第1話 俺の部屋に女幽霊がいる➄
夕食を終えて食器を片付けた後、透は風呂へ入った。
澪には入浴中に近づかないよう、念のため先に伝えてある。幽霊に鍵が通用しないことは分かっているが、だからこそ最低限の約束くらいは必要だった。
本人は「そこまで非常識じゃない!」と怒っていたものの、先ほどの言動を考えれば確認しておくに越したことはない。
透はシャワーを浴びながら、今日一日のことを振り返った。
朝起きた時から女幽霊がいて、顔を洗っても、朝食を取っても、テレビをつけても、何かしら話しかけてきた。大学へ行っている間だけは一人になれたが、帰宅すればまた同じ調子で迎えられる。
一人暮らしを始めたばかりだというのに、自分の部屋が妙に騒がしい。
ただ、不思議と嫌悪感はなかった。
面倒ではあるし、勝手に居着かれていいとも思っていない。それでも、澪が何か悪意を持っているようには見えなかった。
怖がらせようとするたびに自分の方が驚き、失敗すると分かりやすく落ち込む。あれで本気の恐怖を与えようとしているのだから、本人には悪いが少し無理がある。
問題は、これからどうするかだった。
今夜までという約束はした。
だが、彼女には帰る場所が分からない。知り合いも、頼れる相手もいないらしい。
だからといって、いつまでも透の部屋へ置いておくわけにもいかない――そう考えたところで、具体的に何が困るのかを整理できていないことにも気づいた。
食費は増えない。
部屋の物も使えない。
寝床も必要ない。
それなら問題がないかと言えば、もちろんそんなことはない。着替えや入浴のたびに気を遣うし、何より他人の気配が常にある生活へ慣れる必要がある。
ただ、追い出した後に彼女がどうなるのかを考えると、そちらの方が面倒に感じられた。
「……どっちにしても面倒だな」
決めきれない自分に、苦笑いを浮かべながら透はシャワーを止めた。
♢
着替えを済ませ、髪をタオルで拭きながら洗面所の扉を開けた。
廊下には誰もいない。
澪の気配も、少し離れた居間の方から感じられた。
約束は守っているらしい。
透はタオルを首へ掛け、居間へ向かおうとした。
その時だった。
足元の床から、白い顔が勢いよく突き出した。
「ばあっ!」
「うおっ!?」
反射的に身体が後ろへ引けた。
片足を踏み出しかけた姿勢だったため、透は壁へ手をついて体勢を立て直す。心臓が一度だけ強く跳ね、目の前のものを確認してから、ようやく息を吐いた。
床から生えているように見えた顔は、当然ながら澪だった。
「…………」
透は澪を見下ろした。
澪も透を見上げている。
数秒後。
少女の表情が、驚きから歓喜へ変わった。
「……今!」
「何だ」
「驚いたよね!?」
「まあ、少しは」
「驚いた! 絶対驚いた!」
澪は床から飛び出すように身体を抜き、透の周りを嬉しそうに一周した。
「やった! ついに成功した!」
「そんなに嬉しいのか」
「嬉しいに決まってるでしょ! 昨日から全然怖がってくれなかったんだから!」
透は少しだけ考えた。
確かに、今回は驚いた。
幽霊が怖かったというより、何もないと思っていた足元から突然顔が現れたことへの反射的な反応だ。しかも風呂上がりで警戒が薄れていた。
普通の人間が同じことをしても驚いた可能性はある。
ただ、そこを説明したところで、今の澪が納得するとは思えなかった。
「おめでとう」
「何その適当なお祝い!」
「勝ったんだろ」
「そう! 私の勝ち!」
澪は両手を掲げ、宙でくるりと回った。
それほど喜ぶなら、今回は素直に負けを認めておいた方がいいだろう。透としても、毎回新しい怖がらせ方を考えられるより、一度成功したことで満足してくれた方が助かる。
「じゃあ、今日はもう終わりだな」
「え?」
「勝ったんだから」
「……そういうことになる?」
「ああ」
澪は少し考えた後、納得したように頷いた。
「まあ、今日はこれくらいにしてあげる」
「ありがたい」
「でも明日はもっとすごいの考えるから!」
「終わりじゃないのかよ」
「今日の勝ちは今日の勝ちでしょ」
幽霊の活動方針は、思っていた以上に前向きらしい。
◇
夜も遅くなり、透は居間のソファへ腰を下ろした。
澪はその向かい側に浮かんでいる。椅子に座っているつもりなのか、膝を曲げて宙に腰掛けたような姿勢を取っていた。
先ほどまでの興奮は落ち着いたらしいが、時折思い出したように笑っている。
どうやら、透を驚かせたことが相当嬉しかったようだ。
「なあ」
「何?」
「お前、これからどうするんだ?」
澪の表情が僅かに変わった。
「これから?」
「昨日は今日だけって話だっただろ」
「あ……」
忘れていたらしい。
澪は目を逸らし、少し考えるように口元へ指を当てた。
「……まだ、決めてない」
「そうか」
「元いた場所に戻っても、別に何かあるわけじゃないし」
そう答えた後、澪は窓の外へ視線を移した。
街灯に照らされた道路を、仕事帰りらしい人が歩いていく。向かいの建物にも明かりが灯り、窓の向こうには誰かの生活がある。
この部屋も、昨日まではその中の一つだった。
澪が現れるまでは。
「アンタって、昔から幽霊が見えるの?」
「まあな」
「じゃあ、私みたいなのも?」
「お前みたいなのは初めてだ」
「えっ、そうなの?」
「ここまで普通に喋るやつは珍しい」
透の言葉を聞いて、澪は少し嬉しそうな顔をした。
「じゃあ、私って結構すごい?」
「珍しいとは言った」
「そこはすごいでいいじゃん!」
いつもの調子で文句を言った後、彼女は少しだけ声を落とした。
「……私も、アンタみたいな人は初めてだよ」
透は澪を見る。
「他に見えるやつ、会わなかったのか?」
「全然。たまに目が合った気がする人はいたけど、すぐに逃げちゃうし。声を掛けても無視されることがほとんどだった」
澪は膝を抱えるような姿勢になった。
実際に身体を支えているものは何もないが、その仕草は妙に人間らしかった。
「だからさ。昨日、アンタが普通に話してくれた時、ちょっと嬉しかったんだよね」
「最初は怖がらせようとしてたけどな」
「それはそれ!」
即座に言い返してから、澪は小さく笑った。
だが、透にはその笑顔が今朝までのものと少し違って見えた。
名前は覚えているのに、自分の過去は分からない。誰にも姿を見てもらえず、話しかけても返事がない。いつからそんな状態でいたのか、本人にも分からないという。
透が彼女の立場だったらどうするか。
考えたところで、同じ気持ちを理解できるとは思わない。
それでも、ようやく話し相手を見つけた彼女が、その場所を離れたがらない理由くらいは分かった。
「……帰る場所、ないんだな」
「うん」
澪は今度こそ、はっきり頷いた。
「ごめんね。勝手についてきて、勝手に居座って」
普段の勢いを抑えた声だった。
透は少しだけ視線を落とした。
謝られると、かえって返事に困る。
そもそも彼女がここにいて困ることは、今のところほとんど起きていない。騒がしいのは確かだが、物を壊される心配も、食費が増える心配もない。
気を遣う必要はある。
ただ、それは二人で決まりを作れば済む話かもしれない。
追い出す方法を考えるのも面倒だし、行き場のない幽霊がどこかで知らない人間を怖がらせて回るよりは、ここにいた方がまだましだろう。
透はそう結論づけた。
「じゃあ、ここにいればいいだろ」
「…………え?」
澪が顔を上げた。
「今すぐ帰る場所がないなら、無理に出ていく必要もない」
「……いいの?」
「ただし、勝手に人の着替えを覗くな。風呂にも入ってくるな。あと、寝てる時に顔を覗き込むのも禁止」
「最後のだけ厳しくない!?」
「全部普通のことだろ」
「まあ、そうだけど……」
澪は透をじっと見つめた。
「本当に、ここにいていいの?」
「何度も聞くな。好きにしろ」
少しぶっきらぼうな返事になったが、透としてはそれ以上に説明することもなかった。
行き先が見つかれば出ていけばいい。
その間だけ、ここにいればいい。
少なくとも今は、それで十分だった。
澪はしばらく何も言わず、透の顔を見ていた。
やがて、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「……そっか」
小さな声だった。
その表情を見た透は、なぜか少しだけ視線を逸らした。
感謝されるようなことをしたつもりはないし、大した負担を引き受けたわけでもない。相手が普通の人間ならともかく、幽霊一人を部屋に置くくらいなら、生活費だって変わらないのだから。
「ただ、毎晩あれをやられると寝不足になる」
「えへへ」
「褒めてないぞ」
「分かってるって」
澪は笑いながら、窓際へ移動した。
昨夜と同じ場所だった。
ただ、昨日はそこにいることを許されたのが一晩だけだったのに対し、今日は少し事情が違う。
透は自分の言葉を思い返し、軽く息を吐いた。
どうやら本当に、一人暮らしではなくなったらしい。
◇
寝る準備を終え、透は部屋の灯りを消した。
澪は窓際に浮かんでいる。
昨夜と違って、こちらを怖がらせようとする気配はない。今日の勝利でひとまず満足したのか、窓の外を眺めながら静かにしていた。
透はベッドへ横になる。
明日は朝から大学だ。
今日も随分と余計なことに時間を使ったが、眠れないほどではない。むしろ、昼間の講義と夕方の買い物に加えて、帰宅後は女幽霊の相手までしていたのだから、普段より疲れている気さえする。
「……透」
目を閉じてしばらくすると、窓際から声がした。
「何だ」
「今日、ありがと」
透は目を開けなかった。
澪の声は、いつもより少し小さかった。
「別に」
「そういう返事すると思った」
「分かってるなら聞くな」
「ふふっ」
小さな笑い声が聞こえた。
それから、しばらく静かになる。
透は寝返りを打ち、布団を肩まで引き上げた。
幽霊と同居することになった。
文章にすると随分とおかしな状況だが、今さら驚くことでもない。相手が普通の人間だったとしても、ここまで気軽に居候を許したかどうかは怪しいものだ。
そこまで考えて、透は思考を打ち切った。
今日はもう寝たい。
「ねえ、透」
「……今度は何だ」
「明日も大学?」
「ああ」
「そっかあ」
また少し静かになった。
透は嫌な予感がした。
何かを言い出す前の澪は、妙に分かりやすい。今の声にも、まだ話が終わっていない気配があった。
「……ねえ」
「何だよ」
「明日、私も大学についていっていい?」
透はゆっくり目を開けた。
窓際を見ると、澪が期待に満ちた顔でこちらを見ている。
朝から晩まで付き合って、ようやく静かになったと思ったのに。
この女幽霊は、どうやら部屋の中だけでは満足しないらしい。
「……大学まで来る気か?」
「だって、ここにいても暇なんだもん」
「テレビあるだろ」
「一日中見てたら飽きた!」
たった一日で飽きるな。
そう言いかけて、透は口を閉じた。
物に触れられず、食事も睡眠も必要ない。テレビを眺めるくらいしかできない部屋で、朝から夕方まで一人で過ごすのは、確かに退屈なのかもしれない。
だからといって、大学へ幽霊を連れていく理由になるかは別だ。
「駄目?」
澪がもう一度尋ねる。
透は天井を見上げた。
今日は一度、彼女を部屋に置くことを許した。
その判断を後悔しているわけではない。
ただ、何となく気がついてしまった。
この先、澪に頼み事をされるたび、こうして少しずつ自分の生活が変わっていくのだろう。
「……明日考える」
「えー!」
「寝る」
「まだ返事もらってないんだけど!」
「聞こえない」
「聞こえてるでしょ!」
透は返事をせず、布団を引き上げた。
窓際で澪が何か文句を言っていたが、しばらくするとその声も静かになる。
一人暮らしを始めて、まだ間もない。
それなのに、帰宅すれば誰かがいて、出かける時には見送られ、眠る前には明日の予定を聞かれるようになった。
予定していた生活とは、随分違う。
面倒な女幽霊を拾ってしまったものだ。
そう考えながらも、透は窓際の気配を追い出そうとはしなかった。
明日の朝には、きっとまた騒がしくなる。
その確信だけを残して、透は目を閉じた
読んでいただきありがとうございます!
今のところ1日2〜3投稿を考えています。
もしよろしければ、また来ていただけると大変喜びます。
それでは、次の話で!




