第8話 日常の傍らで➁
昼を過ぎる頃。
透と澪はいつもの道を歩いてガルドの店へ向かった。
いつもの道と考えたことに、自分で少し驚く。
最初にリナたちと町へ入った時には、どこを見ても似たような石造りの建物にしか見えなかった。
今では、道順をいちいち意識しなくても歩ける。
知っている場所が増えた。
それだけなのに、町全体の広さまで少し縮まったように感じる。
「透」
「何だ」
「あれ」
澪が通り沿いの看板を指差した。
「読める?」
透は足を緩める。
板には三つの単語が並んでいる。
一つ目は読める。
二つ目も、おそらく。
三つ目は知らない。
「……布と、糸。最後は分からない」
「二個も分かるの?」
「お前は?」
「最初の一個だけ」
「俺の勝ちだな」
「今の勝負だったの!?」
「お前が始めただろ」
「読めるか聞いただけなんだけど!」
「知らん」
「今日の透、妙に勝ちに来るね」
自分でも多少そう思う。
だが、昨日までただの記号だった看板が読める。
その感覚は、想像していたより面白かった。
街並みが単なる背景ではなく、少しずつ意味を持ち始める。
店の種類。
値段。
注意書き。
何が書かれているか理解できれば、自分だけで判断できることが増える。
誰かに聞かなければ何もできなかった状態から、一歩だけ離れられる。
それが嬉しくないわけではなかった。
「何か楽しそう」
澪が隣から顔を覗き込んでくる。
「そう見えるか?」
「うん」
「文字が読めるようになるのは悪くない」
「素直じゃん」
「何が」
「『別に』って言わなかった」
言われて初めて気づく。
透は返す言葉を探したものの、特に否定する理由もなかった。
「必要なことだからな」
「はいはい」
「何だよ」
「何でもない」
今度は澪が妙に機嫌よく前へ進んでいく。
理由は分からない。
ただ、楽しそうなら放っておけばいい。
そう判断し、透はその後を追った。
「遅い」
店へ入って早々、ガルドに言われた。
「時間通りだと思いますけど」
「冗談だ」
「分かりにくいです」
「まだまだだな」
何がまだまだなのか分からない。
ガルドは透の反応を楽しんだだけらしく、そのまま店の奥を示した。
「今日は奥の棚を覚えろ。昨日まで触ってなかったところだ」
「分かりました」
「トオルさん」
横からリナが顔を出す。
「今日は私、あんまり教えませんからね」
「何で」
「もう三日目ですから」
「三日で放り出すのか?」
「分からなかったら聞いてください。でも最初に自分で探す」
どうやら教育方針が一段階変わったらしい。
透は店内を見回した。
確かに初日は商品棚の位置すら分からなかった。
二日目には、よく売れる物の場所を覚えた。
今日はもう、客から聞かれればいくつかは自分で案内できる。
三日しか経っていない。
それでも初日の自分と比べれば、少なくとも役に立つ範囲は広がっている。
「分かった」
「頑張ってください」
「私は?」
澪が自分を指差す。
リナは少し考える素振りをした。
「ミオさんも同じです」
「え」
「今日は私を呼ぶ前に、一回自分で考えてください」
「昨日まで優しかったのに!」
「ずっと教えてたら覚えないですよ?」
「正論が痛い」
澪が胸を押さえる。
「霊体でも痛いのか」
「心が」
「便利だな」
「便利じゃない!」
そのやり取りを聞いていたガルドが肩を揺らす。
透は棚へ向かい、仕事を始める。
一度自分で考え、分からなければ聞く。
たったそれだけの違いだが、誰かに教えられる側から自分で動く側へ、少しずつ移っている感覚があった。
しばらくして。
「すみません」
客の声がした。
若い男が、手に古い革袋を持っている。
「これを直すための細い革紐ってありますか?」
透は棚の位置を頭の中で探った。
「あります。こっちです」
自分から案内する。
歩きながら間違っていないか、一瞬だけ不安になるが棚へ着くと、想定した場所に革紐が並んでいた。
「これですね」
「ああ、これだ。助かったよ」
客は礼を言い、品物を選び始める。
それだけ。
本当に、それだけのことだった。
初日ならリナを呼んでいた。
今日は自分だけで済ませられた。
透は棚を離れながら、その小さな変化を静かに受け止める。
役に立った、などと大げさに考えるほどのことではない。
店員なら当然の仕事だ。
けれどこちらの世界へ来てから、当然にできることが随分減った。
文字も読めない。
金もない。
土地も知らない。
常識も分からない。
誰かの助けがなければ、一日暮らすことさえ難しかった。
その中で、自分だけで一つ判断できた。
今の透には、その程度のことでも確かな前進に感じられた。
「やったじゃん」
いつの間にか隣へ来ていた澪が言う。
「何が」
「今、一人で案内できた」
「それが仕事だろ」
「そうだけど」
澪はどこか嬉しそうだった。
「私も負けないから」
「何でそこで張り合う」
「だって、透だけできるようになるのずるい」
「ずるくないだろ」
「じゃあ次のお客さんは私」
「競争じゃない」
「分かってるって」
こうして澪が何かへ張り合ってくるのも、悪くないと思えるようになっている。
一人ならできなかったことができるようになっても、自分の中で処理して終わる。
隣に誰かいれば。
それを見ている人間がいる。
勝手に競争へ変える人間までいる。
少し面倒で。
その分だけ、以前より一日の出来事が記憶へ残る。
透はそんなことを考えながら、次の商品へ手を伸ばした。
仕事は続く。
文字もまだ読めないものの方が多い。
町も、知らない場所ばかりだ。
帰る方法に至っては、手掛かりすらほとんどない。
それでも一つずつ。
昨日より今日。
今日より明日。
できることは、確かに増えていた。
少なくともこの数日間だけを見れば、透と澪の異世界での生活は、驚くほど穏やかに形を整え始めていた。
読んでいただきありがとうございます!
少し投稿ペースが落ちそうです。1日に1〜2話くらいの更新になるかと思います。
もしよろしければ、また来ていただけると大変喜びます。ブックマークしていただけたら更に喜びます(汗)
それでは、次の話で!




