第7話 できること⑧
教会を出る頃には、太陽がほぼ真上まで昇っていた。
中央通りへ出ると、朝よりも人の数が増えている。
荷車を押す商人。
木箱を抱えて店へ急ぐ若者。
道の端では、赤や黄色の果実を並べた露店から威勢のいい呼び込みが飛び、少し離れた場所では職人らしき男たちが大きな板材を荷車へ積み込んでいた。
レイヴェルへ来てまだ数日。
それでも、初めて城門をくぐった時ほど周囲のすべてが異様には感じなくなっている。
最初はその一つ一つに意識を引かれていたが、今では人混みを避けながら歩き、目的の店までの道順を考えられる程度には馴染んできた。
異世界。
そう呼ぶしかない場所であることは変わらない。
ただ少しずつ、それが「知らない世界」から「今、自分たちが暮らしている場所」へ変わり始めている。
「ねえ、透」
隣を漂っていた澪が、通りの先へ顔を向けた。
「あれ、前にパン買ったところじゃない?」
「多分な」
「今日もいい匂いする」
透は一度、澪の横顔を確かめた。
「分かるのか?」
「匂いは分かんないよ」
「じゃあ、何でいい匂いって言ったんだ」
「雰囲気」
「便利だな、その言葉」
「でしょ?」
悪びれもせず返してくる。
店先には焼きたてらしいパンが並び、その前を通る人々が足を緩めていた。
透には香ばしい匂いが届いているが、澪には何も感じられない。
それでも彼女は楽しそうに眺めている。
食べられない。
匂いも分からない。
触ることさえできない。
普通なら、できないことを何度も目の前へ突きつけられるのは辛いはずだ。
透ならどうするか。
少し考えてみた。
最初は興味を持つかもしれないが、自分だけ味わえない状態が続けば、いずれ距離を置くようになる気がした。
澪は違う。
食べられないなら、誰かに味を聞く。
触れられないなら眺める。
自分にできないことそのものより、その中にまだ残っている楽しみを探そうとする。
本人がどこまで意識しているのかは分からないが、それは彼女が記憶を失ったまま一人でいた時間を過ごすために身につけたものなのかもしれない、と透は思った。
「仕事終わったら、甘いもの食べよう」
直後に飛んできた言葉で、その考えが途切れる。
「俺が?」
「うん」
「何で」
「感想係だから」
「いつ決まったんだ、その役職」
「今だけど?」
「勝手に増やすな」
「大事な仕事でしょ?」
「それお前にとってだろ」
「私の初仕事の日なんだから、ご褒美があってもいいじゃん」
「食べるの俺だけどな」
「細かいなぁ」
細かくはない。
根本的な問題だと思う。
だが、澪が楽しそうなので、今はそれ以上突っ込まないことにした。
そんなやり取りをしているうちに、ガルドの店が見えてきた。
入口脇には桶や縄、簡単な農具などが並べられ、開け放たれた扉の奥では客が二人ほど商品を見ている。
透が店内へ入ると、棚の向こうからリナが顔を出した。
「あっ、トオルさん! ミオさん!」
「こんにちは!」
澪がすぐさま手を振る。
そのまま勢いよくリナの方へ飛んでいきそうになる姿を見ながら、透は二人の距離が縮まる早さに改めて気づいた。
知り合ってから、まだ数日しか経っていない。
それでも澪にとってリナは、自分以外で初めて当たり前のように話しかけてくれた相手の一人だ。
リナの方も、珍しい霊体だからと必要以上に構える様子はない。
少なくとも透からは、少し変わった年上の友人へ接しているように見える。
「今日はどうしたの?」
「仕事の件で来た」
透が答えると、リナの顔がさらに明るくなった。
「やっぱり働くんだ!」
「できることがあるなら」
「お父さーん!」
「聞こえてる」
店の奥から、すぐに低い声が返ってきた。
少しして、木箱を一つ抱えたガルドが姿を現す。
「教会の方は終わったのか?」
「午前中に検査は終わりました」
「腕は?」
「ほとんど問題ありません」
「背中は?」
「そっちも大丈夫です」
「両方とも無理するなって言われてたよ」
澪が横から余計な情報を付け足した。
透はゆっくりとそちらへ顔を向ける。
「お前は誰の味方なんだ」
「事実を正確に伝えただけだけど」
「そういうところだけ律儀だな」
「褒めてる?」
「違う」
ガルドは二人のやり取りを聞きながら、呆れたように口元を緩めた。
「なら、重い物はまだやめとくか」
「でも――」
「怪我を悪化させて、また教会へ送り返す方が面倒だ」
有無を言わせない口調だった。
透としても、働きたいのであって無理をしたいわけではない。
自分では大丈夫だと判断していても、身体の状態を軽く見積もる癖があるらしいことは、ここ数日で何度も指摘されている。
ここで強情を張っても得るものはないと納得させた。
「分かりました」
「素直でよろしい」
なぜか澪が偉そうに頷く。
「何でお前が言う」
「マルタさんっぽくない?」
「全然似てないが」
「えー」
不満げな声を無視し、透はガルドへ向き直った。
「何から手伝いますか?」
「最初は商品整理だ」
ガルドが店の奥へ顎をしゃくる。
「文字もまだ読めないんだろ?」
「そうですね」
「なら、品物と棚の位置を覚えろ。売り物が分かれば、値札の文字も覚えやすい」
さすが商人、理にかなっている。
ただ荷物を運ぶより、今の透にはそちらの方がありがたかった。
この世界で生活を続けるなら、文字を読めない状態は早めに何とかしたい。
何か書かれていても、今の透には他人へ尋ねる以外に確認する方法がない。
帰還方法を探すにしても、古い記録や資料へ当たる可能性を考えれば文字は避けて通れないだろう。
働きながら覚えられるなら一石二鳥だ。
「リナ」
「はーい」
「しばらくトオルについてやれ」
「分かった!」
「……先生役か」
透が零すと、隣から視線を感じた。
「嫌そうですね、トオルさん?」
澪が妙に丁寧な口調で笑っている。
「嫌じゃない。厳しそうだと思っただけだ」
「大丈夫ですよ」
リナがにこりと笑った。
「優しく教えます」
その笑顔を見て。
なぜか透は、少しだけ不安になった。
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それでは、次の話で!




