第二章26 少年にとっての最優先事項
「何が言いたい?」
その時、唐突に輝絡が墨然の方へと視線を向け、問いかけた。
際允もつられて首を巡らせると、そこでようやく、墨然が話したいことがあると示すように右手を半ば挙げて佇んでいることに気がついた。
話題に割り込む許可を得た墨然は、そのまま単刀直入に本題を切り出す。
「輝絡、先輩と契約をもう一つ結すんでほしい」
「え?」
思わず驚愕の声を漏らしてしまった際允を一瞥し、墨然はまた輝絡に向き直る。
「内容は『自分は先輩を殺さない』という保証。期限は今日が終わるまででいい。どうだ?」
墨然は、輝絡が人を殺すなどとは根っから信じていないはずだった。現にさっき、輝絡本人も際允を殺す意図を否定したばかりだ。
それにもかかわらず、彼はあえてこのような要求を突きつけた。
まるで、墨然の心の中においては「際允を安心させること」こそが、何よりも優先されるべき重大事であるかのように。
実効性のある確実な保証を手に入れようとするならば、契約の力に依存するほかない。それはこの世界の誰もが知る常識であり、当然ながら際允とて例外ではなかった。
しかし、墨然にそれを提示されるまで、そんな解決策は際允の脳裏に一回も浮かんではこなかった。
今にして思えば、それは心の底で、輝絡がそんな要求に応じるはずがないと決めつけていたからだろう。
もし仮にある日、自分が何一つ証拠もないまま見知らぬ他人から「お前は未来の殺人犯だ」と言い掛かりをつけられ、身の潔白を証明するために契約を結べと迫られたら。相手がいくら時の元霊であろうとも、自分ならただ怒りや理不尽な感情を抱くだけで、そんな要求には絶対に首を縦に振らないだろうと思うからだ。
「いいよ」
ところが、輝絡は寸分の抵抗感も見せることなく、あっさりと承諾した。
――なんで? なんでこの男は、こんな事に対して何の感情も抱いていないかのような顔をしていられるんだ?
唖然とした際允へと、輝絡の視線が戻される。
「約束するよ。俺は際允を殺さない。それが直接的なものであれ、間接的なものであれ、どんな形式であっても。期限は……別に期限なんて設けなくても構わないだろう」
その言葉が響き落とされると同時に、際允の目に映り込んだのは、輝絡が肘掛けの上に無造作に置いていた左手首の周りに浮かび上がる、一筋の青い光だった。
契約が、成立したのだ。
「え……?」
事態の進展に追いついていないまま、際允はその青い光が消え去るのを呆然と見つめていた。
「僕はまだ同意していないし、契約の族の能力も使われるていないはずですが……? それに、どうして僕の身体には契約成立のエフェクトが現れないんだ?」
「あなたたちの契約じゃないのか? なぜ俺にまでそのエフェクトが見える?」
墨然の口調の驚き度合いもまた、際允のそれと比べても見劣りしないほどだった。
「まあ、これは俺と際允との契約じゃないからね。俺が一方的に『契約システム』自体に対して誓いを立てたものなんだ。簡単に言えば、世間で言うところの『神に誓う』みたいなもんを、契約の形式に落とし込んで有効化しただけだ。だから際允の同意も要らないし、族の能力を使わずに成立することはできる。成立した時のエフェクトだって、誰にでも見えるんだよ」
まだ契約に関する知識に疎い学生二人に配慮してか、輝絡は極めて根気強くその仕組みを説明してくれた。
「そんな契約の形式もあるんだ……」
契約の族の血を引く墨然でさえ、そんな話は今まで一度も耳にしたことがないようだった。
「元霊にしか扱えない形式だと聞いている。だから契約の族であっても、これを知る者はほとんどいないかもな」
そう言い、輝絡は首を少し傾げて考え込んでいた。
「俺はただ、わざわざ協会まで足を運ぶのが面倒だったから、手っ取り早くこの契約を使っただけで。どのみち際允を殺すつもりなんてないんだから、どんな形式の契約であろうと大して違わないだろうと思って」
――ということは……つまり、この契約の罰則を被るリスクを冒さない限り、契約が解除されるその時まで、この世界の輝絡は決して自分を殺すことができなくなった、ということか?
「その契約は、どうすれば解除されるんですか?」
輝絡は平然と際允を見返した。
「死ねば解除されるんだよ」
……え?
「当然、契約を破ればその時点で死ぬことになる。死に方としては……まあ、天罰が下るみたいなもんじゃないかね?」
そもそも輝絡が契約の締結を承諾したこと自体、際允にとっては困惑の極みだったというのに、今になって輝絡が自ら結んだのがこれほどまでに過酷な形式のものだったと知り、ますます錯愕して開いた口が塞がらなくなった。
墨然もまた激しい衝撃を受けた表情を浮かべている。そんな二人を、輝絡はどこか腑に落ちないといった様子で見つめる。
「元々、神に誓いを立てるというのはそれほどの重みを持つ行為だろう?」
「俺は……普通の契約を結ぶものだとばかり想定してた。まさか、そんなものがあるなんて完全に予想外で……」
墨然は呆然としたまま、ぽつりと呟いた。
「言ってなかったからね。妲依娜にもまだこういう契約の存在を知られてないはずだし」
「元々先輩はそれの存在すら知らなかったんだから、輝絡にはそんな強制力の高い契約を利用できる事実を明かす必要なんてなかった。ただ普通の契約を交わして証明にすれば、それで十分だったはずなのに、なぜわざわざそんなことを?」
墨然は、際允の胸中にある疑問をそのまま言葉にして問い詰めた。
すでにほとんど冷静さを取り戻している際允に比べ、墨然の方がこれらの事実を咀嚼することに対して、明らかに多くの心理的負担を感じているようだった。
輝絡が家族だからという理由だけでなく、墨然自身がその契約の締結を提案した張本人であるという事実も関係しているのだろう。
「人の命を奪うには自分の命を以て贖うことこそが、最も基本的な公平というものだと思うけどね」
その言い草は、まるで輝絡自身が命の重さを深く理解しており、何があろうとも殺人犯になどなり得ない人間であるかのように。
「それは……確かに……?」
墨然もようやく少しずつ落ち着きを取り戻し、これらの事実を受け入れたのだろう。
「どのみち、輝絡に先輩を殺す考えが一切ないのなら、契約を解除する必要はないし、違反した時のペナルティなんて気にする必要もまったくないでしょう?」
「その通りだね」
安心したことで、これまで強張っていた表情の筋肉を弛めさせていく墨然。
この少年は本当に際允の安全を極限まで案じてくれている。それに比べれば輝絡への信頼がどうだとか、夜中に見せた際允の態度がどうだとかいう問題は、すべて二の次にしてしまって構わないと言わんばかりに。
その姿を見つめながら、際允はそのような事実をより鮮明に意識させられた。
だが。
――本当に……これで、すべてが解決したのだろうか?
際允自身の胸からは、どうしても安堵の色が湧き上がってはこなかった。




