第二章21 イレギュラーな朝
際允が目を覚ました朝の七時に、墨然の姿はすでに部屋にはなかった。床に敷かれていたはずの布団や枕もきれいに片付けられていた。
ベッドから下りて部屋のドアを開けると、すぐにダイニングの方から妲依娜の元気な声が飛んできた。
「際允くんおはよう! こっち来て朝ご飯食べましょう!」
「おはようございます。すぐ行きます」
そう応じて、際允は先に洗面所で身支度を整えてからダイニングへと向かう。
そこでは妲依娜と墨然が昨夜と同じ席に並んで座っていた。輝絡と由心の姿は見当たらない。
際允が昨夜座った席には、まだ誰も手をつけていないトーストや目玉焼き、牛乳といった一人分の朝食が並べられていた。明らかに自分のために用意されたものだ。
席に着き、「ありがとうございます。じゃあいただきます」と言い箸をつけた。
「由心は部活の朝練があるからって早く出かけました」
際允が他の二人の行方を尋ねるより前に、正面に座る墨然が自らそれを教えてくれた。
墨然は手にしたチョコレートジャム付きのトーストをゆっくりと咀嚼しながら、いつも通り淡々とした声で言う。昨夜遅くに眠りについた影響は微塵も感じられず、その顔に眠気の欠片すらない。
「そうなんだ」
生返事をしながら昨夜の対話を思い出すと同時に、際允は思わず墨然を睨みつけてしまった。墨然がその視線に気づかないはずはなかったが、ただ黙ってそれを受け止め、何の反応も示さなかった。
「輝絡はまだ起きてないみたい。もうちょっと待って起きてこなかったら、私が呼びに行こうかな」
まだ少し眠そうに大きなあくびをした妲依娜は片手に新聞を広げ、もう片方の手にはコーヒーの入ったマグカップを握っている。
「実は今日の輝絡は休みなんですよ。なんたって『火の感謝の日』だし。火の元霊ともあろう者が社畜みたいに律儀にカレンダー通り働いてたら、いくらブラック企業の契約管理協会だってさすがに見過ごせないからね」
「そうですか……。でも、休みならどうしてわざわざ起こしに行くのでしょうか?」
「だって輝絡って本当に朝が弱くてね、平日だろうが休日だろうが誰かが起こしに行かないと延々と眠り続けちゃうの。放っておいたら早くても午後二時に起きるくらい。しかも、誰かが起こしに行ってもなかなか起きないし――ん?」
突然、妲依娜が輝絡の部屋の方へと大きく目を見開いた。まるで幽霊でも見たかのような表情で、瞬く間にその顔から眠気が完全に吹き飛んでいく。
思わず彼女の視線を追って振り返ると、そこには際允の脳裏に深く焼き付いている、あの面容が佇んでいた。
輝絡が自室から出てきたのだ。黒縁メガネの奥にある澄んだ碧緑の瞳は、男が確かに目が覚めたという事実を告げていた。
彼は今、静かな、けれど微かな疑惑を孕んだ眼差しで、食卓の前で驚愕あるいは驚恐に目を見張る三人を見返している。
「輝絡が……起きてる……?」
「輝絡が誰にも起こされずにこんなに早く起きてくるなんて、初めて見たかも……」
――いくら何でも大袈裟すぎだろ。
墨然が信じられないといった様子でぽつりと呟いく同時に、妲依娜も呆然とした声を漏らす。第一の世界の犯人に遭遇した自分以上のリアクションを見せる二人を前にして、際允は緊張の中にも、どこか割り切れない無力感を覚えずにはいられなかった。
全員の注目を浴びながら、輝絡はダイニングへと歩みを進めた。そして当たり前と言わんばかりの顔で、際允のすぐ隣にある空席の椅子を引き、腰を下ろした。
際允の全身が思わず再び強張った。正面の墨然も明らかにびくりと身体を震わせ、それでようやく我に返ったようだった。
「おはよう」
そう言うと、輝絡は昨夜自分が座っていた席の前に配膳されていた朝食に目を留めた。そして半身を起こし長い腕を伸ばして、料理を一つずつ今座っている席の前へと引き寄せ始めたる
わざわざそんな面倒で時間のかかる真似をするあたり、際允の隣というこの席を離れて元の席に戻るという選択肢など、彼の頭には最初から存在していないかのようだった。
「輝絡、どうしたの? まさか熱?」
「どうしてそう聞くんだ?」
輝絡は二人の家族の反応がいまだに理解できないらしく、逆に問い返しながら、目玉焼きをフォークで突き刺して物憂げに口へと運んだ。
「私たち、ルームメイトになって十年だよ? それなのに、誰も起こしに行ってないのに輝絡がこんなに早く起きてきたところなんて、一度だって見たことないんだってば!」
「そうか?」
大袈裟に両手で「十」のジェスチャーを作ってみせた妲依娜に、輝絡本人はしばらく記憶を手繰り寄せた後で、冷静に返す。
「そう言われてみれば、確かにそうだったかもしれない」
妲依娜は「もうだめだ」と言わんばかりに首を横に振り、再び視線を新聞へと戻した。
一方の墨然は片手で顎を支えながらうつむいて考え込んでいる。何が原因で輝絡に西から太陽が昇るレベルの天変地異が起きたのか、その理由を脳内で帰納的に整理している最中であろう。
しばらくして、墨然はひとつの結論に達したかのように再び顔を上げた。
そして、際允を一瞥した。
「えっ?」
深く考える間もなく、際允の思考は妲依娜の声によって遮られた。
「あ、そうだ。さっき墨然から聞いたんだけど、際允くんは今日、学校を休むんだって?」
「おや? それは奇遇だね」
輝絡がそう言葉を挟んだが、その口調にはさほど驚きの感情は含まれていなかった。同時に、前を向いたまま頭はほとんど動かさず、ただ眼球だけを際允の方へと転がしてくる。
輝絡に見つめられるたび、胸を不吉な予感だけが満たしていく。
左隣にいる男を必死に無視しながら、際允は問いかけてきた妲依娜に向けて「はい」と答えた。
この後、妲依娜が仕事に行き、墨然が学校へ行けば、この家の中には際允と輝絡の二人だけが残されることになる。その時こそが、輝絡から話を訊き出す絶好の好機になるはずだ――。
「もう、あんたたちってば」
妲依娜は不機嫌そうに指先でテーブルを数回叩いた。
「三人揃いも揃って休みだの欠席だのって。そんな都合のいい偶然があるわけないでしょ、絶対にあらかじめ約束してたんだね?」
……三人?
際允はハッとして顔を上げた。正面の墨然は彼の錯愕をとうに予期していたかのように、ただ静かに見返してくる。
その瞳の奥底には、かすかに怨嗟の情が揺らめいているように見えた。




