第二章18 信じるべき相手は
あの時の光景を思い出すだけで、際允の胸を強烈な感情が埋め尽くした。それはまるで毛糸玉のように複雑に絡み合い、解けるはずもない。
呼吸は圧迫され、押し潰された心臓が鼓動を打つたびに悲鳴のような痛みを上げる。熱くなった目頭がじわりと潤んでいく。
あの時の墨然は、止湮から「殺人犯」として送られてきた似顔絵を見た時、一体何を思ったのだろうか。
第一の世界の墨然は、際允が何者かに殺されたことをとっくに察していた。それに、目暁という名の子供が際允の転生体であることにも気づいていたようだった。
ならばあの時、彼はその絵こそが、被害者自身が指し示した犯人なのだと理解したのだろうか。
果たして、墨然は信じてくれたのだろうか。
仮に信じていたのだとしたら、なぜ彼らは最後まで輝絡を見つけ出せなかったのか。
第一の世界で、輝絡の凶行は火の教会によって隠蔽され、庇護されていると止湮と際允は考えていた。だが、輝絡の正体が火の元霊であるならば、隠蔽に手を貸していたのは火の教会だけではなく、契約管理協会も含まれていたに違いない。
しかし、墨然と輝絡は何年もの時を共に過ごしてきた、よく知る家族なのだ。もし墨然に真実を明らかにする意志が本当にあったのなら、たとえ守秘契約に縛られていたとしても、間接的なヒントを与えることくらいはできたはずだ。
止湮が帶契者として輝絡の正体を知っていたことを踏まえれば、六年にも及ぶ調査が足踏み状態で終わるなんて、本来なら考えにくい。
仮に、あの墨然が、信じていなかったのだとしたら――。
もし墨然が最後まで輝絡を家族と見なし、その潔白を信じていたのだとしたら。調査の中、輝絡を庇うようなことさえした可能性だって、十分に考えられるのではないか。
それが意図的なものであれ無意識のものであれ、輝絡が犯人であるという真実から目を逸らすために、手がかりや証拠を誤った方向へ解釈し、その結果、調査は虚しく空転し続けたのではないか……。
……。
際允は、目の前の机に置かれた四人の集合写真をじっと凝視した。
どれほど知恵を絞っても、第一の世界の墨然が「輝絡が犯人だ」なんて話を信じる姿が、どうしても想像できなかった。
なぜなら、自分自身がそういう人間だからだ。止湮が自分宛てに遺書を残してくれていなければ、際允だって彼が約束を破って自殺したなんて一生信じなかっただろう。客観的に見て、その二つの出来事の深刻さは全く別次元だとしても、だ。
では、この世界の、今の墨然はどうだろうか。彼は自分を信じてくれるだろうか。
確信があるわけではない。けれど、第一の世界に比べれば、確かに少しだけ自信があった。
何しろ、あの事件はこの世界ではまだ起きていないのだ。運命を変え、未然に防げる可能性も残されている。
こちらの墨然にとってみれば、それはあくまで「別の世界で起きた出来事」であり、感情的な拒絶によって理性を失い、盲目的に否定することもないかもしれない。
それに、先ほど墨然が強硬に「俺の部屋で」と言い張ったのは、少なくとも彼の中に、輝絡が犯人である可能性を信じる気持ちが欠片ほどでもあったからではないだろうか。
そこまで考えが至り、鉛のように重かった心は、ようやく少しだけ軽くなった。
そして、彼は気づいた。
自分は心の奥底で、墨然に信じてもらえることを切望していたのだ、ということに。
自分は墨然を信じたい。だから、墨然にも自分を信じてほしい。
なぜそんな考えが生まれたのだろう。
まだ、それほど親しいわけでもない先輩と後輩の関係でしかないのに、どうしてこれほどまでに強い欲求を抱いてしまうのか。
その四人の、ありふれた日常を切り取った家族写真を凝視しながら、彼はその答えを薄々と理解していた。
ただ、複雑な思いを抱えたままそっと目を閉じ、部屋の主の帰りを静かに待った。
輝絡が帰ってくるよりもずっと前、際允を含む他の四人はすでに順番に風呂を済ませ、眠るための部屋着に着替えていた。
もちろん、際允は寮に荷物を取りに帰る余裕などなかったので、墨然から借りた清潔な服を身に纏っている。
風呂から上がってダイニングに戻った時、墨然がなぜか放心したような顔で、じっと自分を見ていたことを思い出した。
今、墨然は洗面所で身支度を整えているはずだが、その時間は際允の予想を遥かに超えて長引いていた。
きっと墨然にとっても、部屋に入って際允と向き合うには、それ相応の心の準備が必要なのだろう。
ベッドの脇に立ち、際允はポケットからスマホを取り出して時間を確認した。
すでに深夜の一時を回ろうとしている。明日も早くから活動する学生や社会人にとっては、いい加減眠らなければ確実に睡眠不足に陥る時間帯だ。
幸い、彼は元から昼間に休みを取って契約管理協会へ行くつもりだった。その必要がなくなった今でも、今夜訪れるはずの死をいかに回避するかを熟考するために、予定通り学校は休むつもりでいる。
けれど、学校に行かないとなれば、第一の世界と同じように、十八歳の誕生日という日に止湮と会うことはできなくなる。
プレゼントもカードもケーキもいらない。だけど、止湮から「誕生日おめでとう」という言葉だけは欲しかったな、と際允は思った。
「運命を変えて生き延びれば、チャンスなんざいくらでもあるさ!」なんていう楽観的で能天気な考えは、この際通用しない。
これは高校生活最後の誕生日なのだ。卒業後、止湮との関係を維持できる確信など微塵もない。来年の今日、再び止湮の口からお祝いの言葉を聞ける保証なんてどこにもないのだ。
だから、自分の選択に後悔はないとしても、やはり寂しさを禁じ得なかった。
その時、ドアを叩く三回のノック音が、際允の思考を遮った。
振り返り、ドアに向かって「どうぞ」と声をかけると、扉が外から開かれる。入ってきたのは案の定、墨然だった。
墨然はドアを閉めると、真っ直ぐに際允のそばまで歩み寄ってくる。
「先輩、少しいいですか?」
際允は、こくりと頷いた。




