第1話 俺の部屋に女幽霊がいる➁
翌朝。
透が目を覚ました時、部屋にはまだ女幽霊がいた。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、見慣れ始めた一人暮らしの部屋を照らしている。
窓際の机には昨日使ったノートと筆記用具が置かれ、床には脱いだ上着が畳まれていた。何も変わっていないように見える室内で、ただ一つ、昨日まで存在しなかったものがある。
澪は窓の前で宙に浮かび、外を眺めていた。
昨夜と同じ制服姿だ。朝日を受けた髪は暗い茶色に見え、その輪郭には窓枠が僅かに透けている。
外を見ている横顔だけなら普通の少女と大差ないのに、床から足が離れているせいで、どうにも現実感がなかった。
透は寝台から身体を起こし、枕元の時計を確認した。起床予定より五分早い。昨夜は随分と妙なことに付き合わされたが、睡眠時間はどうにか確保できたらしい。
「……まだいたのか」
声を掛けると、澪が勢いよく振り返った。
「あ、おはよう!」
「おはよう」
「ちゃんと起きたね」
「目覚まし掛けてるからな」
「鳴ってないよ?」
「鳴る前に起きただけだ」
澪は何が面白いのか、少し得意げに笑った。
透には、その笑顔の理由がよく分からない。昨夜、部屋にいてもいいとは言ったが、一晩明けても何の疑問もなく居座っているとは思わなかった。
もっとも、幽霊にとっては一晩という区切りにも大した意味がないのかもしれない。眠る必要がないなら、夜が明けたところで何かが終わるわけでもない。
「昨日、今日だけって言わなかったか?」
「言ったね」
「じゃあ、そろそろ出ていく相談をする時間だな」
「おはようって言ったばかりなのに!?」
「朝だからな」
「朝から冷たい!」
澪は文句を言いながらも、部屋を出ようとはしなかった。透がベッドを降りると、彼女も少し離れた位置を保ちながら後をついてくる。
昨夜の話では、澪には自分の帰る場所が分からないらしい。自分の名前は覚えているものの、生前の生活や家族のことは曖昧で、そもそもなぜ幽霊になったのかさえ思い出せないという。
その事情は理解できる。
だからといって、透の部屋を新しい住処にしていいかは別の問題だった。
「行くところ、本当にないのか?」
「……うん」
澪の返事は、昨夜より少しだけ小さかった。
「元いた場所へ戻るのは?」
「戻っても何もないし。それに、あそこにいたら誰とも話せないんだよ?」
彼女は窓の外へ一度目を向け、それから透へ視線を戻した。
「アンタは私が見えるし、普通に話してくれるじゃん」
「普通に話した結果、追い出そうとしてるけどな」
「そこは普通じゃなくていいの!」
都合のいい要求である。
透はそれ以上の返事を保留にし、洗面所へ向かった。まずは顔を洗って、朝食を用意する。幽霊の今後を考えるにしても、講義へ遅れるわけにはいかない。
洗面台の前に立って水を出すと、澪も当然のようについてきた。
「ねえ、アンタって朝早いんだね」
「一限からある日はな」
「大学?」
「ああ」
「へえ。大学生なんだ」
「昨日話さなかったか?」
「大学があるとは聞いたけど、何年生かまでは聞いてない」
「一年」
「じゃあ、まだ入ったばっかり?」
「そういうことになる」
透が顔を洗っている間、澪は洗面所の狭い空間を興味深そうに見回していた。
一人暮らしを始めて間もないため、洗面台の周りには最低限の物しかない。歯ブラシ、整髪料、タオル。それくらいだ。
もっとも、澪にはどれも使えない。彼女が棚へ顔を近づけても、置いてある物が動くことはなかった。
「一人暮らしって感じするね」
「一人暮らしだからな」
「今は一人じゃないけど」
「そこを既成事実にするな」
透はタオルで顔を拭き、鏡へ目を向けた。
その瞬間、鏡の中へ澪の顔がぬっと現れた。
「ばあっ!」
「…………」
透は澪を見た後、タオルを畳んだ。
「顔を洗ってる時にやるなよ」
「そこ!?」
「ビクッとしたら水が跳ねるだろ」
「いや、驚かしてるんだけど!」
どうやら昨夜の失敗を引きずっているらしい。
鏡の中へ突然幽霊が現れるというのは、怖がらせ方としては悪くない。少なくとも、相手が普通の人間なら効果はあっただろう。ただし、透は鏡に現れる霊にも覚えがあるし、何より背後へ近づいてきた澪の気配を先に感じていた。
結果が分かっているものに驚くのは難しい。
「俺の反応を見たいなら、もう少し工夫した方がいいな」
「昨日もそれ言った!」
「改善されてないからな」
「幽霊に厳しすぎない!?」
澪が頬を膨らませる。
透は洗面所を出ながら、どこか聞き慣れた調子になりつつあるその抗議を聞いていた。
たった一晩で慣れるのもどうかと思うが、彼女は見た目よりずっと騒がしい。存在が怖いというより、同じ部屋にずっと誰かがいることの方が問題になりそうだった。
◇
朝食は食パンと卵、それにインスタントのスープで済ませることにした。
透が狭いキッチンで準備を始めると、澪はその横へ浮かんできた。
「何作ってるの?」
「見れば分かるだろ」
「料理してるところ、見たいんだもん」
「料理ってほどでもないぞ」
フライパンへ卵を落とし、パンを焼く。実家にいた頃は食事を用意してもらえるのが当たり前だったが、一人暮らしを始めてからは、放っておけば何も出てこないという単純な事実を毎朝確認している。
面倒ではある。
ただ、自分の食べる物くらい自分で用意できないのも困るので、今のところは最低限の自炊を続けていた。
「へえ、ちゃんとできるんだ」
澪が横から感心したように言う。
「卵を焼いただけだぞ」
「私だったら焦がしそう」
「お前はフライパン持てないだろ」
「そうだった!」
本人が忘れるな。
澪は笑っていたが、透が皿を食卓へ運ぶと、ふと料理へ視線を落とした。
「……いい匂いするね」
「匂い、分かるのか?」
「ううん。何となく、そんな気がするだけ」
澪は少し考えるように鼻先へ指を当てた。
「見てると、焼いたパンの匂いとか思い出せそうなんだけど……実際に嗅いでる感じじゃないんだよね」
「なるほど」
透は食卓へ座った。
幽霊には食事が必要ない。それは昨夜の話でも分かっていたが、目の前に食べ物があっても味も匂いも確かめられないとなると、思っていたより不便なのかもしれない。
澪は向かい側の椅子へ腰掛けるように身体を下ろした。実際には座面に触れておらず、椅子の上で空中に座っているだけだ。
「……すごいな、その座り方」
「何が?」
「疲れないのか?」
「疲れないけど?」
聞くだけ無駄だったらしい。
透がパンを口へ運ぶと、澪はじっとその様子を見つめた。
「おいしい?」
「普通」
「普通って、どう普通?」
「パンの味がする」
「それ説明になってない!」
「普通のトーストだからな」
「もうちょっとあるでしょ。サクサクしてるとか、香ばしいとか」
言われて、透はもう一口食べた。表面は軽く焼けていて、内側はまだ柔らかい。何の変哲もない食パンだが、それを楽しそうに聞いている澪の前では、単に普通と答えるのも少し気が引けた。
「外は少し硬くて、中は柔らかい。あと、バターの味がする」
「おお、やればできるじゃん」
「何の採点だ」
「食レポ!」
「朝から面倒なことを」
澪は笑いながら、卵の方へ視線を移す。
「じゃあ、それは?」
「卵だ」
「見れば分かる!」
どうやら食事の間中、説明を求められるらしい。
透は少し後悔した。
ただ、澪が自分の皿を羨ましそうに眺めていることにも気づいていたので、結局、卵を食べた時にも味を言葉にしてやった。
彼女が以前どんな物を好きだったのかは分からない。本人も覚えていないのだから、今ここで尋ねても答えは出ないだろう。
だからせめて、何を食べているのかくらいは伝えてもいい。
別に大した手間でもないのだから。
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