第8話 日常の傍らで➅
夕方前になり、店内の客足が少し落ち着いた頃。
透はガルドから今日の分の賃金を受け取った。
掌に落とされたのは、銅貨が数枚。
初日に受け取った時ほど強い感慨はなかったが、その金属の重みには別の意味が生まれている。
「これで、教会から借りた分も結構返せそうだな」
「もうそんなに貯まったの?」
澪が透の手元を覗き込む。
「毎日使ってなければな。最初に買った服とか日用品とか、その辺を合わせても、あと何日か働けばかなり戻せると思う」
食事や寝る場所について、教会側は今のところ細かな請求をしていない。
ただ、この世界へ来た直後に必要だった服や日用品などは、マルタから借りた金で揃えている。急いで返せと言われているわけではないものの、返せる状態になったなら借り続けておく理由もなかった。
「透って、そういうところ真面目だよね」
「借りたら返すだろ」
「私のお金も使う?」
「使わない」
反射的に答えると、澪が一瞬だけ黙った。
透はその反応が気になり、顔を上げる。
「何だよ」
「別に」
「使いたいなら言えよ」
「そうじゃなくて……私の分も借りてるんだから、返すのに使ってもいいかなって思っただけ」
言われてみれば、澪の言い分にも理屈はある。
彼女自身は食事を取らないが、町へ来てからは澪の希望で買った物や、彼女に付き合って透が口にしたものもある。
だからといって。
「それでも、お前が稼いだ金だろ」
透は銅貨を小袋へ戻しながら言った。
「返す金は俺の分で足りる」
「……そっか」
澪はそれ以上何も言わなかった。
透も深くは追及しない。
初日に受け取った一枚を含め、澪の賃金は今も自分のものとは分けて持っている。
金額そのものは大きくない。
けれど、澪にとってはこの世界で初めて自分の仕事に対して得たものだ。自分で持てないから透が預かっているだけで、所有者まで変わったわけではない。
「ところで」
澪はすぐに調子を戻し、透の腰にある小袋へ興味深そうな視線を向けた。
「私のお金、結構増えてるよね?」
「増えてる」
初日以降も、ガルドは澪が働いた日は少額ながら賃金を渡している。
「何か買える?」
「物による」
「甘いものは?」
「お前、食べられないだろ」
「透が食べる」
「それだと俺へのプレゼントになるぞ」
「感想を買うの」
「前にも聞いたな、それ」
「需要と供給ってやつ」
「多分使い方が違う」
「じゃあ今度、リナちゃんと三人で何か食べようよ」
「お前は?」
「見てる」
澪は何でもないことのように答えた。
透は一度、返事を止める。
澪にとってそれは、本当に楽しいことなのだろうか。
食べられない。
味も分からない。
匂いさえ感じられない。
他人が食べているところを見るだけなら、自分なら途中で嫌になるかもしれない。
以前は、澪がそうしたことを口にするたび、できないことから目を逸らすために無理に楽しもうとしているのではないかと考えることもあった。
ただ、最近は少し違う見方をするようになっている。
澪が欲しがっているのは、食べ物そのものではないのかもしれない。
誰かと店へ行き、何を買うか一緒に選び、同じ場所で時間を過ごす。
食べるという行為に参加できなくても、その時間そのものには加われる。
だから彼女は、それを楽しもうとしている。
「……分かった」
「ほんと?」
「ああ。自分の金なんだから好きに使えばいい」
「透が持ってるけど」
「そこは言うな」
澪が楽しそうに笑った。
その時、入口の鈴が鳴り、二人の男が店へ入ってきた。
片方は荷運びでもしているのか肩幅が広く、汚れた作業着のような服を着ている。もう一人は年配で、腰に使い込まれた工具袋を下げていた。
「いらっしゃい」
ガルドが声を掛ける。
二人は店の奥へ進みながら、途中だったらしい会話を続けていた。
「まだ閉めたままなんだってな」
「何が?」
「旧墓地だよ」
その言葉に、透の意識が自然と向いた。
手元の商品整理は続けたまま、耳だけを会話へ傾ける。
「昨日も人が入ったんだろ?」
「ああ。教会の連中と冒険者がな」
「で、どうだった?」
「駄目だったらしい。詳しくは知らんが、まだ封鎖は解けないって話だ」
「また何か出たのか?」
「らしいぞ。怪我した奴もいるって聞いた」
透の手が止まった。
隣を見ると、澪もこちらへ顔を向けている。
怪我人。
その話は初耳だった。
ただ、町で交わされている噂をそのまま事実として受け取るわけにはいかない。軽い擦り傷でも「怪我人が出た」と言えるし、人から人へ伝わるうちに話が大きくなることもある。
それでも、墓地の封鎖がまだ解除されていないという部分は、複数の人間が知っている以上、まず間違いないだろう。
「……透」
澪が声を落として呼ぶ。
「聞こえてる」
「怪我人って……」
「噂だ。帰ったら教会で確認すればいい」
透がそう返すと、澪は納得しきれない表情のまま、それでも何も言わなかった。
自分も気にならないわけではない。
だが、ここで知らない客の話へ割り込み、断片的な情報を集めるより、教会へ戻ってマルタかハインへ聞く方が正確だ。
「墓地か」
ガルドが低く呟いた。
どうやら客の会話は彼にも聞こえていたらしい。
「まだ駄目なんですかね」
透が尋ねると、ガルドは少しだけ考えてから答えた。
「封鎖が続いてるのは確かだ。昨日も冒険者が何人か向かうのを朝に見た」
「何人くらいです?」
「五、六人はいたな。教会の連中も一緒だった」
それだけの人数を投入して、まだ解決していない。
三日前にマルタから聞いた話が頭へ戻ってくる。
教会と町の冒険者で調査を続ける。
まずは自分たちで調べる。
そう言っていた。
そこから数日が経過しているにもかかわらず、封鎖は続き、調査隊の出入りも止まっていない。もし怪我人の話まで事実なら、状況が改善しているとは考えにくかった。
「トオル」
ガルドの声に顔を上げる。
「お前たちは行くなよ」
「分かってます」
「本当に?」
澪が横から口を挟む。
「お前が言うな」
「私は勝手に行かないよ」
「なら俺も同じだ」
ガルドは二人を交互に見たあと、いつもより真面目な調子で続けた。
「お前らが何か見えるって話は聞いてる」
「誰からです?」
「ハインだ。前に買い物に来た時、少しな」
透は僅かに驚いた。
墓地で何が起きたのか、教会側がどこまで他人へ話しているかまでは知らなかった。ただ、ガルドは自分たちを最初に助けてくれた人物でもあり、その後の生活にも関わっている。
教会側が必要な範囲で状況を共有していても、不自然ではない。
「だからって、自分から入る必要はない」
ガルドは透の反応を待たずに続けた。
「見えるだけで、まともに戦えるわけじゃないんだろ」
「はい」
そこは否定しようがない。
透は自分の右手へ一瞬だけ意識を向けた。
あの時、確かにレイスへ拳が届いた。
けれど自由に使えない以上、戦力として数えることはできない。再現方法も分からず、自分の力なのか、澪から何かが流れ込んだ結果なのかさえはっきりしていない。
偶然一度成功した。
今の段階では、それ以上でも以下でもない。
「必要なら向こうから呼ぶ」
ガルドの言葉は、数日前に透自身が澪へ言ったものとほとんど同じだった。
「俺もそう考えてます」
「ならいい」
ガルドはそれ以上何も言わず、仕事へ戻っていった。
透も商品棚へ向き直る。
ただ、さっきまでと同じように作業へ集中することはできなかった。
黒い靄。
納骨堂。
レイス。
意識の端へ押し込めていたものが、また少しだけ近づいてきた感覚がある。
だからといって、自分から首を突っ込む理由にはならない。
今は待つ。
その判断だけは変わらなかった。
読んでいただきありがとうございます!
今のところ1日1〜2投稿を考えています。
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それでは、次の話で!




