第二章30 無限の概念と有限の命
「人を殺したことありますか?」
「ないよ」
「どんな状況になれば、人を殺します?」
「必要だと判断すれば」
やはり輝絡は、大半の一般人のように「殺人は悪いことだから」「悪いことをしたくないから」という理由で、これまで人を殺さずにいたわけではなかった。ただ単に、今までは人を殺す必要性がなかったから、殺さなかっただけなのだ。
極めて高い殺傷力を誇る火の能力と組み合わせれば、輝絡こそがこの世で最も恐ろしい危険人物であると言っても、際允にとっては全く過言ではないように思えた。
「じゃあ、もし輝絡さんが俺を殺すような状況が起きるとしたら、それはさっきの『時の能力を強制起動させたい』という理由以外はあり得ないと考えていいですか?」
「ああ。他の理由でお前を殺すことはない」
輝絡は非常に肯定的に言った。
この男にとって、際允の存在がそれほど重要であると解釈すべきなのか、それとも時の能力以外に際允の命には利用価値がないという意味なのか、判別がつかなかった。
あるいは、その二つの考えは輝絡の心の中で矛盾なく共存しているのだろう。なぜなら彼は「際允」という一人の人間ではなく、「時の元霊」という身分だけを重視しているからだ。
あまりにも、異常だった。
「誰か他に、あなたがそういう人間だと知っている人はいますか?」
「そういう人間とは?」
輝絡は瞬きしながら聞き返した。
悪気がないのは分かっていても、この人の命を軽んじるろくでなしが無垢な表情をしているのを見て、際允はやはり火がつくような怒りを覚えた。
「人の命を軽視して、必要とあらば人殺しもできる人間」
「うーん……」
輝絡は際允の評価を否定しなかった。他人の評価など気にしていないのか、それとも自分でもそういう人間だと認めているのか、際允にはわかるはずもなかった。
直後、青年は墨然を目をやり、問いかけた。
「どう? 知ってた?」
それは本当に、意図的な嫌がらせではないのか。
際允もすぐに続けて右手側に顔を向けた。墨然はすでに少し冷静さを取り戻しており、先ほどのようにこの男に殴りかからんとする気配は消えていった。しかし、その瞳に宿る怒りは増すばかりで、凶悪なまでに輝絡を睨みつけたまま、一言も発しなかった。
答えを得られぬまま、輝絡は際允に向き直り、何気ない様子で言った。
「他の連中は、おそらく誰も知らないだろう」
――やはりそうか。
他の者たちも、きっと元の墨然と同じように、輝絡が人を殺すなどとは微塵も信じていなかったに違いない。
少なくとも、妲依娜たちのような善良で熱心な人々が、もし輝絡がこのような人間だと知っていたなら、何事もなかったかのように同居を続けられるはずがないと際允は思った。
ある意味では、現在の際允は、長年彼を近くで見てきた家族よりも輝絡という男を理解しているといっても過言ではない。
「人を殺すことに罪悪感を覚えるような人間じゃないから、もう一人のあなたが僕を殺した時、あんなに平然とした様子だったわけですか……」
「俺だって、人間の感情や道徳観を全く持ち合わせていないわけじゃないんだがな」
輝絡本人の口から発せられるその言葉には、やはり一欠片の説得力もなかった。
「だが、もう一人の俺が平気でお前を殺せたのは、ひとえに時の元霊だからだろうと思う」
視線を伏せながら、輝絡のその口元は微かに吊り上がっていた。
「時の元霊は記憶を保ったまま転生でき、身体年齢をある瞬間に凍結させることもできる。精神的な永生であれ、身体的な不滅であれ、お前にとっては当然のことだ。たとえ際允・ランニオンという人間の身体には生と死があり、有限の命であったとしても、時の元霊は永久不滅であり、無限の概念なんだ」
際允は、ようやくあの違和感の正体を理解した。
輝絡のこの言葉は、際允に様々な場面で耳にしてきた、火の国の人々が火の元霊へと捧げる祈祷の言葉を思い起こさせた。それは火の国の民が火の元霊の強大さに平伏し、その救済を願い、その庇護に感謝し、火の元霊を崇拝するがゆえに書き上げ、朗読する祈りだった。
――ならば、火の元霊は?
輝絡にも、崇拝する存在があるというのだろうか。信仰があるというのか。
果てしない孤独の中で、輝絡は一体何を原動力にして、今日まで耐え抜いてきたのだろうか。
「必要だと判断すれば人を殺すとは言ったが、お前と他の人間とではまた話が違うんだ」
輝絡は言葉を続けた。
「肉体が消滅しようとも、時の元霊は永遠に存在し続けると知っているから。だから、ある転生における時の元霊の身体を殺すことは、俺にとって『殺人行為』には当たらない。たとえ際允という人間に感情を抱いたとしても、お前の死によって俺の願い通り世界の改変が叶うのであれば、躊躇なくお前を殺すだろう」
際允は、自分が輝絡の考えを多かれ少なかれ理解できてしまうことに気づいていた。
すでに際允としての記憶を持ったまま目暁へと転生し、さらには過去へと戻る経験までしている。もし望むのであれば、前世の自分が輝絡に施したように、自らの時間を凍結させて自然死の可能性を抹消することだってできるはずだ。
輝絡の言う通り、時の元霊たる自分は、肉体であれ精神であれ永遠の存在なのだから。
輝絡が重視しているのは、時の元霊の魂がこの世に存在しているという事実そのものである。
その上、時の元霊という概念は不滅であり、肉体が幾度死を迎えようとも、魂が何度転生を繰り返そうとも、時の元霊は常に存続し続ける。
だからこそ、輝絡は際允や、その前世……時の元霊という魂が一時的に宿るだけの器に対し、執着を持つことがないのだ。
輝絡が際允をただの時の能力の起動スイッチとして扱うのも至極当然であり、際允を殺すことに何ら精神的負荷を感じず、殺害そのものを大したことのない些事と捉えるのすら、理解できない話ではなかった。
ただ……。
――「君は、死んでも構わないような存在じゃない。君が死んだら、悲しんで、苦しむ人間がいるんだ」
――「また君に会えて嬉しい」
第一の世界で、止湮が際允の死を思い出して見せたあの哀切に満ちた微笑み。そして、際允の意識を持った目暁が生きていたことに、この上ない喜びを感じたかのように輝きに満ちていたあの褐色の瞳を、今も覚えている。
――「今度はやっと、間に合った」
――「だから、あなたにも身勝手にその能力を使ってほしいと思っている。あなた自身が幸せになれる道だけを考えればいい」
際允の死を阻止できず、無力感の中で終わりのない悔恨を抱え込んでいた墨然のあの言葉と、心から際允の幸せを願っていたあの祈りを、今も覚えている。
世界中に、自分の死を悲しんでくれる人が一人でもいる限り、第一の世界の輝絡が自分を殺した行為は永遠に許されるはずがないのだ。
たとえ際允が本質的には今もなお己の生命そのものに頓着していなかろうとも。自分が何よりも大切にしている止湮との同居の六年間という時間が、輝絡に殺されたという前提の上にしか成り立ち得ない経験であると、痛いほど理解していようとも。
けれど、第二の世界の輝絡は自分を殺す行為に及んでおらず、すでに契約の縛りによって際允を殺すこともできなくなっている。
だから、彼は思った。自分はこれから先、なんとか平穏な心を保ち、目の前の輝絡を「罪なき者」として扱っていくことができるだろう。たぶん。
もしこんな考えを第一の世界の止湮に知られたら、きっとまた、あのひどく心配そうな表情を浮かべるに違いない。際允はそこまで思い至り、無意識に苦笑を漏らした。




