第二章31 時の果てまで、君は祈り続ける
「人を殺す部分については、一応理解しました」
かろうじて、だが。
「じゃあ、殺さない部分についてはどうなんですか? なぜ輝絡さんは、僕を殺さないという契約の提案に同意したんですか?」
「なぜ、か……」
輝絡は、今になって初めてその行為の動機を真剣に思考し、分析しているような表情を浮かべた。
「時の元霊の身体を殺すことを、時の能力を起動させるための手段と捉えているなら、もしこの世界の輝絡さんがこの先、時の能力で変えたいと願うほどの不都合な事態があった時、口頭で僕に協力を乞うしかなくなるでしょう? もし僕が拒めば、完全に手詰まりになるんじゃないですか?」
「それはわかってる。俺はただ、余力も能力もあるのなら、お前の願いをできる限り叶えてやりたい――俺に殺されるという未来を変えたい、という願いを」
際允には全く理解できなかった。
「なぜ? あなたは時の元霊という全体的な概念にしか関心がないでしょう? 前世の僕には大した感情も持っておらず、今世の僕とは知り合って半日も経っていないのに。それなのに、なぜわざわざ自ら時の能力を起動させる唯一の手段を手放したんですか?」
輝絡は決して、善良で親切ないい人などではない。むしろ彼の価値観からすれば、際允という有限の命を持った人間など死んでも構わないのが正常であり、もし際允の死が世界を変えたいという自らの希望を叶える役に立つのなら、それこそ願ってもないことのはずだ。
それなのに、なぜこれほど矛盾した行動を取るのか。
輝絡がもう一つの世界で自分を殺した凶手その人であり、つい先ほど際允の命などどうでもいいという旨の発言をしたばかりであることを考えれば、たとえ彼が自分のためにこれほどのことをしてくれたとしても、際允の胸にはほんの少しの感動も湧かなかったが。
「俺にとって、時の元霊はこの世で最も重要な存在なんだ。だから、時の元霊の転生の一つであるお前――際允が必要とすることなら、俺も力になりたいと思う」
それはまるで、どうしても変えたい事態という大前提がない限り、輝絡は際允を手助けすることを厭わない、それどころか非常に喜んで手を貸すと言っているようだった。
輝絡の本質は、極限まで利己的な人間なはず。しかし、彼が真に執着している唯一の私欲とは、自分が必要とした時に時の能力を利用し、起こってほしくないある事象を書き換えること、ただその一点のみ。
その必要性がない現在、私欲に影響を及ぼさないという条件下において、輝絡は逆に最大限の無私を体現することができる。
おそらくは世間一般の視点から見れば、輝絡は滅私奉公で、他人のために己を省みなく身を捧げ、善良ないい人に映るのかもしれない。だからこそ妲依娜たちもあれほど輝絡を慕い、墨然もまた彼を無条件に信じていたのだ。
しかし、際允こそがまさに、輝絡が唯一の私欲を満たすためであれば、平然と手を下して殺すことのできる時の元霊だった。
おそらく、自分が輝絡を「いい人」として見る日は永遠に来ないだろう。
「あなたにとって、僕は時の元霊の一部であり、時の元霊が現世に留まるための、数ある転生の一つに過ぎないということですよね?」
「その通り」
だからこそ、時の元霊を重視していると言いながら、時の元霊の器である際允を殺すなどという行為に及ぶことができるのだろう。
価値観が歪んで人の命を軽視しているというよりは、輝絡は最初から際允を単一の、独立した一つの生命個体として見ていないのだ。
「じゃあ、時の元霊はあなたにとって、何を意味してるんですか?」
真っ直ぐに際允と視線を交わす、その翠緑の眼眸。
そして、腹蔵なく。
「時の元霊は、俺の信仰だ」
……は?
「この百年の間、俺は時の元霊への信仰だけを支えにして、今日まで持ちこたえてきたんだ」
そのような言葉を口にしていながらも、輝絡の碧緑の瞳はどこまでも静まり返っており、発言との不釣り合いな不気味さに、際允は全身に鳥肌が立つのを感じた。
「俺はすでに百以上を生きてきた。この先もさらに十年、百年と……遥か遠い未来まで生きていくだろう。それほどに悠久たる時間の中、お前だけが――時の元霊だけが変わることなく、絶えず生き続け、永遠に俺を覚えていてくれる。俺がずっと時の元霊を覚えているのと同じように」
輝絡の端正な容貌に、嬉しそうな微笑が浮かんだ。
それは目も眩むほどに美しい光景であるはずなのに、際允の胸にはただ、底知れぬ悪寒だけが走っていた。
際允は時の元霊――時の能力を宿した魂の転生の一つだ。
しかし、輝絡の目に映る際允は、時の元霊がこの世に生存するための肉の器に過ぎず、ただの一度も独立した個としての生命として扱われたことはない。必要とあらば自分の意のままに殺していい、ある種の道具に過ぎないのだ。
その一方で、時の元霊そのものは、輝絡自身よりも遥かに高次元の、超然とした、世に言う「神」のような存在として崇められている。
長い歳月の中で、あらゆるものが移り変わっていく。輝絡の人生と交錯した人々は誰もが時の流れと共に老い、やがて死を迎える。
ただ時の元霊だけが、永遠に不変なのだ。
時の元霊がこの世に存在しているというだけで、それは輝絡の孤独な心に慰藉をもたらす。それは、どこまでも自分を本位とした、信仰される側の意思や想いなど一切顧みない「信仰」だった。
それでも――。
「もう一つの世界の俺は、おそらくお前に前世の記憶を取り戻させるために殺したのだろう。けれど、俺にはその必要はない。だからお前が望むのであれば、契約を交わし、お前に懇願する以外に世界を変える手段を放棄したって構わない。死にたくないと願うなら、その命を守り抜く。際允――時の元霊がいかなる願いを抱こうとも、俺は持てる限りの力を尽くしてそれを叶えよう」
黒縁眼鏡の奥で、その緑の瞳はこれ以上ないほど真摯に際允を見つめていた。
「――お前のために、すべてを捧げよう」
その瞬間は、息をすることさえ忘れていた。




