第二章25 安全という名の絶望
「君……君には、何も言うことはないんですか?」
「例えば、どんなことだ?」
「なぜもう一つの君は僕を殺したんですか?」
ぱちぱちと瞬きをしていた輝絡に対し、際允はいっそのこと、単刀直入に問い詰めた。
「俺にも分からないよ。時の能力を持っていないんだから、もう一つの世界の出来事なんて知りようがないじゃないか」
「……ということは、この世界の君には、僕を殺す意図はない、ということ?」
「ないよ」
猜疑の念を抱いて目を細めた際允に、輝絡は何の躊躇もなくそう否定した。
「……」
客観的に見れば、それはどう考えても良い知らせであるはずだった。難航すると思い込んでいた困境は、実際には最初から存在していなかったのだ。
自分は今夜死ぬことはない。このまま何もしなくても、止湮の死亡する未来は当然のように変えられる。墨然だって、血の繋がりのない最愛の家族が実は殺人犯だったという、残酷な事実による苦痛を背負わずに済むのだ。
だというのに、際允は全身に冷や汗をかいていた。両手は無意識のうちに固く拳を握りしめ、それでも全身の微細な震えを抑えつけることができない。
――墨然くん……。
もし輝絡の言葉が本当なら。もし輝絡が現在に至るまで、本当に際允を殺す念頭を一度も抱いていないのだとしたら。もしこのまま何もしなくても運命を変え、今夜を生き延びることができるのだとしたら――。
――なら……僕は永遠に、墨然くんに信じてもらえないんじゃないか?
一瞬にして呼吸が困難になる。焦燥のあまり、際允は思わず右側にいる墨然を盗み見てしまい、そうして再び、自分を見つめていたあの視線と重なった。
けれど、予想していたものとは違っていた。
その金色の瞳の中には、二人の主張が食い違っていることへの疑惑も、際允に対する疑いも、あるいは「やっぱり俺が正しかっただろ」という嘲笑の色さえも浮かんでいなかった。
ただ冷静に、そしてどういうわけか、微かな心配の色を孕んで真っ直ぐに際允を凝視していた。
墨然が何を心配しているのかは分からないが、それでも際允の焦慮はいくらか和らいだ。冷静さを取り戻し、輝絡を見据えて問いかける。
「それは本気で言っていますか? 本当に僕を殺すつもりはないんですよね?」
「本当だ」
輝絡は平然と頷いた。
やはり、嘘をついているような形跡は微塵も見当たらない。この男が極限まで演技に秀でているのか、それとも事実が本当にそうなのだろうか。
だが、仮にそれが本当だとしても、際允の胸にはどうしても違和感が燻り続けていた。
普通に考えれば、ある人が人を殺す考えなど全く持っていないにもかかわらず、突如として出会ったばかりの他人に「未来でお前に殺される」などと指弾されたら、多少なりとも信じられないと驚愕したり、自分の耳に届いた情報の間違いを疑ったりするはずではないか。
ましてや、これほどまでに深刻な罪の告発なのだ。自分が根も葉もない噂で中傷されたことに対して、多かれ少なかれ憤怒し、苛立ちを見せるのが人間というものだろう。
しかし、輝絡の反応はあまりにも希薄なものだ。そして現時点に至るまで、際允は輝絡からほんの爪の垢ほどの怒りさえも見出せていない。
もし墨然が「胸の内にある豊かな感情の変化を表情で上手く表現できないだけ」なのだとしたら、輝絡は大半の瞬間において「そもそも心理活動そのものが存在しておらず、だから表情を正常に機能させても表現する中身がない」かのように見えた。
際允にとって、無表情な墨然よりも、輝絡の方が遥かにその感情の正体を掴むのが困難だった。
「さっきも言った通り、僕は今夜君に殺される運命を変えるために時の能力を使って過去に戻ってきました。だけど、僕の認知している限りでは、君が本来抱いていたはずの殺意を突然無くしてしまうような、運命を変えるための実際の行動なんてまだ何もしていないんだ」
輝絡の表情に変化がないかを観察するため、際允はあえて少しだけ言葉の速度を落とした。しかし、それでもなお、その仮面に生じる微かな亀裂さえも察知することはできなかった。
「だから最も合理的な説明は、君には現時点まで『元々』僕を殺す考えなんてなかったということ……。だとすれば、第一の世界の君はこれから今夜の八時までの間に、突如として僕を殺したくなったことになる。そんなこと本当に得るのでしょうか?」
「可能性の有無だけで言うなら、そりゃまあ、あるだろうね」
輝絡は、そんな無意味な世間話と何ら変わらない答えを返してきた。
「時の能力について少しは知っているんですよね? 君から見れば、僕がこの世界にやってきた時間よりもさらに前の段階ですでに分岐が生じていた、なんて可能性はあるでしょうか?」
「そういうことができるのは、それこそ時の能力だけなんじゃないか。心当たりがないなら、もしかしたらお前が無意識のうちに時の能力で何かしちゃって、そしてそれが世界を変える鍵になちゃった。ひょっとして忘れちゃってるだけってこともあるかもしれないな」
その口調にはどこか確信が持てないような響きがあった。
――そんなはずがあるか?
際允には、どうしてもそれを納得することができなかった。だが、現時点で正しい答えを得られない以上、際允もこの問題を一時的に棚上げするしかなかった。
結局のところ、彼が過去に戻ってきたのはただ止湮の死を変えるためであり、今夜自分が死亡する運命を変えようとしているのも、すべてはその最終目的のためなのだ。
目的さえ達成できればそれでいい。他のことなど、それに比べればこれっぽちも重要ではない。
――しかしここから先、一体どうすればいいというのだろう。
際允は苦悩のあまり頭が痛くなってきた。武力によって火の元霊を制圧することなど彼には不可能な話。たとえ今この場で口頭での保証を取り付けたところで、この男を再び信頼することなど到底できそうにない。そうなれば、何をどう足掻こうがすべては無意味になってしまう。
「今回もやっぱり前回と同じように俺に殺されるんじゃないかって、それを心配しているんだね?」
輝絡が珍しくこちらの心中を察して、気が利くような口ぶりを見せた。
「そうです」
「そうか」
「……」
そして、その許容量はどうやらそこで底を突いたらしかった。
――なんて意思の通じにくい奴なんだ。




