第二章20 残された香気
自分の言葉が逆効果だったことを悟ったのか、墨然は途方に暮れたように瞬きをして際允を見つめる。
普段の際允なら、そんな彼の反応を少しは可愛らしいと思ったかもしれない。だが、今はただ全身が冷え切っていた。墨然に向ける眼差しさえも極寒の氷のように凍てついている。
際允は感情を表に出さないよう必死に抑え、抑揚のない声で言った。
「もう寝よう。君、明日――今日も朝早くから学校だろう?」
もう、墨然に信じてもらうことは諦めた。
墨然もその意図を察したらしい。一瞬、際允からすれば理不尽極まりないほどの悲しみがその顔に走ったが、すぐにいつもの落ち着きを取り戻した。
「先輩は今、輝絡を見つけた。それで、これからどうするつもりですか?」
墨然が輝絡を犯人だと信じていないのは明白だった。しかし、際允の決意が固いことも理解している。だから信じるか信じまいかというのは一旦置いておき、具体的な行動について問いを投げかけてきたのだろう。
「今夜の死を避けるだけなら簡単だ。でも、輝絡の動機がわからない以上、明日以降もあいつが僕を殺そうとしない保証はない」
際允は淡々と告げた。
「今日の昼間に、何とかしてあいつから話を聞き出してみる。その上でどうするか考えるよ」
「じゃあ、先輩は今日、学校に行かないのですね?」
「行かない。欠席する」
「わかった」
墨然は少し考え込んでうたが、ほかに聞くべきことも思い当たらない様子で、最後にこう付け加える。
「先輩、俺に何かできることがあれば、遠慮なく言ってください」
その言葉を聞いて、際允はただ不快感だけを覚えた。
輝絡が犯人だということをこれっぽっちも信じていないの墨然なら、一体何ができるというのか。
際允が黙り込んでいると、墨然がまた口を開いた。
「輝絡が人殺しだとは、今でも信じられません。……でも、先輩が今夜殺されるかもしれないっていうことは、信じている。俺は、あなたの死の運命を変える手助けがしたいんです」
墨然が助けたいと思おうが思うまいが、それがどうしたというのか。
結局のところ、第一の世界での死は墨然とは何の関係もなかった。
それに、今、こうして死の真相を打ち明け、関わる機会を与えてやったというのに、彼は輝絡が犯人であるという事実すら信じようとしない。そんな人間に、どうやって死の運命を止められるというのか。
もう、この男とは話をしたくない。
そう考えながらも、際允は不快感を無理やり抑え込み、素っ気なく言った。
「ありがとう。必要があるなら、お願いするよ」
明らかに顔色が悪いままの際允のことを、墨然はじっと見つめていた。
「俺が頼りになると、信じられないんですね?」
その声は、どこか寂しげに響いた。第一の世界で止湮が亡くなった日、あの墨然が何度か同じようなトーンで自分に話しかけてきたことを思い出した。
あの時は、墨然が際允を信じ、そして際允にも同じように自分を信じてほしいと願っていただろう。
なのに今の彼は、際允を信じてもいないくせに、自分を信じてほしいなどと言っている。まるで駄々をこねる子供のようだった。
……まあ、実際、まだ十六歳の子供に過ぎないのだが。
緊張した面持ちで返答を待つ墨然の姿を見ていると、心の中に渦巻いていた失望や怒り、悲しみ、嫉妬といった負の感情が、少しだけ凪いでいくのを感じた。
墨然にとって、際允への信頼は輝絡へのそれには及ばない。輝絡が明日の夜、自分を殺す犯人だという事実を信じられないのも、また現実だ。
けれど、墨然が際允の安否を案じ、その生と死を重く受け止め、死の運命を変えたいと願っているのも、また紛れもない事実だった。
「さっき、部屋に泊めてくれたこと、ありがとう」
際允は少しだけ声音を和らげて言った。口にしながら、まるで子供をあやしているような気分になる。
だが、今の言葉こそが、たとえ輝絡を真犯人だと信じられなくとも、墨然が自分の死の運命を変える助けになり得るという証拠なのだろう。
……もっとも、その助けもひどく限定的なものになるだろうけれど。
「別に」
墨然は、まだどこかぎこちなくその感謝を受け入れた。
対話はそこで終わった。墨然がクローゼットから予備の枕と二枚の毛布を取り出し、ベッドの横に寝床を整える。そしてドアのそばへ歩み寄り、壁のスイッチに手をかけた。
「先輩、電気消しても?」
「ああ」
パチン、と音がして光が消えた。
墨然は床の布団に入り、横になった。際允も毛布に足を滑り込ませ、墨然のシングルベッドの上に座りながら、ポケットから出したスマートフォンで時間を確認する。一時を少し回ったところだった。
午前七時のアラームを設定し、サイドテーブルに置こうと身体を捻った瞬間、ふと、ある声が脳裏に響いた。
――「実は今日、日付変わった時まで起きてて、メッセージを送ろうかとも思ったんだけど……。どうせ今日学校で会うしなって思って、結局やめたんだけどね」
それは第一の世界で、際允の十八歳の誕生日の朝、教室で止湮がかけてくれた言葉だった。あの時の自分は「いいよ」と返したはずだ。
彼はもう一度スマートフォンを見た。案の定、第一の世界と同じように、止湮からの祝辞メッセージは届いていない。
――たった一言じゃないか。
――なぜ、こんなに気になる? なぜ、こんなに虚しさを感じるんだ?
自分でもわけがわからなかった。止湮との過去のやり取りが表示された画面が、どうしようもなく名残惜しく感じられたが、結局は無理やり視線を逸らして、スマホをサイドテーブルの上に置いた。
際允は、ようやく墨然のベッドに横たわった。
暖房の効いた部屋の中、ぬくぬくとした布団に身を縮める。ふわりと鼻先をかすめたのは、どこか嗅ぎ慣れぬ、けれど心地いい残り香だった。
生き物としての安心感に満たされた環境で、睡魔が急速に際允を襲い、意識が遠のいていく。
微睡みの中、彼は思い出す。これが、何の匂いだったのかを。
――金木犀。
あの日、あの黄色い布団に残っていた――墨然の、匂いだ。




