やらなければ始まらない
「ニコラス様あぁぁぁぁああああ!」
お、これはフィリの声だ。声の遠さからして屋敷の外にいるのだろう。
一触即発な執務室でこの遠い声が聞こえているのはたぶん僕だけだ。いや、ノイマン兄の顔が一瞬ゆがんだので兄も気が付いたのだろう。
ここでフィリが乱入したらどうなるのだろうかと考え始めたところで
ドアの対面に位置した窓が割れ、買い物用の藤篭を持ったフィリが突入してきた。フィリ、北方ガラスは高いと父が言っていたのを忘れたのか。
窓を突き破り父の執務用の机に飛び乗る様は、顔見知りでなければ襲撃と勘違いされただろう。現にベックは今まで抜かずに我慢していたであろうナイフを抜き構えている。
フィリの参入によって余計危険度が増した。
だがこれは、チャンスだ。
「フィリ! 四三五!」
体は震えて動かないが、口なら動く。僕とフィリだけがわかる対アリーナ姉用戦術暗号を告げる。まさか姉以外に対して使うとは思っていなかった。
暗号内容は『僕を連れて脱兎のごとく逃げろ』だ。
部屋の惨状を見て何かを言おうとしたフィリが暗号を聞いたとたんに僕に向けて走る。
走った勢いのまま僕の腹をすくい上げる形で僕を攫い、お亡くなりになったドアから執務室を後にする。腹への衝撃は嘔吐してもおかしくない衝撃だったが、自分がした命令なので耐えられる。四三五は命の安全のみ考えた最速の緊急避難暗号だ。
高速で遠のいていく執務室で青白い炎が上がったのが見えた。この脱出劇を合図にして文字通り火ぶたが切られた。
後ろ向きに流れていく景色の中にルーサとカリファが追ってくるのが見える。だがすぐに引き離される。
このままではフィリがどこまでも走ってしまうので「使用人棟の談話室」とつぶやいて行き先を示す。
屋敷の門まで来ていたせいで急激に曲がることになった。衝撃は耐えられるがこの腹への圧迫感はまずい。上から出るより下から出るほうが早そうだ。
なんとか我慢していると、目的地に到着したようだ。
優しく木の床に降ろされる。最低限のものしか置かれていない使用人用の味気ない談話室。安心感で決壊しそうだ。
逃げれた実感を確かめるようにリビングを見回していると、不意にフィリに抱きしめられた。
「ニコラス様っ、大丈夫ですかニコラス様っ、あぁ額にお怪我が!」
額の切り傷に気づいて僕の肩を前後に揺らし始める。
そういえばベックに切られてたんだったな。
体内魔力を循環させ体を活性化する。秒も待たずに額にむずがゆさが起こり傷がふさがったのを感じた。
「あぁよかったニコラス様、さすがです! ところでどうしてあんな場所にいたのですか、どういう状況かよくわかりませんでしたけどすっごく危なかったのはわかります! ニコラス様は来週には旅立ってしまうのでしょう、それなのにあんな危ない場所に、旅立ってしまうのに……たびだっでじまうのに」
目の前で突然鼻水を流しぼろぼろと泣き出してしまうフィリ。
まぁフィリが泣くのはいつものことだ。そんなことよりも今は大事なことがある。
泣いてるフィリの肩をつかみ真剣に目を見つめる。
「フィリ」
僕の真剣な表情にフィリの涙が一瞬止まる。
「そんなことよりトイレに行かせてくれ、決壊しそうだ」
フィリは上から洪水を、僕はトイレで下から黄水を流す。
なぜ紅茶とはここまで尿意を誘うのだろうか。用を済ませてリビングへ戻ると、泣いているフィリをルーサが慰め、その後ろでカリファが忍び笑いをしていた。二人も無事脱出できたようだ。
夕飯前とあって使用人棟には今ここにいる四人意外は誰もいないようだ。
フィリが「旅立ってしまう、旅立ってしまう」と呟きながら涙を流している。これで今回の発端の「今日旅立つ」ということを明かしたらどうなるのだろう。いつもの如く泣くだけだなきっと。
談話室に置かれた簡素な木のテーブルに着く。それを見て、笑っていただけのカリファが忍び笑いをしながら紅茶を入れに行こうとするがもういらないので手で制す。
「なんか大変なことになったけどとりあえずみんな、座ってくれ」
ドラグスレイヤー家では内内であれば兄の方針で使用人も貴族と同じ席に着くことが許されている。それでも会議などの時のみだが。
三人が静かに席に着く。
席に着いたと同時にカリファの忍び笑いが崩壊し声をあげだす。
「ぶぅわっあっはははははははは! 何あの状況、おもしろすぎるんですけどぉ! ねぇねえニコラス様、何があったらあんな状況を作り出せるんですか? ニコラス様はノイマン様と同じでやっぱり天才? 大天才なの? あっははははははっはっはは!」
流石は兄といつも一緒にいるだけのことはある。カリファは何でもかんでも笑うのだ。それもとても楽しそうに笑う。兄の頭のおかしい実験を笑ってみていられるのはカリファだけだ。
しかもこの性格で見た目は美人ときているので質が悪い。きれいな赤毛をツインテールにし、ルビー色をした切れ長の目で相手を魅了する、侯爵家の貴族令嬢だと言われても信じてしまえる。ただし黙っていればの話だ。
昔うちに来た僕と同年の貴族がカリファを見て恋に落ちたことをよく覚えている。それをカリファが見えないところで「ぶっふぁっあのおぼっちゃま私にときめいてやがる、マセガキやばすぎ、ばかうけるわはははははは」と涙を流し笑っていた。以来、その子とは顔を合わせづらく会っていない。
そんな彼女たちとも今日でお別れ。
今日旅に出ることは決定事項だ。誰が何と言おうと僕は家を出る。
そう思うとこのメイドたちが愛おしく思えてくる。
小さいころから僕の面倒を見てくれたフィリ。肩口でそろえられた栗毛がうつむく顔で影を作っている。フィリが時折見せる笑顔はそばかす顔と相まって素朴で好きだった。
ルーサは今も心配顔でこちらとフィリを交互に見ている。姉が学園に行っている今はフリーとなり自由時間が多かったはずだが、存来の心配性が祟ったのかいつも仕事をしていた。仕事はするがすぐにおろおろとさまよいだす姉付メイド。姉付のくせに姉を放置しやがって。きっとあの奔放すぎる性格は幼少期から面倒を見ているはずのルーサがしつけなかったせいだ。
カリファ、いい加減落ち着け。
様々な思い出がよみがえり、「ふぅ」と一息つく。
メイドたちは僕が口を開くのを待っていてくれた。カリファは知らない。
遠くでいろいろと破砕音や剣劇の音やらが聞こえてくるがもう関係ない。今はただ一連の失敗を取り返して今日出立するための準備をするのだ。
「父の執務室でいろいろあったが、詳しくは後でルーサに聞いてくれ。フィリ、今から大事なことを言うから泣くのは無しだ。カリファも笑うな」
流石に命令となれば二人は感情を無理やり押し殺すことができる。
静かになったところで話をする。
「これは決定事項だ。僕は旅の出立を早め、今から支度が出来次第出る。そのために三人には倉庫の梁馬車を表につけ荷物を積み込んでほしい。といっても食料確保ができていない現状ではそんなに荷物はないが」
そう告げるとカリファは驚いたようにわざとらしく口に手を当てる。今日出るといったとたんに無言で大粒の涙を吹き出し始めたフィリ。
するとルーサが恐る恐ると聞いてくる。
「それは、ユルグ様に聞かないと……なんていうか」
ルーサの心配はもっともだ。家の頭首が懸念をしめす事柄をメイドが行うわけにはいかない。実際まだ出立の許可は取れていない。
だがめげない。
「ルーサ、父さんが一言でも今日出るのはダメ、とか言った? 僕の記憶ではそんなこと一言も言ってなかったと思うよ。いいともダメとも言ってない。そして僕は旅の許可ならもらっている。ということは、父の意向がどうあれ僕の命令を行動に移すしかないんじゃないかな。別に今から父の意思を聞きに行ってもらってもいいけど」
僕は大げさに両手を広げる。僕はまだ貴族だ。命令者の優先度はあるが今日起こった件に関して僕より上の命令を持っているわけがない。
「それじゃ、よろしくねみんな。食料に関しては出発した後すぐ市場に寄るから心配しなくていい。っさ、頼んだよ」
さぁメイドたちよ、二択だ。僕の命令を聞いて馬車と荷物の用意をするか、それとも死地に飛び入り父に話しかけてくるか。
すぐに反応したのはフィリだった。フィリは命令されれば絶対にこなす信頼のおける僕の使用人、しかもフィリは僕の命令が最上位、父の所に行くわけがない。本当に別れが惜しくなる。しずしずと戸から外へ出ていく。
そんなフィリを心配して追いかけるルーサ。
カリファは席を立たず、何かいいことがあった子供のような無邪気な笑みで僕を見ている。
相変わらずこの女はよくわからない。
すると
「ニコラス様、だーいぶノイマン様に似てきましたね」
そう言って足早に出て行った。
不服だが、弟が兄に似るのは仕方がないと考えて腹を落ち着かせた。
さて、これで準備は整う。あと必要なことはなんだろう。
頭の中で出発のシミュレートをする。そして気が付く。
「まずいな、馬は乗れるけど御者はしたことないぞ」




