第2話 女幽霊、大学についてくる➁
アパートを出ると、朝の空気にはまだ少し冷たさが残っていた。
駅へ向かう道には通勤や通学途中の人が行き交い、交差点では信号が変わるたびに人の流れが入れ替わっている。大学へ通い始めてから見慣れつつある光景だが、今日は隣に余計な同行者が一人いた。
「わあ、外ってこんな感じなんだ」
澪が透の横を浮遊しながら、きょろきょろと辺りを見回している。
「昨日も外にいただろ」
「そうだけど、ちゃんと見ると違うじゃん」
「何が?」
「人がいっぱい!」
それは朝だからだろう。
透は口に出さず、歩く速度を変えなかった。
澪は時折、人の流れを避けるように移動していた。実際には身体がすり抜けるのだから避ける必要はないはずだが、目の前から歩いてくる人間に対し、反射的に道を譲ってしまうらしい。
透はその様子を横目で見ながら、少し妙に感じていた。
壁や床を抜けることには慣れているのに、人間とぶつかることにはまだ抵抗がある。
生前の習慣というものは、身体がなくなっても残るのだろうか。
「あ、透。あの人すごい急いでる」
澪が向かい側の歩道を指差す。
見ると、スーツ姿の男が鞄を抱えて走っていた。
「遅刻だろ」
「何で分かるの?」
「朝からあの勢いで走る理由が他にあるか?」
「運動!」
「スーツで?」
「……ないか」
澪は納得したように頷く。
透は返事をしかけて、口を閉じた。
危ない。
先ほど約束したばかりなのに、普通に会話を続けるところだった。
近くを歩いていた女性が一度こちらへ顔を向けたように見えたが、透は何事もなかったように前を向く。
幸い、澪の声自体は聞こえていないらしい。
「……あ」
澪も気づいたのか、慌てて口元を両手で覆った。
遅い。
ただ、反省している様子は見えるので、透はそれ以上何も言わなかった。
駅へ着くと、改札の向こうから電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえてきた。
透が定期券を取り出す横で、澪は改札機を興味深そうに眺めている。
「これ、私どうすればいいの?」
「そのまま通れば?」
「えっ、いいの?」
「止められるのか?」
「……止められないか」
澪は少しだけ躊躇した後、改札機の横をすり抜けた。
当然、警告音は鳴らない。
駅員も誰も反応しなかった。
透はその後から普通に改札を通る。
本人は何やら不思議そうな顔をしていたが、幽霊に乗車券が必要なのかという問題を真面目に考え始めると、朝から余計な時間を使うことになる。
今はこれでいいだろう。
ホームへ降りると、澪は人混みの上へ少し浮かび、線路の方を眺めた。
目の前には電車を待つ人々が並んでいるが、当然ながら誰も彼女を気にしていない。
透だけが、制服姿の少女が頭上を漂っている光景を見ている。
何とも落ち着かない。
「澪、あんまり高く浮くな」
周囲に聞こえない程度の声で言うと、澪が振り返った。
「何で?」
「俺が目で追うと変だから」
「あ、そっか」
澪は素直に降りてきた。
しかし、今度は透のすぐ横へ顔を寄せる。
「このくらい?」
「近い」
「注文多くない!?」
透は返事をせず、入ってきた電車へ乗り込んだ。
澪もその後を追う。
混み合った車内で他の乗客とすれ違うたびに身体が透ける様子は、見慣れている透でも少し気になるものだった。
彼女自身は、周囲へぶつからないようにすることを早々に諦めたらしい。
透の近くへ戻ると、空いている吊革の辺りで宙に浮いたまま落ち着いた。
吊革を持つ必要がないのは便利そうだ。
いや、電車が揺れても倒れないのなら、そもそも吊革という存在が不要なのか。
そんなことを考えながら、透は窓の外へ目を向けた。
澪はしばらく静かにしていたが、やがて小さな声で話しかけてきた。
「……ねえ、透」
透はそちらを見ない。
「昨日、ずっとテレビ見てたんだけどさ」
約束を忘れたわけではないらしい。周囲の人間に聞こえないことを承知した上で、こちらの反応を待たずに話しているようだった。
「途中で、私が見てた番組終わっちゃったんだよね。チャンネルも変えられないし、リモコン触れないし、何かずっとニュースになってて」
透は窓へ目を向けたまま、話を聞いていた。
確かに、朝つけていった番組は時間が経てば別のものに変わる。テレビを一日中つけておけば退屈しないと思ったが、好きな番組を選べないのでは限界があるだろう。
「だから、今日一緒に来られて嬉しい」
澪の声が、ほんの少し柔らかくなった。
透は窓へ映る自分の顔を見た。
その隣には、他の乗客と同じように立っている澪の姿も見える。電車の窓に映った少女は、普通の制服姿の高校生とほとんど変わらなかった。
ただ、周囲の人間は彼女を見ない。
それが、少しだけ奇妙に感じられた。
透はスマートフォンを取り出し、メモ画面を開いた。
短く文字を入力する。
『帰りに何か見たい場所があれば言え』
画面を澪の方へ向けると、彼女は目を丸くした。
そして、すぐに笑った。
「うん!」
声は聞こえたが、透は返事をしなかった。
それでも澪は満足したらしく、その後は窓の外を眺めながら静かにしていた。
どうやら、大学に着くまでの間は大人しくしてくれそうだった。
◇
大学の正門が見えてくると、澪の様子が少し変わった。
広い敷地へ続く通路には、学生たちが次々と吸い込まれていく。校舎の間には木々が植えられ、正門の近くには新入生向けの案内がまだいくつか残っていた。
透にとっては、すでに見慣れ始めている場所だ。
だが、澪は足を止めるようにして周囲を見回していた。
「……広い」
「まあ、大学だからな」
「高校と全然違うね」
「覚えてるのか?」
透が小声で尋ねると、澪は少し考えるように目を細めた。
「自分の学校は思い出せないけど……何となく。こんなに広くなかった気がする」
「そうか」
透はそれ以上尋ねなかった。
澪にとっては、こうして何かを見るたびに、覚えていないはずの過去が少しだけ引っかかるのかもしれない。
それが良いことなのか、悪いことなのかは分からない。
本人が話したくなれば、その時に聞けばいいだろう。
「でも、いいなあ。大学」
澪は校舎を見上げた。
「私も来てみたかったかも」
その言葉は、少しだけ静かだった。
透は隣に浮かぶ少女を見る。
彼女が本当に高校生だったのなら、大学へ進むことを考えた時期もあったのだろうか。そんなことさえ覚えていないのだとすれば、今ここで目にしている景色は、彼女にとってどう映っているのか。
透には分からない。
ただ、興味を持っているのなら、見て回ることくらいはできる。
「講義が終わったら、少し案内するか」
「えっ、本当!?」
澪が勢いよく顔を向けた。
「時間があればな」
「あるある! 絶対ある!」
「俺の予定なんだが」
「大丈夫! 私、待つの得意だから!」
昨日は一日中テレビを見て飽きたと言っていた気がする。
透はその点を指摘しようとしたが、澪の顔があまりにも嬉しそうだったので、やめておいた。
別に、大学を少し歩き回るくらい大した手間ではない。
帰宅時間が少し遅くなるだけだ。
「透!」
思案に更っていると、背後から聞き慣れた声が飛んできた。
振り返ると、同じ学部の相馬悠斗が手を上げながら近づいてくるところだった。
入学してから知り合った友人で、透とは対照的によく喋り、初対面の相手とも気軽に会話を始められる性格をしている。目付きの悪さで誤解されやすい透にとって、そうした気質は少し羨ましくもあった。
「おはよう」
「おう。今日、一限からだろ?」
「ああ」
「間に合ってよかったな。昨日の課題、終わった?」
「終わった」
「マジか。俺、最後の問題で詰まってさ」
悠斗が話しながら透の横へ並ぶ。
そのすぐ反対側には澪が浮いていた。
当然、悠斗は何の反応も示さない。
「……おお」
澪が小さく声を漏らす。
透はそちらを見ないようにした。
「友達?」
返事をするわけにはいかない。
「ねえ、透。この人、友達?」
澪は透の顔を覗き込んでくる。
近い。
しかも悠斗の反対側からなので、思わず振り向けば、友人との会話中に何もない空間へ顔を向けることになる。
透は前を向いたまま歩き続けた。
「でさ、透。最後の計算って、どうやった?」
「後で見せる」
「助かる!」
悠斗は満足そうに笑った。
澪はまだ透の横を浮いている。
「ねえねえ、何で無視するの?」
約束したからだろ。
透は口を開きかけ、寸前で堪えた。
澪はその反応を見て、ようやく思い出したように両手で口を覆った。
「あっ、そうだった!」
今さらか。
透は小さく息を吐く。
「どうした?」
悠斗が顔を向けた。
「いや、何でもない」
「何か疲れてない?」
「少しな」
「夜更かし?」
「まあ、そんなところ」
正確には、夜中に女幽霊の相手をしていたせいだ。
もちろん、そんな説明をするつもりはない。
悠斗は透の返事を聞き、何やら納得したように頷いた。
「大学始まったばっかりだしな。生活リズム崩れるよな」
「そうだな」
話が勝手にまとまってくれるのはありがたい。
透がそう考えている横で、澪がにやりと笑った。
「……夜更かし、私のせい?」
透は答えなかった。
「ねえ、私のせい?」
まだ聞くか。
悠斗は気づかずに歩いている。
澪は透の顔を覗き込んだまま、楽しそうに笑っていた。
どうやら、大学へ来るにあたって決めた約束は、早くも試されているらしい。
透は前を向き、歩く速度を僅かに上げた。
少なくとも講義が始まるまでは、大人しくしていてほしいものだ。
そう願ったところで、相手が澪である以上、あまり期待できないことも分かっていた。
読んでいただきありがとうございます!
今のところ1日2〜3投稿を考えています。
もしよろしければ、また来ていただけると大変喜びます。
それでは、次の話で!




