第二章19 この世で一番、あり得ないこと
墨然に促され、際允はベッドの縁に腰を下ろした。墨然は傍らの椅子を引き寄せ、際允と向かい合うようにして座る。
「じゃあ、聞かせてもらいます」
墨然は一呼吸置き、際允に異議がないことを確かめてから続けた。
「今日――いや、昨日の午後、先輩は『未来を変えなければ、今日の夜に殺される』と言いました。そして、犯人はあなたが持ってる契約の相手だとも。……間違っていませんよね?」
「ああ。そういうことだ」
「その犯人は……輝絡、なんですか?」
「そうだ」
墨然は深く息を吐き出した。
「どうしてですか?」
その顔が、苦悶に歪んでいく。
「どうして、輝絡が先輩を殺す必要があるんですか?」
――そんなこと、こっちが知りたいんだが。
「わからない。殺される前に、彼は理由を一切口にしなかったから」
際允は努めて冷静さを保ちながら答えた。
「場所は? 時間は? ……あいつはどうやってあなたを殺したんですか?」
第一の世界での、警察官になった墨然の印象が強すぎるせいだろうか。まるで警察の取り調べを受けているような錯覚に陥る。被害者は自分の方だというのに。
際允は胸の内の不快な違和感を押し殺し、言葉を繋いだ。
「今日の夜八時過ぎ、寮の自室の入り口だ。刃物で腹部を刺された。おそらくは失血死だろうけど、すぐに意識を失って、次に目が覚めた時には転生していた。だから正確な死因まではわからない」
「刃物? 腹部? 死因が不明……?」
墨然は、気になったキーワードをなぞるように復唱した。
彼はしばらく黙ったまま考え込んでしまう。際允もまた、彼にとって衝撃的であろう情報を整理し、飲み込むのを静かに待っていた。
「今世の記憶を持って転生したのに、自分の死因を知らない、ということですよね? 調べなかったのですか? 警察の捜査が入らないなんて、あり得ないでしょうし……」
「僕が死んだ後、警察は自殺として処理したんだ」
墨然の目が見開かれた。
「転生した後、事件の真相と輝絡を捜そうとしてくれた人もいたけれど、成果は得られなかった」
一度に多くの情報を与えすぎて混乱させたくなかった。そのため、第一の世界の止湮や、墨然自身のことまでは伏せておく。
「輝絡が先輩を殺した後、火の教会や契約管理協会が真相を隠蔽し、あいつの足取りを消したと……。そういうことですか?」
眉を寄せて聞いてきた墨然に、際允は静かに頷いた。
肯定の答えを得てもなお、墨然の瞳に宿る疑念が晴れることはなかった。
「本当に、輝絡だったと断言できますでしょうか?」
「……」
これくらいの反応は覚悟していたつもりだ。
何の証拠も提示できず、ただ言葉だけで説得しようとする自分よりも、長年連れ添った「家族」を信じたいと思うのは、あまりにも正常で合理的な判断だ。
だというのに――どうしてこれほどまでに苛立ちが募るのだろうか。
「僕を殺した男は自らを『輝絡』と名乗り、容姿も声も、輝絡と全く同じだった。殺される前に接触もあった。彼は僕に三つの契約があることを知っていて、そのうちの一つが彼と僕の間の契約であることも確認していたよ」
胸の内の鬱屈を悟られぬよう、際允は意図的に起伏を抑えて淡々と語った。そのせいで、声の調子はどこか硬く響いてしまう。
ここまで言えば、理性的で聡明な墨然なら受け入れてくれるだろう――そう思っていた。
けれど、墨然の眉間の皺が伸びる兆しはなく、それどころか困惑と悲しみが混じった眼差しを向けられた。
「どうして輝絡が『刃物で腹部を刺す』なんて方法で、先輩を殺すんですか? 火の元霊なんだから、もし本当に殺さなきゃならない理由があったとしても、火の能力を使えば済む話じゃいですか」
……。
――そんなの知るわけないだろ。
どうやって知ればいいというのだ。被害者である自分が、なぜ犯人がその手口を選んだのかなんてわかるわけがない。第一の世界で死んだ後、輝絡を見つけ出すことさえできなかったのに、どこに正解が転がっているというのか。
「わからない。……それがそんなに重要なことか?」
「先輩、もしかしたら、あなたの記憶違いとか、何か勘違いしてるんじゃないですか?」
「僕は……」
「あなたの言ってる犯行プロセスには不合理な点がある。それに、犯人の動機もわからないですよね? それなのに輝絡を犯人と決めつけるのは、ちょっと受け入れがたいことだと思ってしまうんです」
「犯人と僕の間に契約が存在していたと確信していても、なのか?」
「でも、それはあなたの記憶の中にしかないものでしょう? 見間違いか、あるいは記憶の混濁かもしれない」
墨然は両拳を強く握りしめた。
「それに、あなたには養子縁組契約と、輝絡との契約以外に、もう一つ契約があるんじゃないですか。その契約相手が輝絡の姿に化けて、すべてを仕組んだ可能性だってあるんじゃないですか?」
「そんな馬鹿な……いくら何でもこじつけが過ぎるだろ」
そんな仮説を必死に口にする墨然を、際允は信じられない思いで見つめた。
墨然は視線を落とし、一時、言葉を失う。
「……俺にとっては……『輝絡が先輩を殺した犯人だ』っていう事実の方が、この世で一番あり得ないことなんだ」
墨然は、輝絡が殺人犯になり得るという事実を信じたくないのだ。
ただ、輝絡の疑いを晴らしたいだけ。だからこそ、際允の言葉も記憶も信じようとしない。
墨然の反論には、一理ある言葉も混ざっている。けれど際允にはわかっていた。今の墨然にとって、それは真相を追求するための議論ではなく、ただ輝絡が犯人だという可能性を打ち消すための、苦しい言い逃れに過ぎないということが。
「どうすれば、信じてくれる?」
「……自分にも、わかりません」
「……」
――今夜死んで見せれば、信じてくれるのだろうか。
そんな思考が一瞬脳裏をよぎったことに、自分自身が一番驚愕した。
証拠もなく、最初の世界から持ち帰れたものは記憶以外に何もない。知っている事実はすべて打ち明けた。心を切り開き、ありのままを墨然の前にさらけ出したのだ。
それでもなお、墨然は彼を信じない――信じたくないのだ。
ならば、自分が何をしようと意味はない。
際允はうなだれた。墨然の疑いに満ちた表情をこれ以上見たくなかった。前髪でその視線を遮ってしまいたかった。
輝絡の家族が、証拠のない自分の告発よりも、長年共にした輝絡を信じるのは予想していたことだ。
けれど、どこかで期待していたのだ。
墨然なら、ちゃんと説明すれば信じてくれるはずだと。
墨然なら。
自分の危機を知ってなりふり構わず駆けつけてくれた、あの墨然なら。
何度も自分を信じろと言った、あの墨然なら。
無事を確認して心から笑ってくれた、あの墨然なら……。
結局、すべては際允の独りよがりな期待だった。
――「今度はやっと、間に合った」
第一の世界の墨然は、確かにそう言った。
まるで、際允・ランニオンの死を事前に知っていれば、あらゆる手段を尽くして阻止したと言わんばかりに。
それなのに、いざ事前に伝えてみれば、信じてもらえないのではないか。
「もういい。信じないなら、それでいいよ」
口から出た自分の声の冷たさに、墨然だけでなく際允自身も一瞬、呆然とした。
顔を上げて墨然の反応を確かめると、相手は複雑な表情のまま沈黙していた。
やがて、自分が信じなかったことで際允がひどく落ち込んでしまったのだと理解したのか、なだめるように、少し慌てた様子で再び口を開いた。
「……い、いや、先輩の言ってることを信じてないわけじゃないんだ。ただ……」
――信じてないのに。
「ただ、輝絡があんなことをする奴だとは、どうしても思えないんだ」
反吐が出る。
輝絡こそが犯人だというのに、どうして被害者である自分よりも、あいつの方が信じられるというのか。
どうして人殺しの輝絡は何もしなくても信頼され、被害者の自分がどれだけ理を尽くしても意味がないのか。
――ただ、輝絡が彼らにとっての「家族」だから?
だから、合理性も条件も代償も抜きにして、何もかもをかなぐり捨ててあの男を信じられるのか。
人殺しのくせに、なぜこれほどまでに幸運で、幸福でいられるのか。
そう思うと、際允の胸の奥に鈍い痛みが走り、呼吸が荒くなった。四肢から這い上がってきた冷気が、瞬く間に全身へと広がっていく。
……なら、自分はどうなんだ?
この世界で孤独な自分を、あんな風に信じてくれる人間が、果たして誰かいるのだろうか。
第一の世界で、自分を完全に信じ、真相を暴こうとしてくれた止湮の姿が脳裏をよぎった。
この第二の世界に来て、止湮に隠し事をする道を選んだのは、彼をあの事件に巻き込まず、死の運命から遠ざけるためだった。
墨然に打ち明けたのは、彼なら自分を信じてくれて、多少なりとも助けになってくれればと期待したからだ。
最初から、間違っていたのだろうか。




