第5話 異世界生活はじめました④
最後に立ち寄ったのは、文具店だった。
店内には紙束やインク、小さな木板が並んでいる。棚の一角には薄い冊子も置かれており、どうやら読み書きの練習に使うものらしい。
透はマルタから渡された控えを店主へ見せた。
「教会で文字を習い始めたところなんです。練習用の道具を揃えたいんですが」
「それなら、こちらがいいでしょう」
店主は小さな石板と白い筆記具を取り出した。
表面へ書いた文字は、布で拭けば消せるらしい。紙へ何度も書くより安く済むため、子供の学習にも使われているという。
「……なるほど」
透は実際に持ってみた。
石板は薄く、片手でも支えられる重さだ。これなら教会の客室でも練習できる。
「透、これなら何回でも書けるね!」
「ああ。助かるな」
「私が間違えても消せるし!」
「お前は書けないだろ」
「透が書くんだよ!」
最初からそのつもりらしい。
透は石板と筆記具、それから少量の紙とインクを選んだ。
合計は銅貨九枚。
貨幣を渡し、釣りがないことを確認する。
これで、残りは銀貨二枚と銅貨二枚になった。
必要なものは一通り揃えられた。
靴は見送ったが、当面の生活に困るほどではない。残った金も、すぐに返せるよう使わずに持ち帰るつもりだった。
「ありがとうございました」
店を出ると、透は荷物を鞄へ収めた。
衣類が増えたせいで、肩に掛かる重さは出発時より明らかに増している。
……帰りは少しゆっくり歩くか。
背中の痛みも、まだ完全には引いていない。
「透、大丈夫?」
澪が顔を覗き込んできた。
「平気。荷物が増えただけだ」
「私が持てたらよかったんだけどね」
「気にするな。買ったのは俺のものだし」
「でもさ、こういう時ってちょっと不便だよね」
澪は自分の手を見つめた。
透もその指先へ目を向ける。
物に触れられないという性質は、普段の生活ではあまり意識しないこともある。だが、こうして荷物を持つような場面では、はっきりと違いが出る。
「まあ、今後できることが増えるかもしれないしな」
「おっ!」
澪の顔が明るくなった。
「やっぱり何か能力があると思う?」
「そこまでは言ってない」
「えー!」
「マルタさんも、勝手な実験はするなって言ってただろ」
「……分かってますー」
不満そうな返事だった。
だが、透には少し気になることもあった。
マルタは、特殊な力を持つ霊体も存在すると話していた。霊的なものを察知したり、別の霊体へ干渉したりする個体がいるという。
澪が同じ力を持っているとは限らない。
それでも、彼女がただの幽霊ではない可能性は十分にある。
透はそんなことを考えながら、大通りへ戻った。
その時だった。
「あれ?」
澪が足を止めた。
「どうした?」
「……あそこ」
彼女が指差したのは、通りの反対側だった。
旅装らしい服を着た男が、露店の前で店主と話している。その肩の少し上に、薄い灰色の影が浮かんでいた。
透は目を細める。
影は人の形に近い。
ただし、澪ほど輪郭がはっきりしていない。顔の造形は曖昧で、身体の下半分は霧のように薄れている。
男が何かを呟くと、その霊体はゆっくりと露店の奥へ移動した。
しばらくして戻ってくると、棚の方を指差す。
男はそれを確認し、店主へ何かを尋ね直した。
「……使役霊か」
透が小さく呟くと、澪が頷いた。
「多分、そうだよね」
マルタから説明を受けたばかりだったが、実際に見るのは初めてだ。
霊体は男のすぐ近くに留まり、指示された時だけ動いているように見える。会話している様子はなく、顔にも明確な表情はなかった。
近くを歩く人々は、その存在に目を向けることはあっても、特に騒いでいない。
なるほど。
これなら、澪を見た街の人々が驚かなかった理由も理解できる。
霊体そのものが未知の存在ではないのだ。
「……ねえ、透」
「何だ?」
「あの子、何か……私と全然違うね」
「そうだな」
澪は少しの間、その霊体を見つめていた。
やがて男が歩き出すと、影も後ろへついていく。
透はその姿を目で追った。
契約によって魔力を与えられ、存在を維持している霊体。
今見た個体も、そうなのだろう。
ただ、生前どんな人物だったのか、本人の記憶がどれほど残っているのかまでは分からない。
マルタの話では、霊体として残ること自体が極めて稀だという。契約ができるのも、すでに存在する霊体に限られる。
では、あの影はどうやって男と出会ったのだろう。
透は少し興味を覚えたが、見知らぬ相手を呼び止めてまで尋ねる気にはならなかった。
まずは、自分たちのことを整理するのが先だ。
「……私も、ああいうふうになるのかな」
澪がぽつりと呟いた。
透は顔を向けた。
少女は先ほどの霊体が消えた方向を見ている。
「どういう意味だ?」
「だって、普通の霊体って、だんだん薄くなるんでしょ? あの子も、何かぼんやりしてたし」
澪は自分の手を持ち上げた。
今は、制服の袖も、指先も、はっきりと見えている。
「私も、いつかあんな感じになるのかなって」
透はすぐには答えなかった。
マルタは、澪の霊体が非常に安定していると言っていた。今すぐ消失を心配する状態ではない、とも。
だが、それが永遠に続く保証はない。
先ほどまで笑っていた彼女が、急にそんなことを口にした理由も分からなくはなかった。
「……今は違うだろ」
「え?」
「マルタさんも、状態は安定してるって言ってた。今のところ、薄くなってる様子はない」
「……うん」
「それに、俺たちの繋がりもまだ分からないことだらけだ。先に調べよう」
澪は少し黙った後、顔を上げた。
「そうだね」
「ああ」
「……透って、たまにすごく頼りになるよね」
「たまに?」
「普段は結構意地悪だから」
「なるほど」
透は静かに頷いた。
「じゃあ、今後は頼りにならない方向で」
「待って! 今のなし!」
澪が慌てて前へ回り込む。
「ちゃんと頼りになる! いつも!」
「訂正が早いな」
「もう!」
少女は頬を膨らませた。
その表情を見て、透は僅かに笑った。
分からない未来を心配することはできる。
だが、今ここで答えが出ない以上、まずはできることを探すしかない。
それは帰る方法についても、澪の存在についても同じだった。
買い物を終えた二人は、教会へ戻る前にガルドの店へ寄ることにした。
昨日、落ち着いたら顔を出せと言われている。
それに、仕事の話も気になっていた。
商業区の通りを歩きながら、透は昨日の道順を思い返した。
教会から西へ進み、広場を抜けた先。
ガルドは自分の店が中央区からそう遠くない場所にあると言っていたはずだ。
「……この辺りだったか」
「何が?」
「ガルドさんの店。昨日、荷車で通っただろ」
「ああ、そっか。リナちゃんに会えるね!」
澪が嬉しそうに前へ浮かんだ。
だが、すぐに戻ってくる。
「……どこ?」
「今探してる」
「透、地図は?」
「読めない」
「私も!」
「威張るな」
透は通りの左右を見渡した。
店先には様々な看板が吊るされている。文字は分からないが、描かれた図柄から扱っている商品を推測できるものもあった。
ガルドの店は雑貨を扱っているという話だった。
ならば、何か目印があるはずだ。
そう考えながら歩いていると、通りの奥から聞き覚えのある声がした。
「……だから、その箱は奥へ運んでくれって言っただろ!」
透は足を止めた。
澪も同じ方向を見る。
「……あれ?」
路地の先に、小さな荷車が停まっていた。
その横では、日に焼けた顔の男が木箱を抱え、若い従業員らしい人物へ何か指示している。
ガルドだった。
「ガルドさん!」
澪が声を上げる。
男がこちらへ顔を向けた。
「おお、トオルたちか!」
透は軽く頭を下げた。
「昨日はありがとうございました」
「何だ、もう出歩いてるのか。教会の方はどうなった?」
「仮の身分証を出してもらえました。今は買い物の帰りです」
「そうか。それならよかった」
ガルドは抱えていた箱を荷台へ置き、手を払った。
「ちょうどいい。店に入れ。リナも奥にいる」
「やった!」
澪が嬉しそうに飛び出した。
そのまま店の入口へ向かったところで、透が声を掛ける。
「澪」
「何?」
「勝手に壁を抜けて入るなよ」
「……あっ」
少女がぴたりと止まった。
ガルドは二人を見比べ、豪快に笑った。
「構わんよ。どうせ壁に穴が開くわけじゃない」
「そういう問題じゃないだろ」
透が言うと、澪は小さく頷いた。
「はい……」
昨日まで、自分の姿を見られないことが当たり前だった少女だ。
だが、ここでは違う。
人に見えるということは、他人の生活の中へ入っていくということでもある。壁を抜けられるからといって、どこへでも勝手に入っていいわけではない。
その辺りは、これから少しずつ覚えていく必要があるだろう。
「まあ、立ち話も何だ。入ってくれ」
ガルドが店の扉を開ける。
透は礼を言い、荷物を抱え直した。
店内からは、木箱や商品の触れ合う音が聞こえている。
そして、その奥から。
「あっ! トオルさん! ミオさん!」
明るい声が飛んできた。
リナだった。
澪が嬉しそうに手を振る。
「リナちゃん!」
透も小さく笑い、店の中へ足を踏み入れた。
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