第4話 城塞都市レイヴェル⑥
「……じゃあ、幽霊って、あんまりできることないのかな」
澪が自分の手を見つめながら言った。
「物には触れないし、ご飯も食べられないし。何か、幽霊ならではの能力とかあったりしません?」
透は嫌な予感がした。
この質問の先には、ろくな展開が待っていない気がする。
「霊的なものを察知したり、他の霊体へ干渉したりする個体はおる。特殊な力を持つ霊体の話も伝わっておるが、真偽の分からぬものも多いの」
「おお……!」
「澪。実験はするなよ」
「まだ何も言ってないでしょ!」
「顔に書いてある」
「透までそれ言う!?」
マルタが小さく笑った。
「普通の霊体は、物体や人間へ直接触れることはできぬ。特殊な力があったとしても、お主が同じことをできるとは限らんぞ」
「……はーい」
澪は少し残念そうに返事をした。
透は説明を頭の中で整理する。
霊体の存在は、この世界では知られている。
だが、死ねば誰でもなれるわけではなく、生まれた後も長く留まり続けることは難しい。契約は維持を助けるものにすぎず、人格まで保てるとは限らない。
その中で、澪は契約もしていないのに、姿と意思が安定している。
さらに、二人の間には未解明の繋がりまであった。
普通ではないことだけは、ますますはっきりしてきた。
◇
「もう一つ、気になることがある」
マルタは澪の姿を改めて見た。
「お主の霊体は、かなり安定しておる」
「……また言われた」
澪が苦笑する。
「そんなに珍しいんですか?」
「今話した通りじゃ。契約のない霊体で、ここまで輪郭と意思を明瞭に保っておる例は多くない」
マルタは言葉を選ぶように続けた。
「お主は会話も判断も自然で、姿もほとんど揺らいでおらん。今すぐ消失を心配するような状態には見えぬな」
「それって、いいこと?」
「少なくとも、悪い兆候ではないじゃろう」
「……そっか」
澪は自分の手を眺めた。
透も半透明の指先へ目を向ける。
先ほど聞いた、長い年月を経て姿が薄れつつある霊体の話が頭に残っていた。
「その安定した状態と、俺との繋がりは関係しているんでしょうか」
「可能性はある。じゃが、今の情報だけでは断定できん」
マルタはそこで一度言葉を切った。
「一つ聞くが、ミオ。こちらへ来てから、身体の感覚に変化はあったかの?」
「変化……?」
「たとえば、以前より姿を保ちやすいとか、周囲がはっきり見えるとか」
澪は考え込んだ。
「うーん……見え方は、あんまり変わらない気がします。でも、人に見てもらえるようになったのは大きいかも」
「ほう」
「日本では、透以外の人に話しかけてもほとんど返事がなかったんです。でも、ここだとリナちゃんも、兵士さんも、みんな私のこと見えるし」
「それは、この土地の影響かもしれんの」
透は顔を上げた。
「土地の?」
「この世界には魔力がある。大気にも、大地にも、人の身体にもな。霊体もその影響を受ける。輪郭がある程度保たれておれば、特別な霊感を持たぬ者にも姿や声が認識されることがあるのじゃ」
魔力。
門では転移術式という言葉も聞いた。
どうやら、この世界では実際にそうした力が扱われているらしい。透にはまだ実感がなかったが、目の前で円盤が光った以上、単なる伝承として片付けるわけにもいかなかった。
「日本には、そういう力がないんですか?」
澪が尋ねる。
「お主らの故郷について、わしは知らぬ。じゃが、霊体を認識できる環境には違いがある。こちらでは、普通の者にも姿が見えやすい場合があるのじゃろう」
「……なるほど」
透は頷いた。
土地そのものが違うのなら、澪が人に認識されるようになったことにも説明はつく。
ただし、マルタは可能性として話しているにすぎない。転移によって彼女の状態が変化した可能性も、まだ否定できなかった。
「じゃあ私、ここだと普通に暮らせるのかな」
澪がぽつりと呟いた。
透は隣を見た。
少女は自分の手から顔を上げ、マルタへ視線を向けている。
「暮らす、か」
マルタはゆっくり頷いた。
「食事も睡眠も要らぬとはいえ、会話ができ、意思もある。暮らすという言い方は間違っておらんじゃろう」
澪の口元が緩んだ。
その様子を見て、透も少しだけ肩の力を抜く。
ここへ来てから、彼女は何度も他人と会話できることを喜んでいた。本人にとっては、今までできなかったことが急に当たり前になったのだから、嬉しくもなるのだろう。
ただ、透には一つ気になることが残っていた。
「マルタさん。霊体というのは、必ず亡くなった人間なんですか?」
澪がこちらを向いた。
マルタも僅かに目を細める。
「……どうしてそう聞く?」
「澪には、死んだ時の記憶がありません。自分がなぜ霊体になったのかも分からないままなので」
透は言葉を選んだ。
目の前の少女は、普通の人間と同じように笑い、怒り、時には落ち込む。幽霊なのだから死者なのだろうと考えていたが、本人にその記憶がない以上、確かなことは何も分かっていなかった。
マルタはしばらく黙っていた。
やがて、静かに答える。
「肉体を失った魂が霊体となる例は多い。じゃが、それだけが全てではない」
「……それだけじゃない?」
「魂が肉体から離れ、一時的に霊体のような状態となる事例も伝えられておる。もっとも、珍しい話じゃし、わしも実際に診た経験はない」
澪は目を丸くした。
「今は記憶も手掛かりも足りん。焦って結論を出す必要はないじゃろう」
透は頷いた。
可能性がある。
それだけでも、話を聞いた意味はあった。
澪がどこから来たのか、なぜ記憶を失っているのか。調べることは増えたが、同時に、最初から決めつけなくていい理由もできた。
「……私、まだ分かんないことだらけだね」
澪が小さく笑った。
「そうだな」
「でも、ちょっと安心したかも」
透はそれ以上、何も言わなかった。
彼女が何に安心したのか、勝手に決める必要はない。
ただ、先ほどより表情が柔らかくなっていることだけは分かった。
◇
検査が一段落すると、マルタは円盤を木箱へ戻し、棚の奥へ収めた。
「さて。次は、お主らの今後についてじゃな」
透は姿勢を正した。
帰還の手掛かりを探すことも重要だが、今夜の寝床さえ決まっていない。こちらの問題も、後回しにはできなかった。
「まず、門で発行された仮の入町記録は、教会で確認を引き継ごう。正式な身分証を出せるかどうかは、町の担当者との相談が必要じゃ」
「分かりました」
「出身地不明という点もあるからの。すぐに済むとは思わぬ方がよい」
「はい」
マルタは手元の紙へ何かを書き込み、別の用紙と重ねた。
透には文字が読めない。
会話ができるおかげで今は何とかなっているが、書類を受け取るたびに他人へ説明してもらうのでは、これから先も不便が続くだろう。
「文字も覚える必要がありますね」
「読めぬと言っておったな」
「はい。話は理解できるんですが、書かれた文字は全く分からなくて」
「なら、教本を用意してやろう。最初は名前と数字、それから町で使う言葉くらいからじゃな」
「助かります」
「私もやる!」
澪が手を上げた。
「読めないと不便だもんね」
「お前、筆記具は持てないだろ」
「透が書いてくれればいいじゃん」
「当然のように人を使うな」
「二人で勉強した方が楽しいでしょ!」
透は少し考えた。
確かに、文字を覚える時に相手がいるのは悪くないかもしれない。澪が読めるようになれば、店の看板や案内板を一緒に確認することもできる。
書く役目は自分だけになりそうだが。
「……読む方は任せる」
「任せなさい!」
どうやら頼もしい助手ができたらしい。
マルタは二人のやり取りを見ながら、机の上の書類を揃えた。
「それから、今夜の宿じゃが」
透が顔を上げる。
「教会の客室を一つ貸そう。長くは使えぬが、すぐに住む場所を見つけるのも難しかろう」
「……いいんですか?」
「身元の確認を引き受ける以上、行き先のない者を外へ放り出すわけにもいかん。ただし、客室にも数に限りがある。今後の住まいは別に考えてもらうぞ」
「もちろんです。本当にありがとうございます」
透は深く頭を下げた。
昨日は崩れた遺跡の床で眠った。
今夜は屋根のある部屋と寝台がある。
それだけでも、状況は随分違う。
「私もそこにいていいんですか?」
澪が尋ねる。
「お主は壁を抜けられるのじゃろう。部屋を一つ使うことに変わりはあるまい」
「やった!」
「ただし、夜中に人を驚かせて回るのは禁止じゃ」
澪の動きが止まった。
「……何で分かったんですか?」
「顔に書いておる」
「書いてないよ!?」
透は思わず小さく笑った。
マルタは涼しい顔で書類をまとめ、立ち上がる。
「夕方までに、部屋の準備を頼んでおこう。お主らはそれまで休んでおれ」
「ありがとうございます」
「それから、遺跡の件はわしも古い記録を探してみる。ただし、すぐに答えが出るとは思わぬことじゃ」
「はい」
透は鞄を持ち上げた。
帰る方法は、まだ見つかっていない。
それでも、手掛かりを探してくれる人間ができた。
今のところは、それだけで十分だった。
◇
応接室を出ると、廊下には午後の日差しが差し込んでいた。
マルタは若い神官へ何か指示を出した後、透たちを客室のある区画へ案内してくれた。
教会の奥まった場所には、いくつかの小部屋が並んでいる。巡礼者や遠方からの客人が利用するためのものらしく、どこも簡素な造りだった。
「ここを使いなさい」
案内された部屋には、小さな寝台と机、それに椅子が一脚置かれていた。窓の向こうには中庭の植え込みが見え、壁際には水差しも用意されている。
透は思わず息を吐いた。
寝台がある。
昨日の夜には、これほどありがたいものになるとは思わなかった。
「わあ、ちゃんとした部屋だ!」
澪が先に入っていく。
机の周りを一周し、寝台の上へ座るような姿勢を取った。
「透! ふかふかだよ!」
「お前、触れてないだろ」
「見た目が!」
「見た目だけか」
澪は笑いながら、今度は窓の前へ移動した。
透は鞄を机の上へ置き、改めてマルタへ頭を下げる。
「何から何まで、すみません」
「礼はよい。まずは休みなさい。背中も痛むのじゃろう?」
「……分かるんですか?」
「椅子へ座る時から、少し庇っておったからの」
透は苦笑した。
どうやら、隠していたつもりでも動きに出ていたらしい。
「石床で寝たせいもあると思います」
「念のため、後で診てもらいなさい。大したことがなくとも、無理はせぬ方がよい」
「分かりました」
マルタは頷き、扉へ向かった。
「何かあれば、廊下にいる者へ声を掛けるとよい。夕食も用意させよう」
「ありがとうございます!」
澪が元気よく頭を下げる。
マルタは小さく手を振り、部屋を出ていった。
扉が閉まると、透はようやく肩の力を抜いた。
◇
「……ふう」
透は寝台の端へ腰を下ろした。
柔らかい。
たったそれだけのことに、妙な感動を覚える。
昨夜は石の床へ背を預け、寒さを気にしながら眠った。今は屋根があり、水もあり、夕食まで用意してもらえるという。
ずいぶんと助けられている。
ガルド親子が見つけてくれなければ、まだ森の中を彷徨っていたかもしれない。町へ入れたのも彼らのおかげだし、マルタが話を聞いてくれなければ、遺跡のことを誰に尋ねればいいのかも分からなかった。
透は寝台へ手をつき、ゆっくりと背中を伸ばした。
「……痛っ」
「あ、大丈夫?」
澪がすぐに近づいてくる。
「平気。少し打っただけだ」
「でも、マルタさんも診てもらえって言ってたよ」
「あとで頼むよ」
「絶対だよ?」
「分かってる」
澪は少しだけ目を細め、透の横へ浮かんだ。
いつもなら、ここで何か冗談を言い出しそうなところだった。しかし、彼女はしばらく黙ったまま、窓の外を見ている。
「……ねえ、透」
「何だ?」
「今日、いろいろ分かったね」
「そうだな」
「私のことも、ちょっとだけ」
澪は自分の手へ視線を落とした。
「まだ何で幽霊になったのかは分かんないけど……ここだとみんなに見えるし、話もできるし」
その口元には、僅かな笑みが浮かんでいた。
透は彼女の横顔を眺める。
日本では、澪の存在を認識できる人間はほとんどいなかった。透と出会うまで、誰に話しかけても返事がない状態だったという。
それが今は、リナと笑い合い、兵士へ名前を答え、マルタから普通に話を聞いている。
彼女にとっては、それだけでも大きな変化なのだろう。
「……よかったな」
透が言うと、澪は顔を向けた。
「うん!」
満面の笑みだった。
その表情を見て、透も少しだけ口元を緩める。
帰る方法を探すことに変わりはない。
ただ、ここへ来たことで澪にとって良いこともあったのなら、それまで否定する必要はないだろう。
「でもさ」
澪が少しだけ声を落とす。
「もし、帰る方法が見つかったら……また前みたいに誰にも見えなくなるのかな」
透は返事を止めた。
考えていなかったわけではない。
この世界で彼女が見える理由が土地の魔力にあるのなら、日本へ戻れば元の状態に戻る可能性はある。
せっかく手に入れたものを、帰ることで失うかもしれない。
その事実は、透にとっても簡単に答えられるものではなかった。
「……分からない」
透は正直に答えた。
「帰る方法が分かったとしても、すぐに何もかも決めなくてもいいだろ」
「え?」
「まずは調べる。それから考えればいい」
澪はしばらく透を見つめていた。
やがて、小さく笑う。
「……そうだね」
「ああ」
「透って、そういう時はちゃんと考えてくれるよね」
「普段から考えてる」
「ほんとに?」
「お前の行動については、特にな」
「またそれ!」
澪が笑った。
透も軽く息を吐き、寝台へ身体を預ける。
今すぐ答えを出せないことは多い。
だが、それで構わない。
まずは明日、教会の記録を調べる。
それから、この世界で生活する方法を考える。
そして、いつか帰る道を見つける。
順番に進めばいい。
透はそう考えながら、窓の外へ視線を向けた。
中庭には、午後の柔らかな日差しが落ちている。
見知らぬ世界で過ごす二日目。
少なくとも、今夜は安心して眠れそうだった。
「……ねえ、透」
「今度は何だ」
「今日、怖がらせていい?」
「駄目に決まってるだろ」
「何で!?」
「教会だぞ」
「場所は関係なくない!?」
「マルタさんにも禁止されたばかりだろ」
「……あっ」
澪が口を閉じる。
透は目を閉じたまま、小さく笑った。
どうやら、どこの世界へ来ても、この女幽霊の本質は変わらないらしい。
それならそれで、少し安心できる。
静かな教会の一室に、澪の不満そうな声が響いた。
見知らぬ世界での生活は、まだ始まったばかりだった。
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それでは、次の話で!




