第5話 異世界生活はじめました⑥
ガルドが奥から帳簿を持って戻ってくる。
「これだなシル」
「えぇ、助かります」
シルと呼ばれた若い男は代金を取り出そうとして、手を止めた。
そして倒れ掛かるように壁に手をつく。
「おい、大丈夫か?」
ガルドが眉を寄せた。
「すみません。ちょっと立ち眩みが」
「顔色悪いぞ」
「最近、あんまり眠れてなくて」
苦笑しながら答える。
その間にも、黒い靄は背中の周囲で揺れていた。
それは、霊体に見えなかった。
人の形もなければ、意思らしいものも感じない。
日本でも、場所や人に異様な気配が残っていることはあった。ただ、それをここまで明確な形で見ることは少ない。
この世界の魔力が関係しているのか。
それとも、別の何かなのか。
「透」
澪が耳元へ近づいてくる。
「あれ、使役霊じゃないよね?」
「少なくとも、さっき見たのとは違うな」
買い物の途中で見た使役霊は、輪郭が薄くても人の姿を残していたが目の前のものには、それがない。
「お前、何か感じるか?」
「うーん……」
澪がシルへ少し近づく。
もちろん、触れることはない。
数歩分の距離を残したところで止まり、目を細めた。
「嫌な感じはする。でも、人がいる感じじゃない」
「俺も同じだ」
会話が聞こえたのか、シルが二人を見た。
「あの……俺に何か?」
透は一瞬迷った。
出会ったばかりの相手へ、背中に黒いものがついている、と言ったところで信じてもらえるか分からない。
だが、この世界では霊体の存在自体は知られている。
日本で同じことを言うよりは、まだ話が通じる可能性があった。
「はじめまして。俺は透といいます」
「澪です」
二人に続きガルドが、補足を入れる。
「二人は、俺の知人だよ」
「はぁ……シルといいます」
少し困惑顔のシルに透は、言葉を続ける。
「少し聞いてもいいですか?」
「はい?」
「体調が悪くなったのは、いつ頃からですか」
シルは一瞬怪訝そうな顔をしたが、答えてくれた。
「三、四日前くらいです。最初は寝不足かと思ってたんですけど」
「症状は?」
「身体が重いのと、頭痛ですね。夜になると特に酷くて。寝ても疲れが取れない感じで」
「熱は?」
「ないと思います」
透は黒い靄へ視線を戻した。
症状とこれが関係しているとは、まだ断定できない。
単に病気で、その身体に偶然別のものがまとわりついている可能性もある。
決めつけるのは早い。
「トオル、何か分かるのか?」
ガルドが尋ねる。
「分かる、というほどではありません。ただ……」
言うべきだろうか。
透は澪を見る。
すると彼女は小さく頷いた。
「シルさんの背中に、黒い靄みたいなものが見えます」
「黒い?」
ガルドがシルの背後へ回る。
目を凝らしているが、反応を見る限り何も見えていないらしい。
「俺には見えんな」
「私にも」
リナも首を振った。
皆の視線が集まる中、シルの表情が強張る。
「それって……霊ですか?」
「分かりません」
透ははっきりとは答えられない。
「人の形はしていませんし、意思があるようにも感じません。澪にも見えていますが、使役霊みたいな普通の霊体とは違うようです」
「普通のって言っても、私もそんなに詳しくないけどね」
横で澪が付け加える。
シルは自分の肩へ視線を向けようとした。
当然、背中までは見えない。
「……何か悪いものですか?」
「それもまだ分かりません。ただ、体調が悪くなった時期と、何か変わったことがなかったか気になります」
「変わったこと……」
シルは眉を寄せた。
「仕事は?」
「文具や帳簿、封蝋なんかを扱ってる店で見習いをしてます。ここにも仕入れで来ることがあって」
「仕事場は最近変わっていない?」
「いえ」
「家は?」
「同じです」
透は質問を続けながら、自分でも何を探しているのか整理する。
三、四日前から症状が出た。
なら、その前後で何か普段と違う行動を始めていないだろうか。
「通勤する道は?」
少し考えたシルは、ハッとした表情を浮かべる。
「あ……」
「何かありますか?」
「最近、帰り道を変えました」
透と澪が同時に顔を向けた。
「どうして?」
「大通りの工事で遠回りになるからです。裏手を通る方が早くて」
「その道に、何か変わった場所は?」
「変わった場所……」
シルは顎へ手を当て思案する。
「古い祠があります。小さいやつですけど」
「祠?」
澪が反応した。
「毎日そこを通るんですか?」
「この三、四日は」
時期が一致する。
偶然なのだろうか。
だが、無視するのは早計かもしれない。
「その祠は、どこにあるんですか?」
「西門寄りの古い区画です。昔の共同墓地へ行く道の途中にあります」
共同墓地。
透はその言葉を聞き、僅かに眉を寄せた。
霊体の存在が認められている世界で、墓地。透の中で怪しさが急上昇していく。
だからといって何かがあるとは限らない。
しかし、今まで出てきた要素が一本の線で繋がり始めているように感じた。
「……透」
澪の声が少し低くなる。
「そこ、気になるね」
「ああ」
澪も同じ意見のようだ。
だが、今すぐ行くべきか。
透には霊障を祓う方法などない。
澪にも、何か特殊な能力があるかもしれないという話は聞いたものの、使えるかどうかすら分かっていない。
何より、マルタから勝手な実験はするなと言われたばかりだ。
「今日はその道を通らない方がいいと思います」
透はシルへ向き直った。
「原因がそこだと決まったわけではありません。ただ、時期が一致しているなら避けた方がいい」
「分かりました」
「それと、できれば教会で診てもらってください。身体の病気なら、そっちも確認した方がいいでしょう」
「はい……」
シルは少し不安そうだったが、素直に頷いた。
「なんか透、お医者さんみたいだね」
「茶化すなよ」
「褒めたつもりだったんだけど?」
下がった雰囲気を澪なりに気遣ったようだ。透もそれ以上絡まなかった。
ガルドも腕を組む。
「俺からも言っとく。今日は早く帰れ。帳簿は持っていけるな?」
「大丈夫です」
シルが帳簿を受け取る。
その瞬間。
透は黒い靄へ手を伸ばした。
触るつもりではなかった。
ただ、何か反応するのかを確かめようとしただけだ。
指先が肩の近くへ届く。
その時、黒い靄が揺れた。
「……っ」
反射的に手を引く。
靄の一部が、透の指先へ伸びた。
それは、生き物が反応したようにも見えた。
だが、次の瞬間には元へ戻っている。
「透?」
澪がすぐに寄ってくる。
「今、動いたよね?」
「ああ」
見間違いではない。澪にも見えていたようだ。
「どうした?」
ガルドが尋ねる。
「……手を近付けたら、反応しました」
「触ったのか?」
「いえ、触れていません」
正確には、接触する直前だった。
透は自分の指先を確認するが異常はない。
それでも、もう一度試す気にはならなかった。
何なのか分からないものへ、無防備に手を伸ばすべきではない。
昨夜の失敗から学ぶべきなのは澪だけではないのだ。
「マルタさんに話します」
透はそう決めた。
シルが店を出た後も、透は入口の方を見ていた。
黒い靄は彼と一緒に消えている。
店に残った形跡はない。
「……あれ、本当に何だったんだろう」
澪が呟く。
「分からない」
「霊体とは違うんだよね?」
「多分な。でも、俺たちがそう感じただけだ」
少なくとも、この世界で霊体がどのように分類されているのか、透は昨日聞いたばかりだ。
知らない種類が存在していても不思議ではない。
「トオル」
ガルドが真剣な顔でこちらを見る。
「さっきの話、教会の人間には伝えた方がよさそうだな」
「はい。そのつもりです」
「あの祠なら俺も知ってる」
「知ってるんですか?」
「ああ。昔からある小さなやつだ。俺が子供の頃にはもう古かった」
「何を祀ってるんです?」
「さあな。今は誰も世話してないんじゃないか」
ガルドは少し考えてから続けた。
「共同墓地へ行く人間が通るくらいで、普段は人通りも少ない場所だ」
「墓地は今も使われているんですか?」
「新しく埋葬することはほとんどない。町の外に新しい墓地ができてからは、昔の墓を参る人間が行くくらいだ」
透は情報を頭の中で整理する。
古い区画。
使われなくなった祠。
その先には、現在ほとんど新しい埋葬が行われていない共同墓地。
そして、その道を使い始めてから体調を崩した若者。
関連があるかどうかは、まだ分からないが調べる価値はありそうだった。
「ねえ、お父さん」
リナが不安そうに尋ねる。
「あそこって、何か怖い話なかった?」
「噂程度ならいくらでもある」
「どんな?」
「夜に墓地へ入ると声を聞くとか、知らない人影を見るとか。その手の話だ」
ガルドは肩をすくめた。
「墓地なんて、どこでもそんなもんだろ」
「それは……そうかも」
リナは納得しきれない様子だった。
透も、噂だけで判断するつもりはない。
日本にだって、墓地や廃屋には似たような話がいくらでもある。実際に霊が存在することを知っている透から見ても、その全てが本物だったわけではない。
ただ、この世界では事情が少し違う。
霊体の存在が社会的に認知されているのだ。死者の魂が極めて稀に現世へ留まることも知られている。
墓地だから必ず霊体がいるわけではないし、死者が自由に現世へ残れるわけでもない。それでも、日本より霊的な現象が表面化しやすい環境だとすれば、軽視するのも危険だった。
「行ってみる?」
澪が尋ねる。
「今からは行かない」
「即答だね」
「俺たちだけで行って何ができる」
「……見る事くらい?」
「見た後どうするんだ」
「逃げる?」
「なら最初から行くなよ」
澪が口を尖らせるが、それ以上は反論しなかった。
その様子に、透は少し安堵した。
昨日までなら「ちょっとだけ」と言い出していたかもしれない。
「まずマルタさんへ相談する」
「はーい」
「あと、お前一人で先に見に行くのも禁止」
澪の目が僅かに泳いだ。
「……そんなこと考えてないよ?」
「今の間で分かった」
「透、最近私の扱い雑じゃない?」
「信頼の結果だ」
「絶対違うでしょ!」
いつもの声が戻り、店内の空気が少し緩んだ。
ガルドが笑いながら、透の肩を軽く叩く。
「まあ、今日は戻れ。仕事の話はまた今度でいい」
「分かりました」
「教会で何か分かったら、こっちにも教えてくれ。あいつはちょくちょく店に来るからな」
「はい」
透は荷物を持ち上げた。
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