第3話 二つの月の下で➄
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荷車が動き始めると、車輪の振動が荷台へ伝わってきた。
透は木箱の間に腰を下ろし、落ちないように片手で荷台の縁を掴んだ。道はところどころ荒れており、石を踏むたびに身体が小さく揺れる。
澪はその横へ座るような姿勢を取っていたが、もちろん荷台には触れていない。
「いいなあ、これ。初めて乗ったよ!」
「お前は、乗ってないだろ」
「気分は乗ってるの!」
澪は得意げに笑った。
透は苦笑しながら、御者台の方へ目を向けた。
ガルドは手綱を握り、時折動物へ短く声を掛けている。リナは後ろを振り返り、こちらの様子を気にしているようだった。
「トオルさん、気分悪くない?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「敬語じゃなくていいよ。そんなに年も離れてないでしょ?」
「そうか?」
「私、十四歳だよ」
「俺は十八」
「じゃあ、お兄ちゃんくらいだね」
リナが笑う。
澪はすぐに透へ顔を向けた。
「お兄ちゃん、だって」
「何だよ」
「透がお兄ちゃんだったら、すっごい厳しそう」
「お前が妹なら、毎日説教だな」
「それは、絶対嫌!」
リナがまた笑った。
「二人って仲いいんだね」
「そう見える?」
澪が嬉しそうに尋ねる。
「うん。ずっと一緒にいるみたい」
「実際には、まだそんなに長くないんだけどね」
「へえ、そうなんだ」
透は二人の会話を聞きながら、荷台へ背を預けた。
澪が他人と普通に話している。
見えているだけでなく、声も聞こえ、会話が成立している。大学では透が人目を避けながら応じるしかなかったのに、ここでは彼女の方から誰かへ話しかけても不自然ではない。
その違いは、想像していたより大きかった。
もっとも、理由は分からない。
この世界の人間が皆そうなのか、ガルド親子に特別な素質があるのか。それとも、転移の際に澪の状態そのものが変わったのか。
確かめるべきことが、また一つ増えた。
「ところで、ガルドさん」
透は御者台へ声を掛けた。
「何だ?」
「さっき話していた遺跡について、何か知りませんか?」
「古い遺跡? あぁ、森の奥のやつか」
「はい」
ガルドは少し考えてから答えた。
「詳しいことは知らんな。昔は祭殿だったとか、何かの術式に使われていたとか、話だけは聞いたことがある。今は誰も近づかん場所だ」
「どうしてですか?」
「崩れてるからだよ。道も荒れてるし、わざわざ行く理由がない」
危険だから近づかない。
それなら理解できる。
少なくとも、遺跡の周囲で何かが起きているという話ではないらしい。
「調べたいなら、町の教会で聞いてみるといい。古い記録なら、あそこに残ってるかもしれん」
「教会……」
「あぁ。昔の建物や術式のことを調べるなら、俺より詳しいやつがいる」
透はその言葉を覚えておいた。
教会。
この世界にも宗教施設があり、古い記録を管理しているらしい。転移に関わっている可能性のある遺跡について調べるなら、確かに頼れる場所かもしれなかった。
「町に着いたら、場所を教えてもらえますか?」
「構わんよ。まずは入れるかどうかだがな」
「……入れないこともあるんですか?」
「そりゃ、身元の分からん人間を無条件で通すわけにはいかんだろ」
透は口を閉じた。
当然だった。
日本でも、見知らぬ人間が突然現れれば事情を尋ねられる。ましてこの世界では、町の出入りに何らかの決まりがあるのかもしれない。
「身分証のようなものが必要ですか?」
「ああ。旅人なら通行証か、どこかの町で発行された身分証があるのが普通だ」
「……持っていません」
「だろうな」
ガルドは驚いた様子もなく答えた。
「その格好で森から出てきた時点で、普通の旅人じゃないのは分かってる」
「すみません」
「謝ることじゃない。町に着いたら、俺からも事情は話す。それで駄目なら、教会へ取り次いでもらうしかないな」
透は小さく頭を下げた。
まだ出会って間もない相手に、ここまで世話になるとは思わなかった。
ただ、今は遠慮している場合でもない。
「ありがとうございます。本当に助かります」
「礼は無事に着いてからでいい」
ガルドはそう言って、前方へ視線を戻した。
◇
荷車に揺られながら、透はしばらく周囲の景色を眺めていた。
森を抜けると、道の左右には草地が広がり、遠くには低い丘が連なっている。時折、畑らしい場所も見えた。石を積んだ境界や、木製の柵が続いているところを見ると、この辺りには人の手が入っているのだろう。
透が風景に思考を巡らせていると、鳥のような生き物が空を横切る。
今度は翼が二枚だった。
それを見て、澪が少し残念そうに口を尖らせた。
「普通の鳥だ」
「四枚のやつばかりじゃないんだろ」
「せっかく異世界なのに」
「全部が珍しかったら、何が普通なのか分からなくなるぞ」
「それもそうか」
澪は空を見上げながら頷いた。
透は荷台から見える地平へ目を向ける。
この世界には人がいる。
言葉も通じる。
町があり、商人が行き交い、古い遺跡を調べられる場所もあるらしい。
昨日の夜には一つも分からなかったことだ。
帰る方法が見つかったわけではない。それでも、何もないところから始めるよりはずっとましだった。
「……ねえ、透」
澪が隣へ戻ってくる。
「どうした?」
「私、ちょっと嬉しいかも」
「何が?」
「普通に話してもらえたこと」
彼女は御者台の方へ目を向けた。
リナはガルドと何か話している。時折こちらを振り返り、澪と目が合うと小さく手を振ってきた。
澪も笑顔で振り返す。
「前の世界では、透以外の人とちゃんと話せなかったからさ。ここだと、それが普通にできるんだね」
「……そうだな」
「もちろん、帰りたいよ。帰りたいけど」
澪はそこで言葉を切った。
「ちょっとだけ、ここに来てよかったこともあったなって」
透は彼女を見る。
その表情は、昨日カフェで苺のパフェを眺めていた時と少し似ていた。
失ったものを思い出すことはできなくても、今目の前にあるものを喜ぶことはできる。
澪はこの世界へ来てから、そういう小さな発見を少しずつ重ねているのかもしれない。
もっとも、原因を作った本人が満足してしまうのも困るが。
「帰る方法を探すのは忘れるなよ」
「分かってるって!」
「あと説教も残ってる」
「それは、忘れていいんだってば!」
澪が頬を膨らませる。
透は僅かに笑った。
こんな状況でも、いつもの調子で言い返してくる相手がいる。そのことに、少しだけ救われている自分がいるのも確かだった。
◇
昼を少し過ぎた頃、道の先に大きな石壁が見え始めた。
最初は低い丘の一部かと思ったが、近づくにつれて人工的に造られたものだと分かってくる。灰色の城壁が左右へ長く延び、その手前には広い道と、出入りを確認するための門が設けられていた。
城壁の内側からは、尖った屋根や塔の上部が覗いている。
「あれがレイヴェルだ」
ガルドが前方を示した。
リナも嬉しそうに振り返る。
「着いたよ、トオルさん!」
「……大きいな」
透は思わず呟いた。
遠目にも、かなりの規模の町だと分かる。門の前には荷車や徒歩の旅人が列を作り、武装した兵士らしい人間が順番に話を聞いていた。
今まで見てきた景色とは明らかに違う。
人が集まり、生活している場所。
見知らぬ世界で初めて辿り着いた、文明のある場所だった。
「わぁ……!」
澪が荷台の上へ浮かび、城壁を見上げる。
「透、すごい! 本当に異世界の町って感じ!」
「声が大きい」
「あっ、ごめん。でも、すごくない?」
「……まあな」
透も城壁から目を離せなかった。
門の向こうには、石造りの建物が並んでいるらしい。人々の服装も様々で、荷車を引く動物も先ほどのものとは少し違っている。
まだ何も分からない場所だ。
それでも、昨日の夜に遺跡で目を覚ました時とは違い、今は調べるための足掛かりがある。
透は鞄の肩紐を握り直した。
「ガルドさん」
「何だ?」
「ここは、どこの国なんですか?」
今さらではあるが、聞いておくべきことだった。
ガルドは少し驚いたように振り返ったものの、すぐに答えてくれた。
「セルディア王国だ。ここはその西寄りにある城塞都市、レイヴェル。旅人なら名前くらい聞いたことがあるだろう?」
「……すみません。初めて聞きました」
「本当に遠くから来たんだな」
透は曖昧に頷いた。
セルディア王国。
レイヴェル。
どちらも聞き覚えのない名前だった。
ただ、今はそれでいい。
ようやく、自分たちがいる場所に名前がついたのだから。
荷車は門の前で速度を落とし、旅人たちの列へ加わった。
ガルドが手綱を引く。
リナは荷台の方へ顔を向け、透と澪へ小さく笑い掛けた。
「大丈夫。父さんがちゃんと説明してくれるから」
「ありがとうございます」
透が礼を言うと、澪も隣で頭を下げた。
「ありがとうございます!」
リナは二人を見比べ、にこりと笑った。
その反応を見て、透は改めて実感した。
ここでは澪の声が届く。
彼女もまた、目の前の人間と同じ場所に存在しているのだと。
周囲から認識されている。それは、どんな立ち位置なのかまだ分からない。
だが、少なくとも今の澪は、もう透一人だけを話し相手にする必要はなさそうだった。
透は城門へ目を向けた。
帰る方法を探すこと。
澪が何者なのかを知ること。
そして、この世界で生き延びること。
考えるべき問題はいくらでもある。
それでも、昨日の夜よりは前へ進んでいる。
荷車がゆっくりと動き出した。
透は城壁の向こうに広がる未知の町を見据えながら、静かに息を吐いた。
見知らぬ世界での生活が、ようやく本格的に始まろうとしていた。




