第二章24 リビングの直角三角形
「ここにいるんだ」
背後から響いた、聞き馴染みがあると同時に鳥肌が立つような声が、際允の思考を現実へと引き戻した。
墨然はその声に応じるように肩を掴んでいた手を離す。際允も無意識に声のする方へと振り返り、そこに立っている声の主の姿を当然のように視界に捉えた。
いつの間にか輝絡は妲依娜との会話を終えて彼女を送り出していたらしく、ダイニングに戻ったものの二人の姿が見当たらなかったため、最終的にキッチンまで探しにやってきたようだった。
その反応から察するに、輝絡には自分たちの対話は聞こえていなかったらしい。やはり、ここで輝絡と十年間も同居してきた墨然だからこそ、男の聴力や屋内の防音性を把握しており、最悪の事態を回避できたのだろう。
際允は一度墨然を振り返り、彼に主導権を握る意思がないことを確認すると、輝絡に向き直る。
「輝絡さん、今ちょっと時間ありますか? ちょっと聞きたいことがあって」
「ああ、ちょうど際允に話したいことがあったんだ」
輝絡はあっさりと頷いて承諾した。それから少し考え込んだ後、際允の背後にいる墨然に向けて言葉を放った。
「墨然はちょっと席を外してくれ」
「え?」
あれだけ大層な綺麗事を並べ立てた直後に壁にぶち当たったのだ、さしもの墨然も呆気にとられる。一瞬だけ少年の墨然特有の、単純で天真爛漫な表情を覗かせた。
「どうしてですか?」
狐疑の目を向けて詰問する際允に、輝絡は冷静に答えた。
「だって、墨然はまだ未成年だからね」
「え、あ? どういう意味? 大人の話をするつもりってこと?」
「そうだね」
「はあ?!」
――墨然くん、リアクションが大きすぎだろ?
その声を聞くだけでも、墨然がすでに極限まで狼狽えているのが手に取るように分かった。
際允の予想では、輝絡は自分たちの間に存在するあの契約の内容や、その経緯について告知するつもりなのだろうと考えていた。
何しろ契約というものは、この世界においては成人して初めて運用できるシステムなのだから、確かに「大人の話題」と言えなくもない。未成年である墨然を排除しようとするのも、それほど奇妙な発想ではなかった。
振り返ると、予期せず、自分の後頭部を見つめていた墨然と視線が交錯する。目を向けられ、墨然の顔に浮かんでいた驚疑の表情はみるみるうちに退いていき、意を決したように輝絡を見据えた。
「ダメだ。俺も話を聞く」
その口調にもまた、毅然とした強さが戻る。
「ふん……その理由は?」
「もう決めたんだから。今日一日、この目から先輩を離れるようなことを絶対に許さないって」
「あ?」
――なに言ってんだこいつ?
今度は際允が呆気にとられる番だった。輝絡もやや困惑したように頭を掻いたが、それでも最終的には折れた。
「まあいい。好きにしな」
かくして彼らは輝絡の意向に従い、リビングへと移動した。輝絡がまず片側の三人掛けソファの端に腰を下ろす。際允はその対面に、墨然は際允の右側に着席した。直角三角形の位置関係になる。
「まず、際允が昨日ここへやってきた理由を教えてもらえる?」
「できるだけ早く契約の内容を知るためだって昨日言ったはずだけど?」
三人が席に着くと、輝絡が真っ先に口にしたその問いに。際允がハッとするより早く、墨然が眉をひそめて言葉を挟む。
それを聞いても、輝絡は変わらず冷静な目を墨然に向けた。
「墨然、お前にこの話に加わせることには同意したけれど、口を挟んでいいって許可した覚えはないよ」
「……チッ」
墨然は不快そうに舌打ちをしたが、それ以上は何も言わなかった。輝絡は再び、目の前の際允へと視線を戻す。
「お前は契約の内容を少しでも早く知るためにここへ来て。そして夜中、妲依娜に対して『俺との契約を優先して確認したい』と。ということは、最初からその契約だけを目的にやってきたんだろう?」
問いかけるような形をとってはいたが、輝絡はその推測に一ミリの狂いもないと確信しているかのように、一度の淀みもなくそのまま先を続けた。
「成人の前にその契約の存在を知り得るなんて、時の能力を通じて行った以外に、俺には他の可能性が思いつかない。どう?」
その顔の表情には微塵の動揺もなかった。明らかにそれが真実であると確信しきっている。
実際、それは紛れもない事実だった。際允としても否定する必要はなかったが、それでも心の底には微かな疑惑が残った。
輝絡は普段、あれほど天然で不思議な様子を見せているくせに、実際はこれほどまでに思考が明晰なのだ。果たして無害を装うためにわざと演技をしているのか、それとも本質がこういう人間なのだろうか。
「その言う通りです」
「それで? どうやって俺たちの契約を知ったんだ? なぜ、そんなにも内容を知るのを急いでいるんだ?」
その碧緑の瞳が、なぜかわずかに見開かれる。
いっそ、包み隠さずすべてを打ち明けてしまおうと考えた。その上で、輝絡がどんな反応を示すかを見て次の手を決めるんだ。
「僕が経験した未来の中で、今日の夜、君に殺害されるんです」
輝絡が目を大きく見開き、その美しい碧緑の瞳をぱちくりと瞬かせるのが見えた。
輝絡のこの驚きは本物なのだろうか。それとも、今は墨然という家族が傍らで耳を傾けているからこそ、演技を続けているのだろうか。
ここでこの男と謎解きゲームに付き合うほどの耐性は際允に残されていなかった。じわじわと苛立ちが募り、彼は半ば投げやりに本質を突きつけた。
「なぜ僕を殺したがってるんですか?」
「なぜお前を殺すんだ?」
輝絡は首を少し傾げ、理解できないといった風に言った。
――それを知りたいのは僕の方だろうが!
なぜこの殺人犯は、終始こうも無実な顔をしていられるのか。
今の輝絡が確かにまだ何も犯していないと分かってはいても、際允の内心にはどうしても怒りの炎が燃え上がらざるを得なかった。
深呼吸をし、必死に冷静さを保ちながら言葉を紡ぐ。
「僕はもう一つの世界を経験したんです。その世界での僕は、今日の夜に君に殺されたから、僕たちの契約の存在を知ることができました。殺される運命を変えるために、時の能力を使ってこの世界の『昨日』へやってきました。そのためには一刻も早く契約の内容を知る必要があり、だから墨然を頼ったんです」
現時点では、輝絡に対して第一の世界で転生した後のことまで話す必要性を感じなかったため、そのまま略した。
この新たな情報を消化するよう、輝絡は数秒間黙り沈んでいた。そしてようやく、最初の感想を口にする。
「奇遇だね」
――あ?
「ちょうど、君にその契約のことを話すつもりだったんだ。両方の問題が一回で解決できるなら、その方がずっと簡単だしね。今すぐ教えてあげるよ、その契約の内容について――」
「ま、待て!」
焦燥に駆られて際允は即座にその言葉を遮った。
話を阻まれたことに対して輝絡はこれっぽっちの不満も見せず、ただ従順に口を閉じて、彼が次の説明を続けるのを待っている。
「なんでそんな風に、あっさりと受け入れるんだ?」
「何を?」
際允は信じられない思いでこの男を見つめ、墨然もまた目を見開いて呆然としているのが横目でも分かる。
それなのに、当の輝絡は、本当に彼の意味が理解できないと言わんばかりの顔で問い返してきた。
「僕が言っているのは、君が――もう一つの世界の君が僕を殺したという事実のことだ! そんなに簡単に受け入れることなんですか?」
「うん」
輝絡はこくりと頷いた。
――どういう意味だ?
――輝絡は自分自身が本当に僕を殺す可能性がある人間だと自覚しているのか? じゃあなぜ、真相を暴かれてもこれほどまでに淡々としたようにいられるんだ?




