第5話 異世界生活はじめました①
目を覚ました時、透は暫く天井を見つめていた。
白い漆喰の天井。木製の梁。窓から差し込む朝日。
少なくとも、昨夜の遺跡よりはずっとまともな景色だった。
「……ああ、そうだったな」
小さく呟き、身体を起こす。
ここはセルディア王国の城塞都市レイヴェル。中央区にある教会の客室だ。
昨日は森からどうにか町へ辿り着き、ガルド親子の助けを借りて入町を許可された。その後、マルタという神官に事情を説明し、当面の宿まで用意してもらっている。
起きたら自分の部屋に戻っている、などという都合のいい展開はなかったらしい。
もっとも、久しぶりに柔らかいベッドで眠れたことには感謝したかった。
透は背中をゆっくり伸ばす。
鈍い痛みは残っているものの、昨日より楽になっていた。夕方に神官へ診てもらったところ、強く打った痕はあるが、今のところ大きな異常は見られないとのことだった。しばらく無理をしないよう言われている。
無理をしたい状況ではないが、休んでばかりもいられない。
まずは身分証と生活費。
それから、文字を覚えること。
帰還の手掛かりはマルタが調べてくれるという話だったが、その間にも自分たちの生活は続いていく。
「おはよう、透!」
窓際から明るい声が飛んできた。
顔を向けると、澪が朝日を背に浮かんでいた。制服姿も肩までの髪も、昨日と何一つ変わっていない。
「……おはよう」
「今日はちゃんと寝られた?」
「ああ。石の床とは大違いだな」
「よかった!」
澪は嬉しそうに笑い、寝台の横へ移動してきた。
「背中は?」
「昨日よりは楽だ」
「無理しないでよ?」
「分かってる」
「本当に?」
「朝から何回確認する気だ」
「透、平気って言って誤魔化しそうだから」
否定しようとして、透は口を閉じた。
実際、昨日は大したことがないと答え続け、マルタに動きを見られていた。あれで誤魔化せているつもりだったのだから、あまり強く言い返せない。
「……痛くなったら言う」
「よろしい」
澪が満足そうに頷く。
なぜか立場が逆転している。
「ところで、お前は一晩どうしてたんだ?」
「窓から外見てた。途中で中庭も覗いたよ。ちゃんとこの辺だけ!」
「誰かを怖がらせたりは?」
「してませんー!」
澪は両手を腰へ当てた。
「マルタさんに禁止されたし。私だって約束は守るもん」
「昨日までの実績があるからな」
「まだ言う!?」
透は軽く笑い、寝台から降りた。
足元には昨夜脱いだ靴が揃えてある。鞄も机の上に置いたままだ。
澪が物に触れられない以上、部屋の中で何かを勝手に動かされる心配はない。そこは一人暮らしの頃と変わらなかった。
ただし、朝起きた瞬間から話し相手がいる生活には、まだ少し慣れない。
「今日は何するの?」
「まずマルタさんに会う。身分証の話があるだろ」
「そっか。あと文字の勉強!」
「ああ」
「私もやるからね」
「分かってる」
澪は楽しそうに透の周りを回った。
朝から元気なのは結構だが、こちらはまだ顔も洗っていない。
「準備するから、少し離れててくれ」
「あ、はいはい。着替えね」
澪は素直に扉の方へ移動した。
出ていく直前、ひょいと顔だけ戻す。
「終わったら呼んでね!」
「分かった」
扉を開ける必要もなく、少女は壁の向こうへ消えた。
透はその姿を見送り、鞄から着替えを取り出す。
今の服も、そろそろ限界だ。
昨夜から着ているものは日本の大学へ通うための普段着で、森を歩いたせいで裾も汚れている。この町で暮らすなら、現地の服を用意した方が何かと都合がよさそうだった。
財布には日本円が入っている。
しかし、ここではただの紙と金属だ。
……本当に、一から生活を始めることになるんだな。
透は小さく息を吐き、着替えを始めた。
◇
朝食は教会の食堂で取ることになった。
案内された部屋には長い机が並び、神官服の人々が数人、食事をしていた。透が入ると軽く会釈を返してくれる。澪の姿にも目を向けたが、昨夜の説明が伝わっているのか、特に驚く様子はなかった。
透は空いている席へ腰を下ろした。
盆に載っているのはパンと野菜の煮込み、それから薄く焼いた卵のような料理だった。
「おお、今日もおいしそう!」
澪が隣から覗き込む。
「昨日と似たようなものだぞ」
「卵があるじゃん!」
「あるな」
「どんな味?」
「まだ食べてない」
「じゃあ、どうぞ!」
透はフォークを手に取り、卵を一口食べた。
見た目は薄焼き卵に近いが、中には刻んだ香草が混ざっている。少し塩気が強く、パンと一緒に食べるとちょうどよさそうだった。
「卵だな。香草が入ってる」
「ふむふむ」
「少ししょっぱい」
「昨日のスープもそう言ってなかった?」
「この辺りの味付けなのかもしれないな」
透はパンをちぎった。
昨日のものより柔らかく、表面には軽く焼き色がついている。温かい煮込みに浸して口へ運ぶと、腹の奥から落ち着いていくようだった。
昨日は食事を味わう余裕もなかった。
今日はこうして、味の違いを確かめられる。
それだけでも状況は少し良くなったのだろう。
「透、今日もおいしい?」
「ああ」
「よかったね」
澪は向かい側へ浮かび、食卓を眺めていた。
自分は食べられないのに、なぜかこちらの食事を楽しみにしている。最初は妙なものだと思ったが、今では料理の説明を求められるのも日常になりつつあった。
食堂の奥から、若い神官が水差しを持ってやってくる。
「お水のお代わりはいかがですか?」
「お願いします」
透が杯を差し出すと、神官は水を注いだ。
澪も元気よく声を掛ける。
「おはようございます!」
「おはようございます、ミオさん」
返事をもらうと、澪の顔が明るくなった。
透は水を飲みながら、そのやり取りを見守った。
この世界へ来てから、澪は挨拶一つでも嬉しそうにしている。
その気持ちを完全に理解できるとは思わない。だが、日本では透以外にほとんど声が届かなかったのだから、こうした何気ない会話も新鮮なのだろう。
「透、聞いた?」
「聞こえてる」
「名前、覚えてくれてた!」
「昨日あれだけ喋ってたからな」
「いいじゃん。嬉しいんだから!」
澪は笑って、神官へもう一度頭を下げた。
透も礼を言い、朝食へ戻った。
◇
食事を終えた二人は、昨日使った応接室へ通された。
机の上には薄い冊子と紙、筆記具が用意されている。隣には小さな木箱も置かれていた。
マルタは書類を一枚確認してから、二人へ顔を向けた。
「よく眠れたかの?」
「はい。おかげさまで」
「背中は?」
「昨日より楽になりました」
「無理はするでないぞ」
「分かりました」
澪が横から頷く。
「私もちゃんと見張ります!」
「お主はまず、勝手な実験を止めるところからじゃな」
「うっ……」
マルタの一言に、澪が黙った。
昨日の件は、どうやらしばらく言われ続けるらしい。
透は口元を緩めながら、机へ目を向けた。
「今日は文字の勉強からですか?」
「その前に、渡すものがある」
マルタは書類の一枚を取り、透へ差し出した。
「仮の身分証じゃ。町の担当者へ確認を回し、教会で身元を調べている間の滞在を認めてもらった」
「……ありがとうございます」
透は両手で受け取った。
紙には教会の印が押され、いくつかの項目が並んでいる。ただし、何が記載されているのかはまだ読めない。
「こちらが名前、ここが滞在先じゃ。正式な身分証とは違うから、期限も付いておる」
マルタは紙の一部を指で示した。
「町の中で確認を求められたら、これを見せなさい。なくしてはならんぞ」
「はい。大切にします」
「あと、ミオのことも同行する独立霊体として記録しておいた。お主の所有物という扱いにはしておらん」
「ありがとうございます!」
澪がすぐに頭を下げた。
マルタは頷く。
「自分の意思で行動する者なのじゃから、そこは分けておくべきじゃろう。ただし、町で何か問題が起きれば、お主らの事情を聞かれることはある」
「それは当然ですね」
透は仮身分証を見つめた。
昨日まで、この世界には自分たちの存在を示すものが何もなかった。
今は仮のものとはいえ、名前と滞在先が記録された。
たった一枚の紙だが、これから生活する上では大きな意味を持つはずだった。
「……ねえ、透」
「何だ?」
「私たち、ちょっと住人っぽくなったね」
「まだ仮だけどな」
「それでも!」
澪が笑う。
透は紙を傷めないよう鞄へしまった。
住人になったつもりはない。
帰るつもりでいるから、ここはあくまで一時的な滞在先だ。
だから、今日を生きるために必要な手続きを進めることが、帰還を諦めるのと同じだとは考えなかった。
この前本当に久々にそれは盛大に転びました。両手に荷物を持っていたので、手をつくことが出来ず膝をガッツリ擦りむいたんですが、あれから1週間……まだ治りません。どうやらパッシブスキル自然治癒力が、機能していないようです(泣)
読んでいただきありがとうございます!
今のところ1日2〜3投稿を考えています。
もしよろしければ、また来ていただけると大変喜びます。
それでは、次の話で!




