第7話 できること⑦
教会を出る頃には、太陽がほぼ真上まで昇っていた。
中央通りへ出ると、朝よりも人の数が増えている。
荷車を押す商人。
木箱を抱えて店へ駆け込む若者。
道の端では果物らしきものを並べた露店から、威勢のいい呼び込みの声が飛んでいた。
レイヴェルへ来てまだ数日。
それでも、初めて町へ入った時ほど周囲のすべてが珍しく見えることはなくなっている。
石造りの建物。
見慣れない服装。
知らない文字。
聞けば意味だけは理解できる言葉。
少しずつではあるが、それらが「異世界の景色」ではなく、「今、自分が歩いている町の景色」へ変わり始めていた。
「ねぇ透」
隣を漂う澪が、通りの先を指差した。
「あれ、前に買ったパンの店じゃない?」
「多分な」
「今日もいい匂いするね」
「分かるのか」
「匂いは分かんないよ」
「じゃあ何でいい匂いって言ったんだよ」
「雰囲気」
「便利な言葉だな、それ」
澪は気にした様子もなく店先を眺めている。
食べられない。
匂いも分からない。
それでも興味はなくならないらしい。
透には、その感覚を完全には想像できなかった。
自分なら、目の前に食べ物がありながら一切味わえない状態が続けば、いずれ見ること自体を避けるかもしれない。
澪は逆だった。
触れられないなら見る。
食べられないなら、誰かの感想を聞く。
できないことを嘆くより、できることの中から楽しめるものを拾い上げる。
それは強さというより、彼女なりの生き方なのだろう。
「じゃあ仕事終わったら甘いもの食べよう」
「俺が?」
「うん」
「何で」
「感想係」
「勝手に役職増やすな」
「大事な仕事でしょ」
「お前の中ではな」
そんな会話をしているうちに、ガルドの店が見えてきた。
入口脇には昨日までと同じように雑貨類が並び、開け放たれた扉の向こうでは客が二人ほど商品を見ている。
店へ足を踏み入れると、棚の奥からリナが顔を出した。
「あっ、トオルさん! ミオさん!」
「こんにちは!」
澪がすぐに手を振る。
その勢いのままリナの方へ飛んでいきそうになるのを見て、透は何となく既視感を覚えた。
この二人は知り合ってまだ数日しか経っていない。
それでも澪にとっては、自分以外と普通に話せる相手。
リナにとっても、珍しい霊体というより一人の女の子として接しているように見える。
距離が縮まるのが早いのも、ある意味当然なのかもしれない。
「今日はどうしたの?」
「仕事の件で来た」
透が答えると、リナの顔が明るくなる。
「やっぱり働くんだ!」
「できることがあるなら」
「お父さーん!」
「聞こえてる」
店の奥から声が返ってきた。
しばらくして、箱を一つ抱えたガルドが姿を現す。
「教会の方はもういいのか?」
「午前中に検査が終わったので」
「腕は?」
「ほとんど問題ありません」
「背中は?」
「そっちも大丈夫です」
「二つとも無理するなって言われてたよ」
澪が横から口を挟む。
透はゆっくりそちらを向いた。
「お前は誰の味方なんだ」
「事実を伝えただけ」
「余計なところだけ正直だな」
ガルドは二人のやり取りを眺めたあと、小さく笑った。
「なら、重い物はまだやめとくか」
「でも――」
「怪我人に無理させて、また教会へ運び込む方が面倒だ」
それ以上反論する余地はなさそうだった。
透としても、働きたいのであって身体を悪化させたいわけではない。
自分の体調を多少軽く見積もる癖があることは、ここ数日で嫌というほど指摘されている。
「分かりました」
「素直でよろしい」
「何で澪が言う」
「マルタさんっぽくない?」
「全然似てない」
「えー」
澪が不満そうな声を上げる。
ガルドはそれを横目に、店の奥へ顎をしゃくった。
「最初は商品整理だ。文字もまだ読めないんだろ?」
「そう……ですね」
「なら、棚の位置と品物を覚えろ。売り物を知ってりゃ、文字の勉強にもなる」
なるほど。
ただ荷物を運ぶより、その方が今の透には都合がいい。
この世界で暮らしていくなら、文字を読めないままでは何かと不便だ。
値段も読めない。
案内板も理解できない。
書類も自分では確認できない。
いつまでもリナやガルドに聞いて回るわけにもいかない以上、働きながら覚えられるなら効率は悪くない。
「リナ」
「はーい」
「しばらくトオルについてやれ」
「分かった!」
「……先生役か」
「嫌そうですね?」
隣で澪がニヤニヤとしている。
「いや。厳しそうだと思っただけだ」
「大丈夫。優しく教えます」
そう言うリナの笑顔を見て、透はなぜか不安になった。
♢
予感は、半分だけ当たった。
「これ」
「油?」
「正解」
「これは?」
「……紐」
「惜しい。荷造り用の細紐」
「それ、惜しいのか?」
「惜しいです」
リナは棚を指差しながら、次々と商品名を教えてくる。
単に物の名前を覚えるだけなら難しくない。
問題は、その下に書かれた文字だった。
「じゃあ、これ読んでみてください」
透は木札へ目を向ける。
三文字。
見覚えはある。
朝の教会でも習った。
だが、一文字ずつなら何とか判別できても、並べられると途端に自信がなくなる。
「……油?」
「違います」
「紐?」
「さっきの商品から離れてください」
「なら何だ」
「石鹸です」
「文字の形、似すぎじゃないか?」
「全然違いますよ?」
即答された。
透はもう一度木札を眺める。
どう見ても似ている。
少なくとも、数日前まで日本語しか使っていなかった人間にはそう見える。
「私も分かんない」
横から覗き込んでいた澪が助け舟にならない感想を述べる。
「お前も勉強中だろ」
「だから一緒に覚えればいいじゃん」
「じゃあこれは?」
「……油!」
「さっき外しただろ」
「あれ?」
リナが噴き出した。
笑われている。
しかも二人まとめて。
透は木札を持ち直しながら、文字を頭へ叩き込むことにした。
考えてみれば、大学へ入るまでにも英単語や漢字を覚える作業は散々やってきた。
言語体系そのものが違うとはいえ、結局やることは反復だ。
ならば、地道に積み上げればいい。
少なくとも、拳を光らせる条件を調べるよりは遥かに分かりやすい。
「トオルさん、覚えるの早いですね」
しばらくすると、リナが感心したように言った。
「まだ全然だよ」
「でも、さっき間違えた文字はもう間違えてないです」
「同じ失敗を何度もするのは嫌だからな」
「透って、変なところで負けず嫌いだよね」
澪の言葉に、透は手を止める。
「変なところは余計だ」
「だって普段は何でも『別に』って感じなのに」
言われてみれば。
興味の薄いことに執着しない自覚はある。
だが、必要だと判断したものは別だった。
文字はこの世界で生きるために必要。
それなら覚える。
単純な話だ。
「必要だからやってるだけだ」
「それを負けず嫌いって言うんじゃない?」
「違うだろ」
「どう違うの?」
「……さあな」
「ほら」
妙に得意げな顔をされる。
納得はしていないが、これ以上続けても澪を喜ばせるだけだ。
透は棚へ意識を戻した。
その直後。
「すみません」
店の入口から声がした。
中年の女性客が、棚を見回しながら困った様子を浮かべている。
「細い針金ってありますか?」
「あ、はい!」
リナが向かおうとしたところで、澪が先に反応した。
「それなら、こっちです!」
軽やかに客の前へ回り込み、店の奥を指差す。
女性は一瞬だけ驚いた顔をした。
半透明の少女が突然案内を始めたのだから、それも当然だろう。
だが、この世界では霊体そのものが知られていないわけではない。
戸惑いは長く続かなかった。
「こっち?」
「はい! 確かこの棚の……」
澪が勢いよく進む。
そして、目的の棚を通り過ぎた。
「……あれ?」
「一つ前だ」
透が声をかける。
「あ、そうだった!」
慌てて戻る。
「ここです!」
「ありがとう」
客は苦笑しながら礼を言い、棚の商品を確認し始めた。
澪は胸を張って透の方へ戻ってくる。
「ほら。私も仕事できた」
「半分くらい俺が案内した気がするけどな」
「細かいこと気にしない」
「店の商品でそれやるなよ」
「次は覚える!」
失敗したことより、できたことの方が嬉しいらしい。
透は呆れながらも、止める気にはならなかった。
むしろ、こういう仕事なら澪にもできる。
物を持てないし棚を整理することも、商品を手渡すこともできない。
けれど、客と話すことはできるし場所を覚えれば案内できる。
リナやガルドを呼びに行くことも可能だ。
できないことばかり目につきやすい澪にとって、自分の役割を見つけることには意味がある。
「ミオさん、じゃあ次のお客さん来たらお願いしてもいい?」
リナが笑顔で呼び掛ける。
「いいの?」
「もちろん。分からなかったら私呼んで」
「任せて!」
さっそく仕事を与えられ、澪の声が一段明るくなった。
読んでいただきありがとうございます!
今のところ1日2〜3投稿を考えています。
もしよろしければ、また来ていただけると大変喜びます。
それでは、次の話で!




