第1話 俺の部屋に女幽霊がいる①
夜中に目を覚ますと、女がいた。
神代透の視界いっぱいに、見知らぬ少女の顔が逆さまに映っている。
暗い茶色の髪が重力に従って垂れ下がり、その向こうにある顔は、薄暗い室内でも不自然なほどはっきり見えた。
距離が近い。
寝返りを打てば額がぶつかりそうな位置で、少女は透の顔をじっと覗き込んでいた。
もっとも、実際にぶつかることはないだろう。
少女の髪越しには天井の木目がうっすら透けており、その身体は床へ足をつけるどころか、天井付近に逆さまの姿勢で浮かんでいる。
透は数秒ほど少女を見つめ、それから枕元の時計へ目を向けた。午前二時を少し過ぎたところだった。
大学が始まって間もない時期とはいえ、明日も朝から講義がある。できれば余計なことで睡眠時間を削りたくない。
「……何してるんだ?」
「ひゃっ!?」
少女の方が悲鳴を上げた。
驚いた拍子に身体が跳ね上がり、頭を天井へ突っ込みかける。もちろん衝突することはなく、そのままするりと天井をすり抜けたかと思うと、慌てて顔だけを室内へ戻してきた。
「な、何で起きてるの!?」
「今、起こされたからだろ」
「そうじゃなくて! 何でそんな普通なの!?」
そんなことを聞かれても困る。
夜中に目を覚ましたら幽霊がいた。それ以上でも以下でもない。初対面の相手に顔を覗き込まれていれば多少は驚くが、少なくとも叫び声を上げるほど珍しい光景ではなかった。
透は上半身を起こし、天井から半分だけ突き出している少女を改めて観察した。
年齢は自分より少し下だろうか。高校生らしい制服を着ており、肩を越える程度の髪と、表情のよく動く目が印象的だった。顔立ちは整っている方だと思うが、今は驚きで眉も口元も忙しく動いているせいで、落ち着いた雰囲気とは程遠い。
そして、身体の輪郭が僅かに透けている。
幽霊であることに疑いはなさそうだった。
「とりあえず、そこから出てこいよ。話しにくい」
「えっ、出てこいって……ホントに私が見えてるの?」
「見えてなかったら誰と話してるんだ」
「いや、そうなんだけど!」
少女は天井から身体を抜き、透の寝台から少し離れた場所へ降りてきた。ただし足は床に届いていない。浮いているというより、立っている姿勢のまま床から僅かに離れていると言った方が近かった。
本人にとっては自然な状態らしいが、透の目には床との距離が微妙に気になる。
「……何?」
「いや、浮いてるなと思って」
「幽霊だからね!」
「そうだな」
「反応薄っ!」
少女は不満そうに声を上げた。
どうやら透の反応は、彼女の想定と大きく違っているらしい。こちらとしても、夜中に他人の寝室へ現れた幽霊から反応の薄さを責められるとは思わなかった。
「お前、俺を怖がらせたかったのか?」
「……そうだけど」
「それで逆さまに?」
「そう! 目を覚ました瞬間、目の前に女の顔があったら怖いでしょ? それも天井から!」
自信満々に説明されても、仕掛けを解説された後の手品のような気分にしかならない。
ただ、普通の人間なら十分怖いのだろう。夜中の自室に知らない少女がいて、それが天井から逆さまに現れたとなれば、悲鳴くらい上げても不思議ではない。
透がそうしなかったのは、単に見慣れているからだった。
「惜しかったな」
「絶対惜しくなかったでしょ、その言い方!」
「次はもう少し離れた場所から出てきたらどうだ。近すぎると顔しか見えない」
「怖がらせ方の指導をしないでよ!」
少女は両腕を広げて抗議したが、透にはその動作よりも、彼女が何の抵抗もなく宙で姿勢を変える方が気になった。
生きた人間と同じように表情を変え、会話も成立する。それなのに、身体には重さがない。
幽霊といっても姿や振る舞いは様々だが、ここまで普通の人間に近いものは珍しかった。
少なくとも、透がこれまで見てきた中では。
「それで、何でここにいるんだ?」
透が尋ねると、少女はようやく自分が質問される側だと思い出したらしい。辺りを見回し、気まずそうに口をすぼめた。
「……ちょっと、ついてきただけ」
「俺に?」
「うん」
「いつから?」
「夕方くらい」
夕方。
透は大学から帰宅するまでの道筋を思い返した。
講義を終え、途中の店で夕食を買い、いつもの道を歩いて帰ってきた。特に変わったことはなかったはずだが、一度だけ背後に視線のようなものを感じた覚えがある。
あれが彼女だったのだろう。
大学進学を機に始めた一人暮らしは、まだ日が浅い。慣れない土地での生活ではあるものの、幽霊に尾行されることまで新生活の予定には入れていなかった。
「気づかなかったな」
「えっ、気づいてなかったの?」
「気配はあったけど、誰かまでは見なかった」
「何それ……」
少女は複雑そうな顔をした。気づかれなかったことを喜べばいいのか、気配だけで存在を認識されていたことを驚けばいいのか、判断に迷っているように見える。
「それで、帰ってきたら部屋まで入ってきたのか」
「うん。壁を通れば入れたし」
「鍵の意味がないな」
「幽霊相手に鍵は無理でしょ」
それもそうだ。
ただ、鍵を掛けた自室が他人の侵入を防ぐ場所でなくなるのは、あまり歓迎できない。相手が幽霊ならなおさら、どうやって追い出せばいいのか分からない。
透は寝台の端へ座り直した。
「俺に何か用があるのか?」
「……別に」
「じゃあ、どうしてついてきた?」
「それは……」
少女の視線が泳いだ。
ここまで威勢よく喋っていたのに、急に返事が鈍くなる。
透は追い立てず、答えが出るのを待った。嘘を考えているというより、本人にも理由を整理できていないようだったからだ。
「何となく、かな」
「何となくで人の部屋まで来たのか」
「だって、気になったんだもん。アンタのこと」
「俺?」
「アンタ、何か違う感じがしたんだよね。実際私が見えるみたいだし」
「そうか」
「……それだけ?」
「他に何て答えればいいんだ」
「もうちょっと気にならない!?」
気にならないわけではない。
透にも、彼女を見た時から妙な引っかかりはあった。普通の幽霊とは違う気配がするし、何より彼女がこちらを選んでついてきた理由も分からない。
ただ、今の段階で確かめようのないことを考え続けても仕方がなかった。
「名前は?」
透が話題を変えると、少女は少し驚いた顔をした。
「……名前?」
「あるだろ」
「あるよ! そりゃあるけど」
そこで少女は急に勢いを失い、何かを探すように視線を落とした。
「白石……澪」
「白石澪?」
「うん。それは覚えてる」
それは、という言葉が気に掛かった。
「他は?」
澪は返事をしなかった。
透が続きを待っていると、彼女は困ったように笑う。
「……あんまり」
「記憶がないのか?」
「そういうことになるのかな。名前は分かるんだけど、自分がどこの学校に通ってたとか、何が好きだったとか、そういうのはほとんど思い出せなくて」
彼女は自分の制服へ目を落とした。
「これも、気づいた時には着てた。たぶん高校生だったんだろうけど……」
さっきまでの騒がしさが嘘のように、声が小さくなっていた。
透は澪を見た。
幽霊だからといって、全員が自分の死を理解しているわけではない。亡くなった時のことを覚えていないものもいれば、生前と同じ場所を繰り返し歩き続けるものもいる。
だが、澪はそれらとも少し違う。
自分が幽霊であることは理解している。
名前も覚えている。
それでいて、自分が何者だったのかは曖昧なままだ。
「いつからその状態なんだ?」
「分かんない。気づいたら、あの辺りにいたから」
「あの辺り?」
「アンタを見つけた場所の近く」
澪はそれ以上、具体的な場所を説明できないようだった。
透には、夕方通った交差点付近の景色が浮かんだ。日が傾いた道路と、信号待ちの人影。どこにでもある街角のはずなのに、その一帯を思い出すと胸の奥が僅かに重くなる。
透はそれ以上、記憶を辿るのをやめた。
今ここで考えるべきことではない。
「思い出したいのか?」
「……そりゃ、まあね」
澪は笑おうとしたが、今度は少しぎこちなかった。
「何も分かんないの、変な感じだし。どうして幽霊になったのかも知らないって、我ながらどうなのって思うじゃん?」
冗談めかしているものの、その表情からは普段の勢いが消えていた。
透は安易な慰めを口にしなかった。
自分の過去が分からない相手に「きっと大丈夫だ」と言ったところで、何が大丈夫なのか説明できない。それに、思い出したいかどうかも、今後どうするかも、彼女自身が決めることだろう。
「そうか」
「……うん」
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
窓の外を車が一台通り過ぎ、遠くでタイヤの音が薄れていく。
部屋の時計を見ると、もう午前二時半に近かった。
事情は多少分かったが、だからといって明日の講義が休みになるわけではない。透は掛け布団を手に取った。
「話は分かった。俺は寝る」
「えっ、もう!?」
「明日、大学なんだよ」
「今の話を聞いた直後に普通に寝るの!?」
「夜中だからな」
「いや、そうだけど!」
澪は透の前へ回り込み、慌てた様子で両手を広げた。本人は進路を塞いでいるつもりなのかもしれないが、身体に触れられない以上、寝台へ戻る妨げにはならない。
「待って。私、どうすればいいの?」
「帰れば?」
「どこに!?」
即座に返された。
確かに、記憶がないと言っていた相手へ帰れと告げるのは少し無理がある。
ただし、それと自分の部屋へ居着かれることは別問題だ。
「元いた場所とか」
「あそこ、何にもないんだけど」
「幽霊なら泊まる場所も必要ないだろ」
「そういうことじゃなくて!」
澪は頬を膨らませた。
何を求められているのか、透にはまだ分からない。寝床も食事も必要ない相手なら、行き先を決めること自体に急ぐ理由はないはずだった。
それでも彼女がこの部屋を離れたがらないことは、言葉の端々から伝わってくる。
「……アンタ、私がいても怖くないんでしょ?」
「別に」
「見えてるし、声も聞こえるんでしょ?」
「ああ」
「だったら、少しくらいいいじゃん」
「何が」
「ここにいるの」
さらりと言われた。
透は澪を見た。
「何でそうなる?」
「だって、私に気づいて普通に話してくれる人、他にいないし」
「それは俺の部屋に住む理由になるのか?」
「住むっていうか、居るだけ! 物とか使わないし、ご飯も食べないし、場所も取らないよ?」
言いながら、澪は自分の身体をくるりと回してみせた。
確かに場所は取らない。壁を通り抜けられるのだから、床面積について考える必要すらない。
しかし、そこにいるのは見知らぬ少女だ。
相手が幽霊でも、他人と同じ部屋で暮らすことになるという事実は変わらない。
「一人暮らしの意味がなくなるな」
「私、人じゃないからセーフ!」
「便利な理屈だな」
「それに、ほら。怖がらせる練習もできるし」
「それは俺に何の得があるんだ?」
「……退屈しない?」
「今のところ睡眠の邪魔にしかなってない」
「うっ」
澪が胸を押さえる真似をした。
幽霊に心臓があるのかは知らないが、精神的な痛みなら十分伝わったらしい。
透は少し考えた。
追い出そうとしても、相手は壁を抜けられる。鍵も役に立たず、透自身に除霊の心得があるわけでもない。力ずくでどうにかするという選択肢は、最初から存在しなかった。
それに、彼女が何か害を与えようとしている様子もない。
やったことといえば、寝顔を覗き込んで怖がらせようとした程度だ。
だからといって、この先も好き勝手されていいわけではないが。
「……今日だけな」
「え?」
「今夜はいてもいい。明日、どうするか考えろ」
澪の表情がぱっと明るくなった。
「いいの!?」
「今日だけだぞ」
「うんうん!」
「あと、人が寝てる時に顔を覗き込むな」
「えー」
「何で不満そうなんだ」
「せっかく幽霊なのに……」
「幽霊としての活動方針を見直せ」
澪は納得していない顔をしたものの、それ以上は食い下がらなかった。
透は掛け布団を戻し、横になる。
これでようやく眠れる。
そう思ったところで、天井付近から声がした。
「ねえ」
「……何だ」
「私、どこにいればいい?」
目を開けると、澪は先ほどと同じように宙へ浮いていた。ただし今度は逆さまではなく、透の様子を窺うように身体を少し傾けている。
「好きにすればいいだろ。ただし邪魔するな」
「じゃあ、ここにする」
澪は窓際へ移動した。
そこにある机にも椅子にも触れず、窓の近くでふわりと姿勢を落ち着ける。本人は椅子へ腰掛けているつもりなのか、空中で膝を曲げていた。
透はそれを見届けてから、部屋の灯りを消した。
暗くなると、澪の輪郭が僅かに淡く見える。透の目にだけ映るその姿は、窓から差し込む街灯の光に重なり、ますます現実感が薄かった。
「……おやすみ」
少し遅れて、澪が言った。
「おやすみ」
透が答えると、彼女は意外そうに目を瞬かせ、それから小さく笑った。
その様子を見ながら、透は目を閉じた。
大学進学を機に始めた一人暮らし。慣れない家事や講義の予定にはまだ戸惑うことも多いが、自分の生活は自分で決められる。その気楽さだけは、思っていた以上に気に入っていた。
それが今夜、あっさり崩れたらしい。
名前以外の記憶が曖昧で、怖がらせるのも下手な女幽霊。行く当てもないという彼女を、ひとまず一晩だけ部屋に置くことになった。
面倒なことになった。
しかも、たった一晩で済む気があまりしない。
透は寝返りを打ち、窓際へ背を向けた。
「……透」
「今度は何だ」
「何でもない。ちゃんと名前、覚えてたんだなって」
「さっき聞いたばかりだろ」
「そっか」
それきり澪は静かになった。
ようやく眠れそうだと、透は息を吐く。
ただ、背後の気配は消えていない。
今夜だけと約束したはずなのに、どういうわけか、明日の朝もあの女幽霊は当然のように部屋にいる気がした。
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