予習
どれくらい時間がたっただろうか。
本を片手に焚火の火を棒でいじりながら反省する。
勉強をしてきたのになんにも役に立たなかった。
馬車が起こされた後すぐミサトリアが馬を連れて戻ってきた。まだダメになった荷物の確認や馬車の修理などで動けないようで、その間に焚火でも炊こうと周りの木を集めた。
しかしいざ火つけとなったときに、僕は火のつけ方を知らなかった。本では火属性魔法で簡単に火をつけていたが、僕は適性がなく使えない。
仕方なく兄とベックに頼んだら、兄が集めた木を蹴っ飛ばしベックが僕の半分の時間で新しく木を集めてきて、よくわからない道具で火をつけた。
二人そろって嫌がらせかと思って睨んでみたら「生木じゃ焚火にならねぇ」と言われ呆れられた。
反省しようとするが、いくら反省しようと知識がなければ反省できない。それほどまでに僕は何も知らなかった。
一応、馬車の中でベックに冒険の仕方の教えを乞おうとしたが、兄がいるせいでそれすらできなかった。
いや、これは言い訳だな。
焚火だけじゃない、そもそも僕が一人で旅の準備すること自体が無謀だったのだ。家で読んだ何冊もの冒険譚は火のつけ方など書かれていなかった。今持っている冒険の細かいところまで書かれていた『ゲイルの冒険』も、改めて見てみると魔法がたくさん使われていて僕には意味がない。
「……こんな本、持ってきて意味があったのかな」
「んー金にはなるんじゃないか? 本だし」
落ち込んでいたところに呑気な兄が寄ってきた。
今は放っておいてほしい。
そんな気持ちは兄には関係がない。
「たーだなぁー、本を売れるところなんて大都市しかないからなー。あ、次の村で物々交換とか考えてたら無理だぞ? 文字が読める村人なんてその村のトップ達だし、そいつらも読める文字は限られてるからな。まぁ貴族が買えって命令したら別だけど」
口をゆがめた試すような笑顔。
言い返す気力もわかない。
「あっれれぇー? 言い返さないのかい? 『ぼくはそんな腐れ貴族みたいなことはしないっ!』とかいわないの? もしかしてもうへばった? おうち帰りたい? 一日も経ってないのに?」
帰りたいわけがない。その後も続けられる兄の言葉にだんだんと腹が立ってきた。
「ねぇねぇその大事な本には何が書いてあった? 荷造りの仕方? 食べ物の取り方? 外でのうんこの仕方? 旅に持ってくるくらいだからさぁぁぁあぞ素晴らしいことが書かれていたんだろ?」
荷造りの仕方、書いてあった。食べ物の取り方、書いてあった。用の足し方、書いてなかった。
でも本に書かれていたことは全くと言っていいほど役に立っていない。荷造りだって魔法の適正で必要なものが変わってくるのが分かった。食べ物の取り方だって同じだ。考えてみたら排泄の時も無防備で危ないから対策をしなきゃいけない。
本にはいろいろ書かれているけれど、僕に役に立つことは全然書かれていなかった。
何にも役に立たないじゃないかこの荷物!
振りかぶって本を焚火に投げようとする。だが振りかぶったところで体が止まる。
爆ぜる火の中に、この本を読んだ時の自分を思い出した。
最初は文字の勉強のためだった。力で姉に勝てないなら、頭で姉に勝てばいい。そう思って書斎の本を片っ端から開いて文字を勉強し知識を得た。いろいろな本があったけれど、その中でもこの本は僕に希望をくれた。世界を自由に旅する冒険者、誰にも縛られず、自分の意思で行動する。そんな生き方に憧れた、今も憧れている。いつか僕も旅に出よう、兄に邪魔されず、姉に襲われず、自由な世界を手に入れよう。そう思うだけで、何度でも立ち上がれた。
それをくれた本を僕は今、役にも立たない荷物と感じ火にくべようとした。
捨てたくない。でも役に立たない邪魔なもの。
捨てるべきだと頭が言う。それをダメだと心が止める。
痛い、吐き気がする。口から内臓が全部出そうだ。
今すぐ本を下そう、思い出だ、大事にしよう。そう思うことにしても、本を下せない。
投げる体制で止まったまま動けない、今兄はきっと笑っているだろう。いい笑顔で僕を見ているのだろう。
無駄なものは捨てろ、そうやってきたからあの家でも生きてこれた。何もない僕が生きてこれたのは、いらないものを全部捨てて必要なものだけ手に入れてきたからだ。
ならば捨てるべき、でも体が動かない。
いつのまにか視界もゆがみ、体の感覚もおぼろげだ。
捨てたくない。
息ができない。涙が流れる。鼻水が垂れてきた。
固まってしばらくすると、動かない体が急に軽くなった。
固まっていた体が動く。本を持っていない左手でたまった涙をぬぐう。視界も戻った。だが右手が軽い。
振り上げていた手を下すと本がなくなっていた。
落としたのかと急ぎ後ろを振り返る。
兄が本を取り上げていた。僕があまりにも不甲斐なく、しびれを切らしたのだろう。
お願い、捨てないで。
とっさに本に飛びついた。だが片手で肩を抑えられ、高く持ち上げられた本に届かない。
「ニコラス。思い出は、大切だ」
ふいにかけられた兄の言葉に、取り返そうと伸ばした手が止まる。
「人っていうのはな、基本どんなことでも本気になれば頑張れる。だがな、頑張れば頑張った分だけつらい思いをする。それはいつか本気を覆して人を襲う。そして何もできなくなる。倒れちまうんだ」
兄が優しく微笑んでいる。
そうだ、思い出した。この兄だ。
本当につらいとき、兄はこの顔をして僕を導いてくれた。いつもは揶揄ってばっかりだったり、変な実験させられたり、わけわからないことばっか言ったりしている兄だ。だけどたまに、この表情をして教えてくれるんだ。生きるためには、どうしたらいいかを。
「倒れちまったらどうしようもない。心が折れちまったらどうにもならないんだよ。だがな、思い出があれば違う。思い出があれば倒れたお前をぶんなぐってくれる。まだ立てるだろって、どんなにボロボロになった心でも、ボコボコにして立たせてくれる。思い出ってのはな、大事なお前の友達なんだよ。わかったか? わかったらそのひでぇ顔を何とかしろ、面白すぎてダメだ」
いつもの悪い笑顔に戻る兄。
服の袖を顔にこすりつけ滴っていた涙と鼻水をふき取る。
「思い出は、大事。大切な友達」
僕が確認するようにつぶやくと、兄は小さく「あぁ、そうだ」と言葉を返してくれた。
僕の前に本が差し出される。
これが、僕の思い出だ。僕を立ち上がらせてくれる大切な――
手に取ろうとした瞬間、本が消えた。
「えっ」
僕は呆けてしまった。
本がどこに行ったのかと兄の顔を見ると、兄は笑顔で焚火を見つめていた。
僕も焚火を見る。
本があった。赤の中で茶色がくすぶっている。
なんであんな所にあるんだろう。
兄の顔を見る、難しそうな顔をしていた。
「さすがは皮装丁、焚火の火じゃすぐに燃えないな。ていっ」
兄が火に向かって指をさすと、焚火から巨大な火柱が上がる。
とてもきれいだった。
火柱は重なり合った森の枝々を焼き尽くし天に上る。
その後すぐ火柱は消え、不自然に丸く切り取られた森の天井から無数の星があらわとなる。
それがとても不思議で、見とれてしまった。
ほほに鳥の羽か何かが当たる。
手に取ってみると重さを感じないすすけた切れ端。
そよ風が吹いて切れ端が空へ飛んで行った。
風の吹いたほうを見ると、兄が僕に手を構えていた。
その手を下すと、朗らかな笑顔で兄は言った。
「なぁニコラス。世界って、理不尽だろ?」
一瞬頭の中が真っ白になった。
そうだ、これが兄だ。
何かをもらったら、その分何かを奪っていく。
僕は兄に拳を振り上げていた。




