第4話 城塞都市レイヴェル④
「次は、その娘の話じゃな」
マルタの視線が澪へ移る。
澪は背筋を伸ばした。
「はいっ」
「名前は白石澪。生前の記憶が曖昧で、自分がなぜ霊体になったのかも分からぬ。そこまでは合っておるか?」
「はい。自分の名前は分かるんですけど……」
澪は膝へ目を落とした。
実際には椅子に触れていないが、座る姿勢は崩さない。
「学校とか家族とか、そういうのは思い出せなくて。好きだったものも、あんまり」
「ふむ。霊体となる直前のことも?」
「全然です」
「自分が死んだ時の記憶は?」
問い掛けに、澪の表情が止まった。
「……ないです」
透は隣を見た。
マルタは責めるような口調ではない。必要な情報を一つずつ確かめているのだろう。それでも、澪にとっては簡単に答えられる質問ばかりではないはずだ。
「答えにくければ、今すぐ話さなくてもよいぞ」
「いえ、大丈夫です」
澪は顔を上げ、少しだけ笑った。
「私も、自分のことを知りたいので」
マルタは一度頷き、質問を続けた。
「こちらへ来る前は、他人に姿を見られなかったのじゃな?」
「はい。透だけは見えてたんですけど、他の人はほとんど反応しなくて」
「こちらでは?」
「ガルドさんもリナちゃんも、門の兵士さんも、みんな普通に話してくれました」
「なるほどの」
マルタは澪の輪郭をじっと見た。
透も改めて隣の少女へ視線を向ける。
制服姿も髪の長さも、日本にいた時と変わらない。身体が僅かに透けていることや、床から浮いていることも同じだ。
外見だけでは、転移前との違いは分からなかった。
「物には触れられるか?」
「できません」
澪が机へ指を伸ばす。
手は木製の天板を抵抗なく通り抜けた。表面に置かれた紙も、そのままだ。
「人間には?」
「同じです」
今度は自分の膝へ目を落とした後、澪は透の腕へ手を近づけた。
「こうやって……」
指先が服へ重なり、肌をすり抜ける。
触覚はなかった。
以前と変わらない結果に、透は僅かな安堵を覚える。少なくとも、周囲から見えるようになったからといって、突然物へ干渉できるようになったわけではないらしい。
「食事や睡眠は?」
「必要ないです。味も分かりません」
「匂いは?」
「それも、たぶん」
澪は少し考えてから続けた。
「食べ物を見たら、おいしそうだなって思うんです。でも、本当に匂いを嗅いでるわけじゃなくて……」
「記憶からそう感じる、と?」
「多分、そうです」
透は昨日、カフェで苺のパフェを食べた時のことを思い出した。彼女は実際に味わえなくても、その光景を楽しみ、新しく好きなものを見つけたと笑っていた。
マルタは何かを書き留めている。
その文字を読むことはできなかったが、質問の内容から、霊体の状態を一つずつ整理しているのは分かった。
「……あの」
澪が遠慮がちに口を開く。
「私って、やっぱり普通じゃないんですか?」
マルタは筆を止めた。
「普通、とは何じゃ?」
「えっと……幽霊として?」
「お主のようにはっきり姿を保ち、これだけ自然に会話できる霊体は珍しい。じゃが、珍しいことと危険なことは同じではない」
「……そうなんですか?」
「そこを確かめるために、これから診るのじゃよ」
澪は頷いたものの、手元へ視線を落としたままだった。
透は少しだけ考え、口を開いた。
「澪がここへ来たことについては、俺にも責任があります。今後、何か注意することがあるなら教えてください」
「お主に責任が?」
「はい。止められなかったので」
「私が勝手にやったんだってば」
澪がすぐに顔を上げる。
「透はちゃんと駄目って言ってたし。そこは私が悪いの」
「だから帰ったら説教するって話になってるだろ」
「それは、今ここで言わなくてもよくない!?」
マルタが小さく笑った。
「責任の話は後じゃ。まずは何が起きておるのか確かめねばならん」
その通りだった。
透は口を閉じ、マルタの次の言葉を待った。
◇
やがて、廊下から控えめなノックが聞こえた。
「入りなさい」
マルタが応じると、若い神官が盆を持って現れた。湯気の立つ器とパン、それに水差しが載っている。
「食事をお持ちしました」
「ありがとう。そこへ置いておくれ」
若い神官は机の端へ盆を置き、軽く一礼して出ていった。
透の腹が小さく鳴った。
……この場面で鳴るか。
マルタは気づいたのか、食事の方を指した。
「先に食べなさい。昨夜からろくに口にしておらぬのじゃろう?」
「すみません。いただきます」
透は器を受け取った。
温かいスープには豆と細かく切られた野菜が入っている。見慣れない葉も混じっていたが、香りは穏やかで、煮込まれた具材は柔らかかった。
一口飲むと、身体の内側へ熱が広がる。
昨夜から続いていた緊張が、ようやく少し緩んだ気がした。
「どう? どう?」
澪が横から覗き込む。
「温かい」
「それは見れば分かる!」
「豆の味がする。あと、少し塩気が強いな」
「おいしい?」
「ああ」
澪は満足そうに頷いた。
マルタは二人の様子を眺めていたが、やがて不思議そうに眉を上げた。
「いつもそうしておるのか?」
「何がですか?」
「食べ物の味を説明してやることじゃ」
透は手を止めた。
「……まあ、時々」
「時々じゃないでしょ!」
澪がすかさず抗議する。
「毎回してくれるじゃん。昨日だってパフェの説明してくれたし」
「毎回お前が聞くからだろ」
「だって気になるんだもん!」
マルタは澪の顔へ目を向けた。
「食べられぬのに、か?」
「はい。でも、見てるだけでも楽しいんです。透が味を教えてくれると、何となく分かった気になるし」
澪はそう言って笑った。
その表情を見た透は、スープを口へ運びながら考えた。
彼女には食事の必要がない。
それを便利だと感じることもあるが、食べる喜びまで失っているのだとすれば、単純に羨ましがることはできない。今こうして他人から出された料理を味わえるのは、自分に身体があるからだ。
澪も、そのことは分かっているのだろう。
だからこそ、彼女の興味にはできるだけ応じてやりたい。
透はパンを少しちぎり、スープに浸した。
「こっちは外が硬めだな。中は柔らかい」
「おお。いいねえ」
「食べられないのに嬉しそうじゃな」
マルタが言うと、澪は胸を張った。
「見て楽しむのも立派な食事です!」
「それは食事じゃないだろ」
「透、今いいこと言ったところ!」
室内に笑い声が重なる。
透はパンを口へ運びながら、つい先ほどまでの緊張が少し和らいでいることに気づいた。
ここへ来てから、何もかもが分からないことばかりだった。人に会えば警戒し、言葉が通じるかを確かめ、町へ入るだけでも事情を説明する必要があった。
それでも、温かい食事が出され、目の前で澪が騒いでいる。
そんなありふれた時間が、今はありがたかった。
◇
食事を終えると、マルタは奥の棚から小さな木箱を取り出した。
蓋を開けると、中には数枚の薄い板と、銀色の縁取りが施された円盤が収められている。どれも掌に収まるほどの大きさで、表面には細かな線が刻まれていた。
「さて。まずは簡単に診てみようかの」
澪が姿勢を正す。
「それ、何ですか?」
「霊体の状態を見るための道具じゃ。大げさなものではない」
「痛かったりします?」
「普通なら何も感じぬ。じゃが、何か違和感があればすぐに言うこと。無理をして続ける必要はない」
マルタは円盤を机の中央へ置いた。
澪が興味深そうに近づく。
「これに触ればいいんですか?」
「触れる必要はない。少し離れたところにいてくれればよい」
「よかった。触ろうとしても通り抜けちゃうから」
澪は机の向こうへ移動し、円盤の正面で浮かんだ。
透もその様子を見守る。
銀色の表面は一見すると鏡に似ていたが、澪の姿は映っていない。代わりに、細かな線がいくつも重なり、中心へ向かって伸びているのが見える。
マルタは道具へ手を添え、静かに目を閉じた。
何かが変わった。
透はそう感じて、僅かに身を乗り出した。
空気が動いたわけではない。
音もない。
それなのに、机の上へ置かれた円盤の周囲だけ、見えない膜が張られたような感覚があった。
次の瞬間、刻まれた線の一部が淡く光る。
「……おお」
澪が目を丸くした。
「光った」
「動くなよ。まだ始めたばかりじゃ」
マルタは目を閉じたまま答えた。
透は澪を見た。
少女の輪郭は普段と変わらない。苦しそうな様子もなく、ただ興味深そうに円盤を眺めている。
ひとまず問題はなさそうだった。
ところが、光の線が円盤の中心へ集まり始めた時、透の胸の奥で微かな違和感が生じた。
「……?」
冷たい。
昨夜、澪に憑依された時とは違う。身体の中に何かが入り込む感覚ではなく、遠くから細い糸を引かれたような、説明しにくい感触だった。
思わず胸元へ手を当てる。
同時に、澪がこちらを向いた。
「透?」
「……何だ?」
「今、何か変な感じしなかった?」
透は動きを止めた。
澪も感じたのか。
マルタがゆっくりと目を開ける。
その視線が円盤から澪へ、そして透へ移った。
「……なるほどの」
声は静かだった。
「お主ら、互いの存在を感じ取れるのは、偶然ではなさそうじゃな」
透はマルタを見た。
「どういうことですか?」
「まだ断定はせん。少し確かめたいことがある」
マルタは円盤から手を離さず、透へ椅子を寄せるよう示した。
「トオル。お主もこちらへ来なさい」
透は立ち上がり、澪の隣へ移動した。
「俺もですか?」
「ああ。どうやら、その娘だけを診て済む話ではないらしい」
円盤の光が、もう一度淡く揺れた。
透は胸の奥に残る違和感を確かめながら、マルタの指示を待った。
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