第5話 異世界生活はじめました➁
「では、文字から始めようかの」
マルタは冊子を開き、最初の頁を二人へ向けた。
そこには、いくつもの記号が整然と並んでいる。
透には、どれも初めて見る形だった。
「……これは、なかなか」
「読めそう?」
澪が覗き込む。
「全然」
「私も!」
元気よく言われても困る。
マルタは最初の記号を指差し、音を教えてくれた。
透は耳から聞こえた音を繰り返し、次に紙へ同じ形を書いてみる。見慣れない曲線と短い線の組み合わせで、最初はどうしても歪んだ。
「うーん……」
澪が横から顔を寄せてくる。
「透、ちょっと違わない?」
「分かってる」
「ここの線、もうちょっと長いんじゃない?」
「分かってるって」
「あと、ここ曲がってる」
「お前が書いてみろ」
「書けたら苦労しないよ!」
澪は悪びれずに笑った。
確かに彼女は筆記具を持てない。覚えたものを紙へ残す役目は、今のところ透が引き受けるしかなかった。
……二人分の宿題を背負った気分だ。
透は短く息を吐き、もう一度記号を書き直した。
マルタは二人のやり取りを気にする様子もなく、次の文字へ進む。
音と意味は理解できるのに、形を見ただけでは何も分からない。
改めて考えると、不思議な状態だった。
兵士やガルドの話す言葉は、耳へ届いた瞬間から自然に意味を理解できた。自分も普通に話している。しかし、それを紙へ記した途端、見知らぬ記号の集まりになってしまう。
「マルタさん。どうして話す方だけ通じるんでしょうか」
「お主らが転移した際、言葉を理解するための働きが加わった可能性はあるの」
「術式によって、ですか?」
「そのような例は知られておる。ただし、お主らの場合が同じとは限らん」
マルタは冊子を閉じず、別の頁を示した。
「文字は見たものを覚え、意味と結びつける必要がある。今のところ、そちらには働いておらんようじゃな」
透は頷いた。
都合よく読み書きまでできるわけではないらしい。
ならば、覚えるしかない。
「じゃあ、私が読めるようになったら、透に教えてあげるね」
「同時に勉強してるだろ」
「私の方が先に覚えるかもしれないじゃん」
「その時は頼む」
「任せなさい!」
澪は妙に張り切り、冊子へ顔を近づけた。
その後もしばらく、二人は基本的な文字を繰り返した。
透が紙へ書き、澪が形を確認し、マルタが読み方を教える。
時折、澪が自信満々に間違えるせいで、透まで覚え直す羽目になった。
助っ人なのか、妨害役なのか。
判断はもう少し先に延ばした方がよさそうだった。
◇
文字の次は数字だった。
こちらも日本で使っていたものとは形が違うが、数の考え方そのものは変わらないらしい。
マルタは机へ小さな木箱を寄せ、蓋を開けた。
中には色や大きさの異なる貨幣が並んでいる。
「町で買い物をするなら、これを覚えねばならん」
「お金ですね!」
澪が身を乗り出す。
「そうじゃ。まずは銅貨、銀貨、大銀貨。この三つを覚えれば、普段の買い物には困らんじゃろう」
マルタは順番に机へ並べた。
銅貨は小さく、表面に簡素な模様が刻まれている。銀貨はそれより一回り大きく、縁にも細かな加工があった。大銀貨はさらに厚みがあり、光沢も強い。
「銅貨十枚で銀貨一枚。銀貨十枚で大銀貨一枚じゃ」
透は確認するように頷いた。
「なるほど。十進法ですね」
「じゅっしんほう?」
澪が首を傾げる。
「十ずつ繰り上がるってことだ」
「ああ、そういうことね!」
理解したらしい。
マルタは貨幣を使いながら、簡単な計算を出してきた。
「では、銀貨一枚の品に銅貨六枚を加えたら?」
「銀貨一枚と銅貨六枚です」
「その品を銀貨二枚で買ったら、釣りはいくらじゃ?」
「銅貨四枚ですね」
透が答えると、澪も横で頷いた。
「それくらいなら分かるよ!」
「なら、次はお主が答えるがよい」
「えっ」
マルタが銀貨と銅貨を並べ替える。
「銀貨三枚と銅貨二枚。ここから銀貨一枚と銅貨七枚を使ったら、残りは?」
澪が固まった。
「……ちょっと待って」
「待っておるぞ」
「えっと、銀貨を一枚崩して……」
少女は真剣な顔で貨幣を見つめている。
透は横から答えを言わず、様子を見守った。
「銀貨一枚と、銅貨五枚!」
「正解じゃ」
「やった!」
澪が嬉しそうに両手を上げた。
「透、見た!?」
「聞いてたよ」
「私だって計算できるんだからね!」
「疑ってないだろ」
そう答えながら、透は机の上の貨幣へ目を落とした。
見知らぬ世界でも、買い物に必要な考え方は大きく変わらない。
物の値段を確かめ、必要な金額を出し、釣りを受け取る。今までなら意識せずにしていたことだ。
ただ、こちらでは数字も文字も覚えたばかりで、相場も分からない。うっかり支払いを間違えないよう、しばらくは慎重に行動する必要があるだろう。
◇
講習が一段落すると、マルタは小さな布袋を透の前へ置いた。
中で硬貨が触れ合い、軽い音がする。
「これを貸そう」
「……お金ですか?」
「ああ。銀貨と銅貨を少し入れておる。まずは必要なものを買ってきなさい」
透は袋へ目を向けた。
助かる申し出だった。
だが、昨日から食事も宿も世話になっている。この上さらに金まで借りるとなると、気軽に受け取るわけにもいかない。
「本当に、そこまでしていただいていいんですか?」
「今の服では目立つじゃろう。着替えと最低限の日用品、それから勉強に使う道具くらいは必要じゃ」
「……それは、そうですが」
「貸すと言っておる。返せるようになってから返せばよい」
透はしばらく袋を見つめた。
断ったところで、自分の財布にある日本円は使えない。今すぐ働こうにも、身分証は仮のもので、文字さえ満足に読めない状態だ。
ここで意地を張る理由はなかった。
「分かりました。お借りします」
透は袋を受け取り、頭を下げた。
「必ず返します」
「まずは自分の生活を整えることじゃな」
マルタは頷くと、紙へ何かを書き込んだ。
「借りた金額と、買うものの控えじゃ。必要なら店の者に見せなさい」
「ありがとうございます」
透は紙を受け取り、鞄へしまう。
これも後で読めるようにならなければ。
書いてある内容を他人に説明してもらうばかりでは、いつまで経っても自立できない。
「買うものって、何だっけ?」
澪が尋ねる。
「まず服だな。あと洗面道具と、文字の練習に使うもの」
「靴も!」
「靴?」
「森歩いたから汚れてるじゃん」
透は自分の足元を見た。
確かに、大学へ履いていった靴には土がこびりついている。まだ使えそうではあるが、長く歩くには心許ない。
「……予算次第だな」
「じゃあ、いいのがあったら教える!」
「頼むから値札を先に見てくれ」
「まだ全部の数字覚えてない!」
「さっき自信満々だっただろ」
澪は笑って誤魔化した。
マルタはそんな二人を見ながら、机の横に置いてあった簡単な地図を広げる。
「教会を出て大通りを西へ進めば、商業区へ着く。衣類を扱う店も文具店も、その辺りに集まっておる」
透は指で示された道順を確認した。
教会のある中央区から大通りへ出て、西へ。
昨日、ガルドの荷車で通った道を逆に進む形だ。完全に覚えているわけではないが、見覚えのある建物を目印にすれば、迷う可能性は低そうだった。
「途中で何かあれば、仮身分証を見せなさい。帰り道が分からなくなったら、教会の場所を聞けばよい」
「分かりました」
「あと、急いで使い切る必要はないぞ。余った金は持ち帰りなさい」
「はい」
透は布袋を握り直した。
借りた金は、必要なものにだけ使う。
まず服と日用品。
文具は買える範囲で揃え、教材は教会から借りられるものを使えばいい。
帰還の方法を調べるにも、この町での生活を整えるにも、使える金は大切だった。
「透、買い物だね!」
澪が笑顔で言う。
「そうだな」
「何か楽しくなってきた!」
「予算管理は俺がやるからな」
「分かってるって!」
返事だけは頼もしかった。
◇
教会を出ると、午前の日差しが石畳を明るく照らしていた。
昨日はガルドの荷車に乗って町へ入ったため、こうして自分の足で歩くのは初めてだ。
教会前の広場には人々が行き交い、水盤の近くでは子供たちが何かを話しながら笑っている。
透は一度振り返り、教会の外観を確かめた。
白い壁。
青みがかった屋根。
その奥に伸びる鐘楼。
帰り道で迷った時の目印には十分だろう。
「よし、行くか」
「はーい!」
澪が隣へ並んだ。
歩き始めてすぐ、彼女は道沿いの店へ興味を示した。花を並べた露店、色鮮やかな布を吊るした店、焼き菓子を売っているらしい屋台。どれも昨日の荷車から見た時より近く、細かな様子までよく分かる。
「あっ、透。あれ見て!」
「何だ?」
「お菓子! 丸いやつ!」
澪が指差した先では、小さな菓子が籠に盛られていた。
表面には砂糖に似た白い粉がまぶされている。
透は一瞬だけ足を止めたが、すぐに歩き出した。
「今日は買わないぞ」
「まだ何も言ってない!」
「顔に書いてある」
「マルタさんの真似!?」
澪が不満そうに声を上げる。
「ちょっと見るだけじゃん!」
「見るのはいい。買うのは生活に必要なものが揃ってからだ」
「むう……」
透はその横顔を見て、少しだけ考えた。
食べられない彼女にとって、菓子を買っても実際に味わえるわけではない。それでも、昨日の苺のパフェのように、眺めること自体を楽しめるのなら、いずれ寄ってもいいかもしれなかった。
ただし、借りた金で嗜好品を買うのは今ではない。
「余裕ができたら、何か見に来よう」
「……本当?」
「ああ」
「じゃあ、約束ね!」
澪はすぐに笑顔を取り戻した。
切り替えが早い。
透は軽く息を吐き、大通りへ向かった。
この町で必要なものを買い、自分の生活を作っていく。
昨日までは帰る方法を探すだけで精一杯だったが、今日はそのための足場を整える日だ。
もちろん、いつかは元の世界へ戻る。
だからといって、今いる場所での暮らしを疎かにしていい理由にはならない。
「ねえ、透!」
前を浮いていた澪が振り返る。
「服のお店、あっちじゃない?」
彼女が示した通りの先には、布地や上着を店先へ並べた建物があった。
透はマルタから渡された布袋の感触を確かめ、頷いた。
「まずはそこからだな」
「よーし! 似合うの探してあげる!」
「値段も見ろよ」
「分かってるってば!」
二人は人通りの増えてきた商業区へ足を踏み入れた。
皆様にご報告があります! ななななんと! ブックマークを、付けていただきました!
記念すべき第1号の読者様ありがとうございます!
この場をお借りして感謝を伝えたいと思います。
それとなしにユーザーページ弄っていたらポイント? が、増えていてよく見たらブックマークに1って記載されていた時の衝撃よ!
どのタイミングで付いたのか分からず発見が遅れたこと、この場をお借りして謝罪いたします。
もちろん読んでもらえるだけでも嬉しいので、これからもコツコツ積み上げていきます!
♢
読んでいただきありがとうございます!
今のところ1日2〜3投稿を考えています。
もしよろしければ、また来ていただけると大変喜びます。
それでは、次の話で!




