第8話 日常の傍らで➄
あれから、さらに三日が過ぎた。
気づけば、透たちがレイヴェルで暮らし始めてから一週間ほどになる。
一週間という時間は、元の世界にいた頃ならそれほど長く感じなかった。大学へ通い、講義を受け、帰りに買い物をしているうちに過ぎてしまう程度の日数だったはずだ。
けれど今は、その短い期間の中に、あまりにも多くの出来事が詰め込まれている。
異世界への転移から始まり、ガルドとリナとの出会い、城塞都市レイヴェル、教会、魔法、魂の繋がり、旧墓地、レイス、黒い靄。そして、この世界での仕事。
振り返れば、どれも日本にいた頃なら現実として受け入れられなかったものばかりだ。それなのに現在の透にとっては、それらを一つ一つ考えるよりも、目の前に並んでいる商品の位置の方がよほど差し迫った問題になっていた。
「トオルさん、それ違います」
「……違う?」
「そっちは蝋燭です。油は一つ下ですよ」
午後のガルドの店には数人の客が入り、それぞれ商品棚を眺めている。
透は注文された油を取ろうとして、一段上に並べられていた蝋燭へ手を伸ばしかけていた。
「昨日まで覚えてたじゃん」
横から澪が楽しそうに口を挟む。
「昨日と並び方が変わってる」
「言い訳?」
「朝、補充した時に動かしただろ」
透が確認するようにリナへ顔を向けると、彼女は少しだけ考えてから首を傾げた。
「ちょっとは動かしましたけど、油の場所は変えてないですよ?」
「……そうなのか」
「透の負け」
「何の勝負だ」
「記憶力」
「お前は場所が分かってたのか?」
「もちろん」
「じゃあ取ってみろ」
「……それはずるくない?」
澪が露骨に視線を逸らした。
物へ触れられない彼女は、正解の棚を覚えていたとしても商品を手に取ることはできない。透は澪へ一度だけ呆れた視線を送り、正しい場所から油の瓶を取り出して客へ渡した。
「ありがとうございます」
「いえ」
返事は自然に出た。
数日前までは客から声を掛けられるたび、まずリナやガルドが近くにいるか確認していた。今では、商品名を聞いて場所を思い出し、分からなければ質問するという流れが身についている。
まだ会計までは任されていないが、簡単な値札なら読めるようになり、店の中で客へ案内を頼まれても慌てなくなった。少なくとも、働く人間として立っていることに違和感を覚える段階は過ぎつつある。
「慣れたな」
店の奥からガルドが言った。
透は空になった木箱を片づけながら振り返る。
「まだ間違えますけど」
「間違えたら直せばいい」
「随分雑ですね」
「最初から全部できる奴なんていない。三日やそこらで全部覚えられたら、こっちが困る」
ガルドはそう言いながら帳面へ何かを書き込んでいる。
透にはまだ、その文章までは読めない。数字なら分かるようになり、商品名もいくつか判別できるが、文章として並ぶと途端に難しくなる。
それでも、一週間前なら何が文字で何が模様なのかさえ曖昧だった。今では、読めない文字と見覚えのある文字を区別できるし、知らない単語だから理解できないのか、それとも文字そのものを読み違えているのかも少しずつ判断できるようになっている。
小さな変化ではある。
ただ、この世界へ来てからは、その小ささが重要だった。
自分の足で立てる範囲が、毎日少しずつ広がっている。
「ミオさん」
別の客が声を掛けた。
透ではなく、澪へ。
「この前教えてくれた針、どこだったかしら?」
「あ、それならこっちです!」
澪はすぐに反応し、店の奥へ向かって漂っていく。
透は、その後ろ姿をしばらく目で追った。
ここ数日、澪も毎日のように店へ立っている。
客への挨拶をして、商品の場所を案内し、必要ならガルドやリナを呼ぶ。物を運んだり会計したりすることはできないため、仕事の範囲はどうしても限られる。
それでも、常連の中にはもう澪へ直接声を掛ける者が出始めていた。
「ここです。細いのと太いのがありますけど、前と同じならこっちですよね?」
「あら、そうそう。ありがとう」
「いえいえ!」
礼を言われた澪が、満足そうに胸を張る。
初日に客を案内して棚を通り過ぎた姿を知っているだけに、随分慣れたものだと透は感じた。
「成長したな」
戻ってきた澪が眉を上げる。
「誰目線?」
「初日に棚を間違えたのを知ってる側」
「一回だけでしょ」
「一回は一回だろ」
「透だって、さっき油と蝋燭間違えたじゃん」
「配置が悪い」
「まだ言ってる」
澪が呆れたように笑った。
そんなやり取りも、気づけばこの店では珍しいものではなくなっている。リナは以前ほど笑わなくなり、ガルドも大半は聞き流すようになった。客の中にも、二人の会話を聞いて「またやっている」という顔をする者がいる。
それが透には妙に不思議だった。
自分と澪のやり取りが、この世界の誰かにとって日常の一部になり始めている。
一週間前まで、二人はこの世界には存在していなかった。
それなのに今では、店へ来れば仕事があり、教会へ戻れば寝る場所がある。朝になれば文字を教わり、町を歩けば顔を覚えた人間が何人かいる。
もちろん、これがいつまで続くかは分からない。
帰還方法が見つかれば、この町を離れることになるかもしれない。そもそも元の世界へ帰れる保証すらなく、この暮らしを自分たちの人生として受け入れたわけでもない。
それでも、仮の生活だからといって、積み重なった時間まで偽物になるわけではない。
そこまで考えたところで、透は手にしていた木箱を棚へ戻した。
今は仕事中だ。
答えの出ないことへ思考を広げすぎても仕方がない。
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それでは、次の話で!




