第1話 俺の部屋に女幽霊がいる④
大学の講義を終えてアパートへ戻る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
透は近所のスーパーで買った食材を片手に、階段を上がった。四月に入ってから始まった一人暮らしにも、少しずつ慣れてきている。大学までの道順を覚え、よく使う店も決まり、講義の予定に合わせて買い物をする余裕も出てきた。
もっとも、今朝は予定にない出来事が一つ増えたばかりだった。
白石澪。
名前以外の記憶が曖昧な女幽霊で、なぜか透の部屋に居着こうとしている少女だ。
昨夜は眠る前に顔を覗き込まれ、今朝は鏡と壁から突然現れた。本人は真剣に怖がらせようとしているらしいが、今のところ成果は出ていない。
透としては、このまま飽きて出ていってくれれば一番手間が少ない。
ただ、朝の別れ際に見せた澪の表情を思い出すと、そう簡単にはいかない気もしていた。
「……まあ、考えても仕方ないか」
透は鞄から鍵を取り出し、玄関の扉を開けた。
室内は暗かった。
出かけた時には朝だったので、当然ながら照明はつけていない。窓から街灯の光が僅かに差し込んでいるものの、部屋の奥までは届いていなかった。
テレビの音だけが聞こえる。
朝、澪のためにつけたままにしておいた番組は、いつの間にか夕方のニュースへ変わっていたらしい。
「ただいま」
何気なく声を掛けてから、透は靴を脱いだ。
返事はない。
澪がいないのか、それともまた何か企んでいるのか。どちらにしても、わざわざ探す必要はないだろう。
買い物袋を持って居間へ入ろうとした、その時だった。
テレビの音が途切れた。
壁際に置かれた小さな電子時計も、同時に表示を消す。
「……停電か?」
透は足を止めた。
廊下の照明を試してみたが、スイッチを押しても反応しない。窓の外へ目を向けると、向かいの建物も一部の明かりが消えているようだった。
どうやら部屋だけの問題ではないらしい。
冷蔵庫の中身が気になったが、数分程度なら問題ないだろう。透は買い物袋を一度床へ置き、スマートフォンのライトを使おうとポケットへ手を伸ばした。
その時、視界の端で白いものが動いた。
「…………」
居間の奥。
暗がりの中に、女が立っている。
長い髪が顔の前へ垂れ下がり、俯いた姿勢のまま微動だにしない。朝まで透と普通に話していた少女だと分かってはいるが、周囲が暗いせいもあって、なかなか雰囲気は出ていた。
澪はゆっくりと顔を上げた。
「……おかえり」
普段とは違う、低く掠れた声。
少し工夫したらしい。
「ただいま」
「……私が、見えるの?」
「今朝も見えてただろ」
「そこは乗ってよ!」
澪が一瞬で元の声に戻った。
透は買い物袋を拾い上げ、キッチンへ向かう。
「停電、お前がやったのか?」
「そんなことできないよ。さっき急に消えたから、これは使えると思って!」
「なるほど」
偶然起きた停電を利用したわけか。
その判断自体は悪くない。人間には暗闇の中で見えないものを怖がる性質があるし、白い服の女が立っていれば、それなりの効果は期待できる。
ただ、透には澪の気配が分かる。
しかも相手は、昨夜から怖がらせようとしている女幽霊だ。何か仕掛けてくると予想している状況では、どうしても驚きにくい。
「今のは昨日より良かったと思うぞ」
「何その上から目線!」
「少なくとも、顔を近づけるだけよりは」
「私、幽霊としての自信なくしそうなんだけど……」
「怖がらせる以外の生き方を探せ」
「もう死んでるからね!?」
言い返してから、澪は一瞬だけ自分の言葉に詰まった。
透はそれに気づいたが、何も言わずに買い物袋をキッチンの台へ置いた。
彼女は自分が死んだ時の記憶を持っていない。それでも幽霊である自覚はあるし、普段はこうして冗談にすることもできる。
ただ、本人にとってどこまで笑い話なのかは分からなかった。
透が冷蔵庫を開けようとしたところで、天井の照明が点いた。遅れてテレビの音も戻り、薄暗かった部屋がいつもの景色へ変わる。
「あ、直った」
「みたいだな」
「もうちょっと続いてくれればよかったのに」
「冷蔵庫が困る」
「私より冷蔵庫!?」
「食材が入ってるからな」
「私だって部屋にいるんですけど!」
「電気なくても平気だろ」
「そうだけどさぁ!」
澪は納得できない顔で宙に浮かんでいたが、透が夕食の準備を始めると、すぐにその横へ移動してきた。
どうやら今日は、まだ諦めていないらしい。
◇
夕食は買ってきた総菜と、温めるだけのスープで済ませることにした。
昼食を大学で取ったとはいえ、講義の後に買い物までして帰ると、凝った料理を作る気にはならない。手を抜けるところは抜いた方がいい。
透が食卓へ皿を並べると、澪は向かい側へ回り込んだ。
「今日は何?」
「唐揚げ」
「おお」
「あとサラダ」
「いいね」
澪は料理を見つめた後、何かを思い出したように透へ顔を向ける。
「ねえ、味の説明して」
「今朝もやっただろ」
「朝はパンだったじゃん。唐揚げは別でしょ」
「同じ料理じゃないと駄目なのか」
「当たり前!」
何が当たり前なのかは分からないが、澪にとっては重要らしい。
透は唐揚げを一つ口へ運んだ。衣は少し柔らかくなっているが、肉には下味がついていて、スーパーの総菜としては十分な味だった。
「醤油と生姜の味がする。衣は少し柔らかいけど、中はちゃんと熱い」
「へえ……いいなあ」
「食べたいのか?」
「食べたいよ。食べられないけど」
澪は笑って答えた。
今朝も同じような会話をしたが、透にはその感覚がまだ掴めない。食事を必要としない身体になっても、食べたいという気持ちだけは残るらしい。
何も感じないよりは、ましなのかもしれないが食べられないものを毎日見せられるのも、それはそれで厄介そうだった。
「じゃあ、今度違う味のやつも買ってみるか」
「え?」
「説明するなら、毎回同じものより違う方がいいだろ」
透にとっては単なる献立の話だったが、澪は少し意外そうな顔をした。
「……それ、私のため?」
「俺も食べる」
「そこは素直にそうだって言えばいいのに」
「違うからな」
「はいはい」
妙に楽しそうだ。
透は追及される前に食事へ戻った。
すると、澪の姿が視界から消えた。
気配はあるので、どこかへ出ていったわけではない。食卓の横から回り込み、そのまま床の方へ沈んでいくのが見えた。
また何か始めたらしい。
透は気づかないふりをして、サラダへ箸を伸ばす。
次の瞬間、テーブルの下から澪の顔が現れた。
「ばあっ!」
「…………」
「…………」
透は箸を止め、テーブルの下を覗き込んだ。
澪は床をすり抜けた姿勢のまま、期待に満ちた顔でこちらを見上げている。
「何してるんだ?」
「見れば分かるでしょ! 怖がらせてるの!」
「食事中に出てくるなよ」
「だから、それが目的なんだってば!」
「皿の下から顔が出てきたら食欲なくなるだろ」
「怖かった?」
「邪魔だった」
「ひどい!」
澪は不満そうに床から身体を抜き、宙へ浮かび上がった。
机も椅子も何一つ動いていない。物理的に触れられない以上、澪が何度現れようと料理をひっくり返される心配はなさそうだった。
ただし、食事中に人の顔を突然見せられるのは落ち着かない。
「なあ、怖がらせるのはいいけど、食事中だけはやめてくれ」
「えっ、いいの?」
「何が」
「怖がらせるのはいいって」
しまった。
透は余計な許可を与えたことに気づいたが、言い直すより先に澪が笑顔になった。
「じゃあ、お風呂の後ならいいんだね!」
「待て。そういう意味じゃ――」
「決まり!」
言うが早いか、澪は壁をすり抜けて隣の部屋へ消えた。
透はしばらく壁を見つめ、それから食事を再開した。
面倒なことになった。
もっとも、昨夜から何度も仕掛けられているのだから、今さら一つ増えたところで大差はないだろう。
そう考えた判断が甘かったことを、透は少し後で知ることになる。
読んでいただきありがとうございます!
今のところ1日2〜3投稿を考えています。
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それでは、次の話で!




