第8話 日常の傍らで①
検査から、三日が過ぎた。
その間、透の生活には大きな変化がなかった。
朝になれば教会の食堂で食事を取り、その後は文字の勉強。
昼を過ぎる頃にはガルドの店へ向かい、日が傾くまで働く。
夕方に教会へ戻り、夕食を済ませる。
そして夜になると、客室で澪とくだらない話をしながら一日が終わる。
並べてしまえば、それだけだ。
異世界へ飛ばされた人間の生活としては、拍子抜けするほど普通だった。
「透、起きて」
その朝も、目を開けるより先に澪の声が聞こえた。
「朝だよ」
「……分かってる」
「絶対分かってなかったでしょ」
「今分かった」
「それ、私が教えたからじゃん」
目を開ける。
視界へ最初に入ったのは、ベッドの横で宙に浮いている澪だった。
寝起きに女幽霊の顔を見る。
考えてみれば、日本にいた頃から何度も繰り返している光景だ。
ただ、場所だけが違う。
見慣れた自分の部屋ではなく、石壁に囲まれた教会の客室。
窓の形も、机も、椅子も、何もかもが元の世界とは異なる。
それなのに、目を覚ませば澪がいる。
その部分だけが変わらないせいか、最近ではこの部屋に対する違和感まで薄れてきた。
「今何時だ?」
「知らないよ」
「それ起こした本人が言うか?」
「時計ないもん」
澪が当然のように返す。
この世界へ来てから、スマートフォンの時計を見る機会も減った。
充電を無駄遣いできないため、今では基本的に電源を落としている。
正確な時刻が必要な生活でもない。
朝の鐘。
太陽の高さ。
教会の人々の動き。
町全体が、それくらいの時間感覚で動いている。
日本にいた頃なら、講義の開始時刻を分単位で気にしていた。
ほんの数日前までのことなのに、今では随分遠い生活に感じる。
「鐘は?」
「さっき一回鳴った」
「なら起きるか」
透は身体を起こし背中を伸ばす。
体の痛みは、もうほとんど残っていない。
右腕も同じだ。
強く握り込んでも異常はなく、冷たい感覚が戻ることもない。
身体だけを見れば、もう普段通りと考えてよさそうだった。
問題は、あの日に起きた現象の方だ。
魂の繋がり。
拳に集まった光。
澪から流れ込んだ可能性のある何か。
あれから追加の検査はしていない。
マルタもハインも、急いで答えを出そうとはしなかった。
危険な状況を作ってまで再現するべきではない。
その点では透も同意している。
分からない。
だから試す。
それ自体は間違っていない。
だが、結果が出なければ命に関わるような方法まで選ぶ必要はない。
必要な時にまた起こるかもしれない。
今のところは、それくらいに考えておく方がいい。
「また手見てるね」
澪の声に意識を戻す。
「何か変だった?」
「ううん」
澪は、首を横に振る。
「ちょっと気になっただけだ」
「光った?」
「光るわけないだろ」
「ちょっとくらい光ってもいいのにね」
「朝から何に使うんだよ」
「照明とか?」
「俺は家電かよ」
澪が肩を震わせて笑っている。どうやらツボったらしい。
透はベッドを降り、窓を開けた。
朝の空気が室内へ流れ込む。
石造りの街並みの向こうから、鐘の余韻に混じって人々の声が届いていた。
三日前までは、窓から外を見るだけでも「異世界にいる」という感覚が先に立った。
今では、文字の勉強をしてその後はガルドの店でのアルバイト。
そんな予定の方が先に浮かぶ。
慣れって恐いなと透は、苦笑した。
「透、今日こそ勝つから」
「何がだよ」
「文字対決に決まってるでしょ」
腕を組み宣言する澪。
透は振り返って答える。
「まだやってたのか、あれ」
「当然でしょ。昨日は一文字差だったんだから」
「お前が勝手に点数つけてただけだろ」
「負けたからって言い訳?」
「勝負自体に同意してない」
「はいはい」
完全に聞く気がない。
澪は楽しそうに扉へ向かっていく。
「早く行こう。朝ご飯もなくなっちゃうよ」
「お前は食べないだろ」
「透が食べるでしょ」
「だから何でお前が急かすんだ」
「遅刻しそうな人を起こして送り出すのが、同居人の役目だから」
「いつから同居人になった」
「結構前から」
返事だけは早かった。
透は一瞬言い返そうとして、やめた。
日本の部屋へ居着いた時点から数えれば、確かに否定しきれない。
今さら「今日だけ」と追い出そうとしたところで、説得力は皆無だった。
それに澪が同じ部屋にいること自体を、以前ほど煩わしいとは感じなくなっている。
そこまで考えてから、透はその事実を深く掘り下げるのをやめた。
「先に行くなよ」
「迷子にならないから大丈夫」
「そういう意味じゃない」
二人は客室を出た。
午前中。
教会の一室で行われる文字の勉強は、初日より随分ましになっていた。
「これ」
机の向かいに座った澪が、木札を透へ向ける。
「油」
「正解」
「次」
「ちょっと待ってよ」
「勝負なんだろ」
「何で急にやる気出してるの」
「早く終わらせたい」
「それ、勝負に対する姿勢じゃないからね?」
口では文句を言いながらも、澪は次の札を選ぶ。
教会で用意してもらった練習用の木札には、簡単な単語が書かれている。
水、火、塩、油。
昨日までは、それだけでも一文字ずつ確認しなければならなかった。
今は形を見れば、いくつかはまとまりとして認識できる。
面白いもので一度意味と結びつけば、それまで同じにしか見えなかった文字にも違いがあることが分かってくる。
日本語を知らない人間が「犬」と「大」を似ていると言えば、日本人なら全く違うと感じるだろう。
おそらく、こちらの人間が透たちを見ていた感覚も同じなのだ。
「じゃあ、これは?」
澪が一枚を出す。
透は文字列を追った。
一文字目は分かる。
二文字目も見覚えがある。
三文字目。
「……石鹸」
「正解」
「もう間違えない」
「まだ根に持ってたんだ」
「持ってない」
「絶対持ってるじゃん」
初日にリナから笑われた単語だ。
その後、店でも何度か商品札を見た。
やはり、教本だけ眺めるより実物と一緒に覚える方が頭へ入りやすいらしい。
「次は、私ね」
澪が札を透へ渡す。
今度はこちらが問題を出す番らしい。
適当に一枚選ぶ。
「これは?」
「簡単だね」
「じゃあ読んでみろ」
「……塩?」
「違うが」
「え」
「これは布だろ」
「嘘だ」
「本当」
「似てるじゃん!」
「前に俺へ言ったな。全然違う」
「それリナちゃんだから!」
「知らん」
「透、性格悪くなってない?」
「元からだろ」
「それは自覚あるんだ……」
澪が木札を睨む。
真剣な顔をしているが、そもそも文字を読むのに目を細める必要があるのだろうか。
霊体だから視力という概念が同じなのかさえ不明だ。
そんなことを考えていると。
「もう一回」
澪が木札を差し出してきた。
「これ、後でまた出して」
「覚える気になったか」
「負けたまま終われないから」
「負けず嫌いだな」
「透には言われたくない」
それについては、否定しにくい。
透は木札を脇へ置いた。
こうして文字を覚え始めて三日が経過したが、まだ文章を読むには遠い。
数字、簡単な商品名や町でよく使われる単語など、その辺りなら少しずつ判別できるものが増えている。
たった三日。
けれど。
三日前には、看板に何が書いてあるのかさえ全く分からなかった。
昨日できなかったことが、今日はできる。
その積み重ねは小さいが、続ける事が重要だった。
帰る方法がわからない以上、何もせず待つわけにはいかない。
元の世界では当たり前だったことを、一つずつ取り戻していく。
そうやって生活を作っておけば、帰還方法を探す余裕も生まれるだろう。
「トオル」
部屋の入口から声が掛かった。
マルタだった。
「今日もやっておるの」
「一応」
「勝負中です」
澪が訂正する。
「何を競っとるんじゃ」
「文字をどっちが読めるかです」
「ほう」
マルタは机の上に並んだ木札へ目を落とした。
「今のところ、どちらが勝っておる?」
「俺」
「まだ途中だからね!」
「結果が出てるだろ」
「一問差で勝った気にならないでよ」
マルタが小さく笑った。
「競って覚えられるなら好きにせい。ただし、読み方だけ覚えて意味を間違えるでないぞ」
「はい」
「はーい」
澪は返事をした直後、先ほど間違えた「布」の札へ再び視線を戻した。
どうやら本気で覚えるつもりらしい。
透も教材へ意識を戻しかけたが。
ふと。
「墓地の方はどうですか?」
口にしてから、自分でも意識の片隅に残っていたのだと気づいた。
三日前、マルタは教会と町の冒険者で調査を続けると言った。
それ以降、詳細を聞いていない。
教会へ戻るたび、ハインや他の人間が出入りしている姿は見かける。
だが墓地の封鎖が解かれたという話も耳にしていない。
「まだ調査中じゃ」
マルタの返答は短かった。
「何か分かりました?」
「今のところ、お主らを呼ぶほどのことはない」
答えになっているようで、なっていない。
透はそう感じた。
問題が解決したのなら、そう言うはずだ。
呼ぶほどではない。
つまり、調査そのものは続いている。
ただし、まだ自分たちを必要とする段階ではないということなのだろう。
「そうですか」
それ以上は聞かなかった。
マルタが隠そうとしているとも感じない。
危険な現場へ素人を巻き込まない。
以前言っていた方針を守っているだけだ。
透にできるのは、向こうが必要だと判断するまで自分のことを進めること。
今のところ、それでいい。
「気になる?」
マルタが去ったあと、澪が尋ねてきた。
「多少は」
「私も」
「でも行かないぞ」
「まだ何も言ってないじゃん」
「顔に出てる」
「出てないし」
「出てる」
澪は不満そうに頬を膨らませた。
「私だって勝手に行こうとは思ってないよ」
「本当か?」
「……今回は」
「今回は?」
「言葉の綾!」
信用していいのか微妙なところだ。
とはいえ、三日前に比べれば澪も墓地の危険を理解している。
怖いと自分で認めてもいた。
それでも誰かが困っていれば気になる。
その辺りは、いかにも澪らしい。
「とりあえず」
透は脇へ避けていた木札を取り上げる。
「これ読め」
「今その流れで問題出す?」
「勝負なんだろ」
「……布」
「正解」
「よし!」
小さく拳を握って喜ぶ。
数十秒前まで墓地を気にしていた人間とは思えない切り替えの早さだった。
けれど、それでいいのかもしれない。
気になる問題があるからといって、一日中そのことだけを考える必要はない。
今できることへ意識を向ける。
それは逃げではない。
少なくとも透は、そう考えていた。
読んでいただきありがとうございます!
昨日、ログイン時に2段階認証のメールが何回飛ばしても届かなくて投稿出来ずに焦りました。
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それでは、次の話で!




