第1話 俺の部屋に女幽霊がいる③
食後、透はテレビをつけた。
朝のニュースを流しながら、食器を洗って大学へ持っていく物を確認する。天気予報と交通情報を知りたいだけなので、画面をずっと見ている必要はない。
一方、澪はテレビの前へ移動すると、かなり真剣な顔で画面を眺め始めた。
「これ、見てていい?」
「好きにすれば」
「チャンネル変えてもいい?」
「変えられるのか?」
「……変えられない」
自分で言ってから気づいたらしい。
澪はリモコンへ手を伸ばしてみたが、その指先は何の抵抗もなく通り抜けた。机に置かれたリモコンは、当然、一ミリも動かない。
「分かってたけど、こういう時ちょっと不便だね」
「ちょっとで済むのか?」
「だって、ほら。壁とか気にしなくていいし、歩かなくても移動できるし」
「物は持てないけどな」
「そこは今から考えないようにしてるの!」
澪が透を睨む。
身体を自由に動かせる一方で、普通の人間なら何気なくできることができない。その不自由さは、今後も生活の端々で出てくるのだろう。
透はリモコンを手に取り、澪へ向けた。
「見たい番組があるなら言え」
「えっ、いいの?」
「支度してる間だけな」
「じゃあ、何か面白そうなの!」
「指定が雑だな」
いくつかチャンネルを変え、朝の情報番組へ合わせる。
澪は画面に近づき、そこで紹介されていた飲食店の映像を眺め始めた。
「わ、おいしそう……」
画面には、クリームの載った大きなパフェが映っている。
透は手を止めずに、横目でそれを見た。
「甘い物、好きなのか?」
「分かんない。でも、これ食べたいって思う」
「食べられないだろ」
「分かってるってば」
澪は口を尖らせたが、すぐに画面へ向き直った。
「でも、好きな物って、今から見つけてもいいじゃん」
何気なく口にしたような言葉だった。
透は一瞬だけ手を止め、それから鞄へノートを入れた。
記憶がないということは、失ったものを探すだけではなく、これから新しく知ることもできるということなのだろう。澪がそこまで考えて言ったのかは分からないが、少なくとも今、彼女は画面の中のパフェへ興味を示している。
「じゃあ、甘い物が気になるってことにしとけばいいだろ」
「うん。そうする」
澪は満足そうに頷いた。
次に画面が切り替わると、また別の話題へ声を上げる。忙しい奴だと透は感じたが、静かな部屋にテレビの音以外の声があるのは、思ったほど悪くなかった。
もちろん、四六時中となれば話は別だ。
そのあたりは、今日中に考える必要がある。
◇
大学へ出かける時間が近づき、透は寝室で服を着替えることにした。
クローゼットを開き、シャツとパンツを取り出したところで、背後から澪の声がする。
「今日は何着るの?」
「大学に行く服」
「それは分かるけど。もうちょっとおしゃれとか気にしないの?」
「一応気にしてる」
「えっ、本当に?」
「驚くところか?」
透が振り返ると、澪は悪びれもせず笑った。
そして、そのまま部屋に浮かんでいる。
「……お前、出ていけよ」
「え?」
「着替えるんだが」
澪は透の手元にある服を見て、それから本人の顔へ視線を戻した。
一拍遅れて意味が通じたらしい。
「わっ、ごめん!」
慌てて壁の方へ移動し、そのままするりと隣の部屋へ抜けていく。
透は壁を見つめた。
扉を使うという発想がないらしい。
幽霊なのだから合理的ではあるが、こちらとしては毎回心臓に悪い。もっとも、壁を抜けて移動されること自体には、昨夜の時点で多少慣れ始めていた。
着替えを済ませて居間へ戻ると、澪はテレビの前で待っていた。
「もういい?」
「ああ」
「一応、後ろ向いてたからね!」
「壁の向こうにいたんだから見えないだろ」
「そりゃそうだけど!」
どうやら礼儀を守ったことを評価してほしいらしい。
「偉いな」
「その言い方、絶対馬鹿にしてる」
「気のせいだ」
「アンタ、ほんと可愛げないよね」
言われ慣れた類いの評価だった。
透は財布とスマートフォンをポケットへ入れ、玄関に置いてある鞄を持ち上げる。授業に必要な物は揃っているし、忘れ物もなさそうだ。
あとは靴を履いて出るだけだった。
ところが、玄関へ向かう途中で、また澪の姿が消えた。
気配はある。
今度は扉の向こうではなく、廊下の壁際だろう。
透が特に気にせず進むと、玄関の横にある壁から、澪の顔だけが勢いよく突き出した。
「ばあっ!」
透は足を止めた。
澪は満を持した顔でこちらを見ている。
「…………」
「…………」
「……何でまた同じことを?」
「今度は壁からだったでしょ!」
「場所の問題なのか?」
「違うの!?」
透は鞄を肩へ掛け直した。
昨夜の天井、今朝の鏡、そして玄関の壁。登場する場所こそ変わっているが、やっていることは基本的に同じだった。
ただ、今回は不意を突くという意味では悪くない。
透に気配を察知されていなければ、多少は驚いたかもしれない。
「もう少し気配を消したらどうだ」
「それ、できるのかな……」
「知らん。幽霊だろ」
「幽霊なら何でも知ってると思わないでよ!」
「じゃあ練習だな」
「だから何で怖がらせ方を指導するの!」
澪は悔しそうに唸った後、壁から身体を引き抜いた。
透は靴を履き、玄関の扉へ手を掛ける。
その時、澪が少しだけ近づいてきた。
「ねえ、何時くらいに帰ってくる?」
「講義が終わってからだから、夕方かな」
「そっか」
「何だ?」
「別に。聞いただけ」
澪はそう言って、扉の横へ移動した。
今朝から散々騒いでいたせいか、急に静かになると妙に目につく。
透は少しだけ考えた。
彼女に食事も睡眠も必要ないとしても、一人で時間を潰すのは退屈なのだろう。物に触れられない以上、テレビのチャンネルを変えることすらできない。昨夜まではそれが当たり前だったのかもしれないが、話し相手を見つけた後では、余計に長く感じる可能性もある。
だからといって、大学へ連れていくわけにもいかない。
透には授業があるし、澪が他人にも見えるようなことがあれば、それはそれで面倒だ。
「テレビはそのままにしておく」
「え?」
「退屈なら見てろ。勝手に消せないだろ」
澪は一瞬目を丸くした後、ぱっと表情を明るくした。
「いいの?」
「帰るまでな。音量は小さくしておく」
「うん!」
それで十分だったらしい。
透はリモコンで音量を下げ、玄関へ戻った。
「じゃあ、行ってくる」
何気なく口にした言葉だった。
一人暮らしを始めてから、誰かに向かってそう言う機会はほとんどなかった。出かける時に声を掛ける相手がいないのだから、当然といえば当然だ。
言ってから少しだけ違和感を覚えたが、わざわざ訂正するほどのことでもない。
「……あ」
澪が小さく声を漏らした。
透が顔を向けると、彼女は一度瞬きをしてから、少し照れくさそうに笑った。
「行ってらっしゃい、透」
「……ああ」
透は扉を開け、外へ出た。
閉まった扉の向こうから、テレビの音が僅かに聞こえてくる。
昨日までは、帰宅しても誰もいない部屋だった。朝も夜も、自分が動かなければ何一つ変わらない。それが一人暮らしの気楽さであり、透が気に入っていた部分でもある。
今はそこに、妙に騒がしい女幽霊が一人いる。
帰宅する頃には、きっとまた何か仕掛けてくるのだろう。
そう考えると、少し面倒だった。
もっとも、朝から散々怖がらせようとしては失敗していた彼女が、夕方までに急成長するとも考えにくい。
透は小さく息を吐き、大学へ向かって歩き出した。
読んでいただきありがとうございます!
今のところ1日2〜3投稿を考えています。
もしよろしければ、また来ていただけると大変喜びます。
それでは、次の話で!




