ちそうになっていた。
「……エレナさんッ! もうダメだよ、これ以上は……! 僕のことはいいから、逃げてッ!」
エレナの背後で、アルが涙声で叫んだ。
彼の右手には、使い古されたボロボロの黒鉄の包丁が握られている。
アルもまた、ただ守られているだけではなかった。
エレナの盾の隙間を縫って迫る敵の魔法や刃に対して、自らの【真理の目】と包丁さばきを駆使し、相手の攻撃の『スジ』を見極めて解体し、必死に応戦してきたのだ。
だが、マナを持たない生身の人間の体力には、絶対的な上限がある。
アルの息は乱れ、包丁を握る手は限界を超えた疲労で痙攣し、何度も落としそうになっていた。
相手の『理』が見えていても、それに身体が追いつかなくなってきている。
「……馬鹿なことを言うな、アル殿ッ!」
エレナは、口から血を吐き出しながらも、決して大盾を下ろすことはなかった。
「……私は、誓ったのだ。……あのカルム殿が……己の命を削ってでも強くなるために、絶望の淵へと一人で向かった時。……彼が帰ってくるまで、いや、彼が帰ってきてからも……絶対に、君の背中はこの私が護り抜くとッ!」
二、 料理人の足掻きと、消えない祈り
エレナの気迫に、神殿騎士団の動きが一瞬だけ怯む。
だが、上空に浮遊する上位天使たちは、感情を持たない機械のように、次なる『絶対の法則』の詠唱を開始した。
『……目標の粘り強い抵抗を確認。……これより、当空間の酸素濃度を強制的にゼロとする「窒息の法則」を展開する。……異端者どもよ、神の御名において息絶えよ』
上位天使たちの冷酷な声と共に、谷を覆う空間が黄金色の魔法陣で包まれる。
瞬間。
アルとエレナの周囲から、大気が一気に吸い上げられ、強烈な真空状態が作り出された。
「……ガッ……!? ……息が……ッ!」
エレナが喉をかきむしり、大盾を取り落としそうになる。
アルもまた、胸を激しく上下させるが、酸素が肺に入ってこない。視界が急速に暗転し、立っていることすら困難になる。
物理的な攻撃であれば、エレナの盾で防ぐことができる。
力の流れ(スジ)を持つ魔法であれば、アルの包丁で切り裂くことができる。
だが、空間の環境そのものを書き換える『神の法則』の前に、二人の力はあまりにも無力だった。
(……カルム……)
アルは、薄れゆく意識の中で、古びた包丁の柄を両手で強く握りしめた。
スラムの冷たい雨の日も。
教国の忘却の深淵で、使徒に蹂躙された日も。
いつだって、僕が絶望して諦めそうになった時、カルムは文句を言いながら、不器用な優しさで僕を引っ張り上げてくれた。
『……生きて帰ってきてね、カルム……』
アルは、あの時の自分の祈りを、もう一度強く、心の中で繰り返した。
僕には、魔力はない。強い力もない。
でも、料理人として、世界中の食材の「一番美味しいところ」を引き出す術を知っている。
カルムが、もし帰ってきてくれたら。
もし、彼が再び立ち上がり、あの凄まじい炎で僕の隣に立ってくれたなら。
(……僕は、お肉のスジを見つける。……カルムは、その火でお肉を最高の状態に焼き上げる。……僕たち二人が揃えば……どんなに理不尽な神様の法則だって、絶対に……!)
「……ア……ル……殿……」
エレナが、ついに膝から崩れ落ちた。
上位天使たちが、酸素を失い動けなくなった二人へ向けて、トドメの『巨大な光の十字架(処刑剣)』を上空から無慈悲に振り下ろそうとする。
絶対の死が、数秒後に迫る。
アルは、迫り来る巨大な光の十字架を前にして、それでも決して目を閉じず、カルムの帰還を信じて空を睨みつけ続けた。
その、瞬間である。
三、 響き渡る轟音、赤蓮の流星
「……よく頑張ったな、お前ら」
空間の酸素が奪われ、音すらも伝わらないはずの絶対真空の結界の中で。
なぜか、その低く、少し掠れた、最高に不敵な少年の声だけが、アルとエレナの鼓膜を……いや、魂の底を直接揺さぶるように響き渡ったのだ。
「……え……?」
アルが、信じられないものを見るように、空を見上げた。
ドドドドドォォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!!!!
上空に展開されていた黄金色の『窒息の法則』の魔法陣が。
まるで、薄いパラフィン紙に超高温の焼きごてを押し当てられたかのように、中央から一瞬にしてドロドロに溶け落ち、十文字に切り裂かれた。
そして、その引き裂かれた魔法陣の隙間から。
真紅と緋色が複雑に混じり合う、圧倒的な熱量と美しさを伴った【極光の彗星】が、アルたちの頭上へと一直線に墜落してきたのだ。
ズバァァァァァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!
彗星は、上位天使たちが振り下ろそうとしていた巨大な『光の十字架』の真横を通り過ぎる。
ただ通り過ぎただけ。
だが、その彗星が纏っていた極薄の【赤蓮の概念刃】が、光の十字架の魔力供給の結節点を、ミクロン単位の狂いもなく完全に両断していた。
パリンッ……!
絶対の威力を誇るはずだった光の十字架が、カルムの身体が着地するよりも早く、空中で虚しく粉々に砕け散る。
同時に、破壊された魔法陣から新鮮な空気が一気に流れ込み、アルとエレナの肺に酸素が戻ってきた。
ズガァァァァァンッ!!!!
アルとエレナの目の前、わずか数メートルの位置に、その彗星は着地した。
大地が砕け、凄まじい土煙と、真紅と緋色の炎の熱波が周囲に吹き荒れる。
神殿騎士団たちが、その未知の熱量に悲鳴を上げて後ずさりした。
「……ゲホッ、ゴホッ……! ……え……?」
アルは、咳き込みながらも、土煙の奥に立つその『背中』を見つめていた。
破れた服。血と泥に塗れた背中。
だが、その背中から立ち上る炎の気迫は、かつてアルが知っていた、ただ怒りに任せて暴走するだけの不器用な炎とは、全く次元が違っていた。
静かで、深く、それでいて、世界中のどんな理不尽すらも焼き尽くしてしまうような、絶対的な安心感と威圧感。
土煙が晴れる。
「……待たせたな、アル。……エレナ」
カルムが、ゆっくりと振り返った。
その顔には、かつてのスラムの野良犬のような焦燥感はない。
激戦の疲労を感じさせない、どこまでも澄み切った、修羅の笑みが浮かんでいた。
四、 相棒の帰還、繋がった祈り
「……カルム……! ほんとに……カルムなの……!?」
アルの漆黒の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
両手で顔を覆い、泥だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして泣きじゃくる。
「……カルム殿……ッ。……生きて……」
エレナもまた、膝を突きながらも、信じられないものを見るようにカルムを見つめていた。
「……バカヤロウ。お前らが『生きて帰ってこい』って祈ってくれたから、地獄の底から這い上がってこれたんじゃねぇか」
カルムは、アルの前に歩み寄り、ポンッとその頭に軽く手を乗せた。
「……え……?」
アルは、自分の頭に乗せられた手の感触に、ピタリと泣き止んで目を見開いた。
彼は知っている。カルムは、使徒との戦いで右腕を完全に失ったはずだ。
だが、今、アルの頭を撫でているのは、確かな温もりを持った【生身の右手】だった。
アルが見上げると、カルムの右腕、そして左腕の皮膚には、真紅と緋色が交じり合う美しい『蓮の花』の紋様が深く刻み込まれていた。
「……腕が……治ってるの……? それに、この綺麗な模様は……」
「……あぁ。お前の祈りのおかげでな。……マナなんていう神様のお仕着せの力は、とうの昔に捨てちまった。……今の俺の火は、俺の命と、お前たちの祈りが混ざり合った、俺たちだけの『刃』だ」
カルムは、アルの頭から手を離し、再び神殿騎士団と上位天使たちの軍勢へと向き直った。
「……よく一人で、エレナと二人で、ここまで持ち堪えたな。……お前のそのボロボロの包丁、ちゃんと『スジ』を見極めて、神様の法則を解体しようとしてたじゃねぇか」
カルムは、背中越しにアルの努力を称賛した。
アルが、マナを持たない身体で、どれほど絶望的な状況の中で包丁を振るい続けたか、カルムには痛いほど伝わっていた。
「……でも、これからはもう、お前が無理して硬い骨を切る必要はねぇぞ、シェフ」
カルムが、両腕を身体の横にだらりと下げ、重心を低く落とす。
彼の両腕の赤蓮の紋様が激しく明滅し、そこから、厚さ一ミクロン以下に圧縮された、世界で最も薄く、最も熱い【真紅と緋色の概念刃】が陽炎のように立ち上った。
「……お前がスジを見つけてくれたなら。……あとは、俺がその火で、全部綺麗に焼き切ってやるからよ」
五、 俺はアルの最高の火力になる
『……目標の脅威度、極大。……全軍、一斉攻撃。異端者を完全に塵へと還せ!』
上空の上位天使たちが、再び無数の『裁きの光槍』をチャージし、神殿騎士団たちも一斉に神聖魔法の砲撃をカルムへと放ってきた。
谷を埋め尽くすほどの、圧倒的な光の弾幕。
それが、アルたちを守るように立つカルムの一点へ向かって集中する。
「……カルムッ!」
アルが叫ぶ。
だが、カルムは動じなかった。
彼の黄金の左目(解体眼)が、全方位から迫り来る数千の攻撃の『理』を、一瞬にして透過・解析していく。
「……お前らみたいな、マニュアル通りの薄っぺらい力任せの攻撃なんざ……」
カルムは、両腕の赤蓮の双刃を、まるで羽虫を払うかのように、軽く、滑らかに、そして極限の速度で空中で交差させた。
「……俺の『包丁さばき』の前じゃ、スジが丸見えの粗大ゴミなんだよッ!」
シャァァァァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!!!!!
カルムの放った極薄の概念刃が、空間に無数の真紅と緋色の美しい網目を描き出す。
その瞬間。
カルムへ向かって殺到していた数千の光槍と魔法の砲撃が、全て、空中でピタリと静止した。
そして。
まるで、達人の料理人が巨大な肉塊を一瞬で千切りにしてしまったかのように。
全ての攻撃が、威力を発揮する前に、マナの結節点を寸分違わず両断され、無数の光の破片となってサラサラと風に流されて消滅してしまったのだ。
「……な、なんだと……!?」
「我々の魔法が、一瞬で……解体された……!?」
神殿騎士団たちが、信じられないものを見るように後ずさりする。
「……アル」
カルムは、前を向いたまま、背後の相棒に声をかけた。
「……お前が、世界で一番の料理人になるなら。……俺は、お前が安心して世界を料理するための、絶対に消えない【最高の火力】になってやる。……お前の背中は、俺が護る」
その言葉は、スラムの裏路地で出会った日から、カルムがずっと心の中で燻らせてきた、本当の願いだった。
力でねじ伏せることしか知らなかった野良犬が、初めて見つけた「自分の居場所」。
その場所を護るために、神すらも殺す刃を手に入れたのだ。
「……うん……ッ! うんッ!!」
アルは、涙を拭い、ボロボロの包丁を強く握り直して、力強く頷いた。
「……僕が、敵の一番脆いスジを見つける。……カルムは、そこを思いっきり焼き切って!」
「……あぁ。……任せとけッ!」
六、 赤蓮の猛威、神の軍勢の蹂躙
カルムは、大地を爆発的に蹴り飛ばし、自ら神殿騎士団の軍勢のド真ん中へと突撃した。
「……オラァァァァァァァァァァッ!!!!」
カルムの動きには、もはや一切の無駄がなかった。
力任せに炎を振り回すのではない。
相手が盾を構えれば、その盾を支える力のベクトルを解体眼で見極め、斜めに刃を滑らせて無力化する。
相手が魔法を唱えれば、その詠唱のマナの循環を、刃の側面で叩いて霧散させる。
シュパッ! スパンッ! ザンッ!
真紅と緋色の極光が、戦場を流星のように駆け巡る。
カルムの刃が通り抜けるたびに、神殿騎士団の武器が砕け、上位天使たちの神聖な鎧がバターのように真っ二つに切り裂かれていく。
だが、カルムは彼らの命を奪うことまではしなかった。
急所を外し、戦意と武装だけを完璧に『解体』して、次々と無力化していく。
それは、武神から受け継いだ『修羅の慈悲』。
「……スゲェ……」
背後で見守るエレナが、カルムのその洗練され尽くした体捌きと刃の威力に、息を呑んで魅入っていた。
「……あれが、あのカルム殿だというのか。……まるで、武神そのものが顕現したかのような……完成された武の極致……」
わずか数分の間に。
谷を埋め尽くしていた数百の神殿騎士団と、数十体の上位天使の軍勢は、カルムのたった一人による『解体演武』の前に、完全に戦闘不能となり、血を吐いて倒れ伏すか、空中で光となって消滅していた。
「……ハァ……ッ。……ざっと、こんなもんだ」
カルムは、赤蓮の双刃を静かに下ろし、最後に残った上位天使の残骸が消え去るのを見届けた。
「……カルムッ!」
アルが、泥だらけの顔に満面の笑みを浮かべ、カルムの背中に飛びついてきた。
「……すごい、すごいよカルム! 本当に、最高の火力だよッ!」
「……へっ。……だから言ったろ。俺に任せとけって」
カルムは、飛びついてきたアルを軽く受け止めながら、照れくさそうに笑った。
エレナも、満身創痍の身体を引きずりながら、二人の元へ歩み寄ってくる。
「……カルム殿。無事の帰還、心より歓迎する。……君が戻ってきてくれて、本当に良かった」
「……お前も、よくアルを護り抜いてくれたな、エレナ。……サンキューだ」
三人が、激戦の焦土の中で、互いの無事と絆を確かめ合うように笑い合う。
絶望の地獄を乗り越え、ついに再集結を果たした最高のパーティー。
七、 次なる試練への影。傷だらけの拳
だが、その再会の喜びも束の間。
ズズズズズズズズ…………ッ!!!!
谷の奥底から、これまでの神殿騎士団や上位天使たちとは全く異なる、異様で、重く、そしてどこか『血生臭い』プレッシャーが、地響きと共に迫ってくるのを、カルムの黄金の左目が捉えた。
「……チッ。……やっぱり、ボスの登場ってわけか」
カルムが、アルを背中に庇い、再び両腕に赤蓮の炎を灯す。
土煙の向こうから姿を現したのは。
神聖な鎧に身を包んだ使徒や天使ではない。
上半身裸で、無数の傷跡に覆われた鋼のような肉体を持つ、一人の大柄な男。
その両拳には、これまでの数え切れないほどの戦いで染み付いた、洗っても落ちない赤黒い血の跡がこびりついている。
「……ホォ……。……天使共が手こずっていると思えば。……なかなか活きのいいガキが帰ってきたようじゃねェか」
男は、首をゴキゴキと鳴らしながら、凶悪な笑みを浮かべてカルムを見据えた。
その身体から放たれるマナは、神の法則というよりも、純粋な『暴力と破壊』の極致。
「……教国最強の武闘派、神殿騎士団長……『傷だらけの拳』の異名を持つ男か……」
エレナが、顔を青ざめさせてその男の名を口にした。
「……へっ。傷だらけの拳、ね」
カルムは、一切の恐れを見せず、赤蓮の双刃を構えて一歩前へ出た。
かつてなら、力と力の真っ向勝負に興奮していただろう。
だが今のカルムは、相手の拳に宿る『暴力の理』を、すでに静かに、冷徹に解体し始めていた。
「……アル。……お前の包丁さばき、もっと間近で見せてやるよ。……あのおっさんの硬そうな拳、三枚におろす準備はいいか?」
「……うんッ! カルムの火があれば、どんなお肉だって絶対に捌いてみせるッ!」
第127話「傷だらけの拳」。
再集結を果たしたカルムとアルの前に立ち塞がる、教国最強の武闘派。
完成された『我流極奥義(赤蓮解躰)』と、アルの真理の目が完全にリンクした時、いかなる暴力の化身をも解体する、最強のコンビネーションが遂にその真価を発揮する!




