第二章22 攻防戦⁉
「墨然も?」
輝絡もさすがに意外だったのか、わずかに目を見開いた。
「道理で、今日の墨然は朝食の前に制服に着替えてなかったわけだ。なるほど」
「ああ」
墨然は一言だけ応じたが、輝絡の方を見ようとはしなかった。正面の際允の位置と距離から見れば、彼が意図的に輝絡と視線を合わせるのを回避しているのは一目瞭然だった。
墨然の輝絡に対する態度に、微細な変化が生じている。
その理由について、夜中に交わしたあの対話以外に思い当たる節などあるはずもない。
だが、墨然は確かに信じないと言ったはずだ。それどころか「『輝絡が先輩を殺した犯人だ』っていう事実の方が、この世で一番あり得ないことなんだ」と言い切ってさえいた。
それなのに、どうしてあんな風に態度を変えるのだろうか。
他の二人の前で疑問を口にできるはずもなかった。際允はただ戸惑いに満ちた目で墨然を見つめることしかできない。
すると隣から、輝絡が続けて問いかける声が響いた。
「どうして学校を休むんだ?」
その言葉の端々には、珍しく機嫌の悪さが滲んでいた。際允が驚いて輝絡の方を盗み見ると、男は不機嫌そうな面持ちで墨然に向けて眉をひそめている。
輝絡が怒っている姿を見るのは、これが初めてだった。
墨然はそこでようやく一度だけ輝絡に視線を向け、すぐにまた視線を逸らして淡々と返した。
「後で話す」
「わかった」
輝絡もそれ以上しつこく追及することはせず、顔に浮かべていた微かな怒りを収めると、再び静かに食事を咀嚼し始めた。
際允の意外そうな表情に気づいたのか、妲依娜が親切そうに説明を付け加えてくれた。
「輝絡は一応、私たちの保護者みたいな立ち位置だからね。そういうことに関してはちょっと厳しいというか」
「私達って……?」
――墨然くんだけじゃないんだ?
「そう。なんたって十年前からこの四人で同居してるからね。あの頃の私はまだ中学生だったんですよ」
妲依娜は少し記憶をたどるようにして補足した。
「私は墨然と同じで、両親が仕事の関係で『契約の国』に残っちゃったから、一人でこの『火の国』に来たの。最初は別の人と同居してたんだけど、ある時同居人の再調整みたいなものがあって、その時私たち四人が同じ部屋に分けられて、それが今でもずっと続いてるってわけ」
輝絡も当然のように妲依娜の言葉を耳にしており、どこか感慨深げな口調で言葉を繋いだ。
「そういえば昨日、帰る前に協会の人に『なにか思うところがあれば』って聞かれたな。もし今の同居人に不満があるなら新しく手配し直してくれるそうだ。毎年、感謝の日の前になると必ず一度は聞かれるんだよね」
「へぇー」
妲依娜の表情はピクリとも動かなかった。彼女は輝絡が「もうお前らとは同居したくない」などという意見を提出する可能性など、ほんの少しでも心配していないのが明らかだった。
それは墨然も同様だ。伏せられたその金色の瞳は、輝絡の方へ向けられることはなかったが、その眼球が揺れることすら一切なかった。
そして輝絡もまた、家族の持つその信頼を裏切ることはなかった。彼は何のためらいもなく、こう告げたのだ。
「確か……『この十年間とても幸せに過ごしてきた。それに、彼らはとっくに大切な家族になってるからね』って答えたな」
「……」
今の自分の顔色は、きっと相当酷いことになっているに違いない。墨然は真っ先に、複雑な感情の入り混じった眼差しをこちらへと向けてきた。
だが際允には、それを気にかけるだけの余裕は残されていなかった。他の二人にその表情を悟られる前に、ただ静かに頭を垂れるしかない。
そうして、突如として味のしなくなったトーストを無理やり口の中へ、お腹の中へと、押し込んでいった。
先に食事を終えた妲依娜と墨然の二人が、それぞれ自ら使った食器をキッチンの流し台へ持って行って洗うのを見て、際允も食べ終えると同じように皿とカップを手に持つ。
そして立ち上がろうとした、その瞬間。
ガタッと、椅子が床を擦る音が際允の動作を遮った。
墨然が椅子を押し引き、立ち上がって傍らへと歩み寄ると、真っ直ぐに自分を凝視した。
折よく妲依娜が玄関先で靴を履きながら輝絡と話を交わしているところだった。遠目には仕事関連の話題だろうと大体の予測しかつかないが、二人は少し離れたダイニングの中に奇妙な空気が流れていることには全く気づいていない。
「先輩、少しいいですか?」
墨然は声を潜めた。五十センチと離れていない至近距離から放たれたその言葉は、際允の耳にはっきりと捕らえられた。
――どうやらこの短い朝ご飯の時間に僕が感じたあらゆる違和感について、ついに説明するつもりなんだな。
際允はそれを理解し、こくりと頷いた。すると次の瞬間――。
墨然が唐突に、彼に向かって両手を伸ばしてきた。
反射的にびくりと身体を震わせ、危うく手の中の陶器とガラスの容器をひっくり返しそうになる。しかし、その張本人である墨然は一言も発さず、問答無用で彼の手からそれらの食器を奪い去ると、すぐさま振り返って奥のキッチンへと歩き出した。
「え? ちょっ、待てって……おい」
呼びかける声を聞いて、墨然はキッチンの入り口で足を止めた。だが少年はただ黙って振り返り、際允がついてくるのを待っている。
際允は言葉を失ったまま足を動かし墨然の隣へと歩み寄りながら、思わず考えてしまった。この後輩は、まるで人間の持ち物を咥えて奪い去り、ただ自分の思い通りにさせようとする犬や猫のようだな、と。
違ったのは、墨然は自分が大人しくついてきたのを見ると、そのまま自ら流し台へと向かい、食器をシンクに置いて蛇口をひねり、そうして直接洗い始めたことだ。
仕方がなく際允も流し台の横までついていき、身体をそこによりかけながら、墨然のその無表情な顔を呆れたような目で見つめる。
「自分で洗えるんだけど……」
「わかっています」
口ではそう言ったものの、その手の動きは一瞬たりとも止まらなかった。どう見ても、自分に落ち度があるとはこれっぽっちも思っていない様子だ。
厳密に言えば、一般的に「お客の使った食器を代わりに洗うこと」に問題があるとは見なされないのが普通だろう。ただ際允の性格上、それを素直に受け入れることがどうしてもできなかったのだ。
とはいえ、どれほど受け入れたくなくとも、墨然が役目を引き渡してくれない以上、際允としても食器を割るリスクを冒してまで奪い返すわけにはいかない。
結局、ただ静かに待つしかなかった。
今の自分なら、第一の世界で自分の家事姿を見つめていた止湮の気持ちが、ようやく少しだけ理解できるような気がした。




